4粒目『abaca(マニラ麻、またはその繊維)』アンマーガリンサンドの悦楽
『abaca』
―マニラ麻、またはその繊維。マニラ麻の和名は糸芭蕉。フィリピンはマニラが原産。
バナナの仲間であり、麻ではない。6mと巨大に育つ多年草。丈夫な繊維が取れる。繊維からはロープや布や紙ができる。日本で流通しているお札もマニラ麻が使われている。タガログ語由来の言葉である。―
「作りてえなあ。偽札」
熱帯の空をあおいで安西藤五郎がうめいた。
この時僕は角までこんがりと焼いた食パンにマーガリンをたっぷり塗ってかぶりつきたいなあ、と思っていたので、びっくりした。
そういえば昨日の夢は東京は町田駅近くの食パン屋さんで1個125円のアンマーガリンサンドをほおばるってやつだったなあ、と思いながら、僕は安西をにらむ。
「集中してくれ。作業に」
「だってもったいねえよお」
猫がばらまいた小判でも見るような目つきで、安西はクリーム色のフィラメントを眺め、そして背丈の割りに幅の狭い肩を落とす。
安西は東京で偽札の職人をしていた。誰がどうみても犯罪だし、実際安西の見た目も犯罪者だが、僕は謎の敗北感をいだいてしまう。こちらがマーガリンサンドを夢みている目の前で、安西は復職を渇望していた。
恐るべき職人魂。犯罪者だけど。
というのも、僕たちが船のロープにしようとしているマニラ麻は、日本銀行券、いわゆるお札の原材料らしい。しかも、熟練工である安西からしたら、この島に自生するマニラ麻はかなり良い代物らしい。
僕にとってはただの長くて固くて軽い、だからこそ頼りがいのある繊維なのだけど、安西にとっては宝玉の原石の山に見えるらしい。
けど、だから何なんだよ!?
と怒鳴りたい。だってここは無人島だし、僕達2人だけが漂着したし。椰子の実もバナナの木も生えているし木材も豊富だから飲み水だって海水を蒸留して作れるし、マニラ麻で網を作って漁もできるし魚は沖縄の居酒屋で出て来る変わった名前の焼き魚くらいには美味しい。
問題はない。あると言えば、ここが南海の孤島だということ。
マニラ麻はフィリピンにしか生えてないから、ここはフィリピンなんだけど……。
フィリピンには星と同じくらいの数の島がある。
救助を待って数カ月。僕はマーガリントーストに安西は偽札の製造に飢餓を抱いている。
「木材は確保したんだからさ。これで舟を作って、真水も椰子の実に貯めたし、魚も干したんだからさ。ロープができれば、後は海に漕ぎ出すだけなんだからさ」
押し殺した声で、言い聞かせる。それは僕自身にも。
本当は分かっているんだ。安西の手は早い。認めざるを得ない。さすが熟練工だ。
遅れているのは僕の方。あせっているのも。
……本当に食パンが食べたい。米ではない。寿司でもない。東京で一番食べていたのは食パンだった。特に町田のパン屋。安かった。飽き飽きしていた。
でも今はあれが食べたい。漕ぎ出すだけ、という言葉は僕自身にも向けられている。
とにかく、指にの先に集中。マニラ麻のフィラメントは軽いが硬い。でも、無人島の生活で鍛えられた僕の指は、同じくらいに強靭になった。
1か月後。船は完成したが、台風の気配がするという安西の言葉を真に受けて、崖の近くの洞窟に退避して白波を眺めていた日中。
船が通った。
僕は叫び。椰子の実をいくつも投げた。安西はフライパン、これは難破船から運んだ、をこれでもかと鳴らした。しかし船は、のんびりとしかし確実に島から遠ざかっていく。
膝から崩れ落ちそうになった瞬間。思い出した。
遭難時に一番必要なのは、鏡。たしか回収した一式の中にあったはずだ。ひげをそりたいからという安西を鼻で笑ったあの時の僕。殴りたい。殴打したい。
そんな暗い情熱と共に崖の上に駆け上り、落下しかけながらも頭上でかざす。
透明な光が筋になった気がした。
光は舟に届いた。小型の警備艇が、島に引き返してくる。
喝采が口から弾ける。泡まで吹いてしまう。
とにかく鏡を向け続ける。手もふる。もう大丈夫だ。
今なら安西ともハグできる、と思って彼の姿を探したけど……。
消えていた。
洞窟にもいなかった。
「安西?」
疑問の声は熱帯の潮風にまぎれて消えた。
僕は浜辺におりて、船からボートでくるフィリピン人に、思いつく限りの自己紹介英語を叫んだ。
名前、国籍、年齢、血液型、それとアンマーガリンサンド。
そうして、強い波も意にかいさず、足を踏み入れ、じゃぶじゃぶと進む。
ボートの職員が何かを言ってくる。
が、僕は聞き取れなかった。視線はボートの後方。警備船。
波を水泳選手ばりのクロールでかきわけて、安西が船にたどり着き、垂らされたロープに到達。よじ登り、デッキで僕らを眺めていた職員たちをまとめて殴り飛ばし、海に放り込む。
浅瀬でも波は台風を受けて白い。職員たちの悲鳴が波音に混じって届く。
安西は彼らを一べつ。それから僕に、何故かウインクをして、操縦室に消えた。
「安西いいいいい!!!!!!」
僕は波間に消えていく警備船に叫ぶ。
フィリピン人たちも何かを叫んでいる。
僕の口の中が甘くなった。潮風の辛さが消えた。べっとりとした安っぽい甘さ。
そう。アンマーガリンサンド。
……結局、あの時の絶望は僕の勘違いで、3日後、僕と警備隊員たちは救助された。
台風の通過した海は平和の象徴のような凪で、水平の遠くまで青く輝いていた。
救助船の警備は厳戒で、多分安西のせいだ。
ちなみに台風のために通信に不具合が起きていて、つまり位置情報の把握に困難があったこの島に、そんなに速やかに警備艇が派遣されたのも……。
安西のおかげらしい。
警備艇をジャックして、何処かの港にたどりついた安西は、電話ボックスからちゃんと島の位置情報を連絡してくれた。
だから僕は彼を恨まない。だって、安西には安西の事情がある。彼は犯罪者だし、国際的に指名手配されているし、逮捕されたら偽札は作れなくなってしまう。
ということで、僕は無事に日本に帰国してから数年たった今でも、アンマーガリンサンドをかじるたびに、安西のことを思い出す。焼かないと食べれないバナナの青臭い味も口の中によみがえる。
そんな時は財布からお札を取り出し表面を、東京の生活ですっかりと柔らかくなった、指の腹でなでる。
そうして、もしかしたら、このお札は安西の作品かもしれない、などと思う。
お札は、つまり日本銀行券の原料は、マニラ麻だからだ。