33粒目『abdomen:腹部、腹腔、節足動物、虫とかエビとかの体の後部』カリブガンズ 5th wave
登場人物
エドワード・エブリデイ:海賊船『御婆様号』の船長。普段はエドと呼ばれる。まだ若いが、卓越した操舵技術と並みいる者の数少ない剣の腕は、先代ゆずり。寄港前の占いで、吊られた男のカードを引いている。
モルガン:御婆様号の副船長。こわもてだが、先代の姿とエドを重ねては涙ぐむ。
ヘンリー:操帆長。元海軍士官。あせっている時ほど物言いが冷静沈着になる。
鳶色の瞳の女性:酒場の裏の、小さな樽の山を崩した。樽に転びかけたエドから逃げ、表通りで騎士に襲われた。
前回までのあらすじ:
貿易都市シェラスの寄港にあたって、若き海賊船長エドはタロット占いをし、吊られた男を引く。
楽しみだなと笑うエドだったが、シェラスでの荷下ろしはすんなりと済み、慰労の酒宴が催された。
エドはからみついてくる女たちに嫌気がさし、酒場の裏手に出ると、樽に転びかけた。
樽の山を崩した犯人を追いかけることにしたエドは、鳶色の瞳の女性を見つけたが、逃げられた。
表通りに出たエドは、領主お抱えの騎士が彼女を襲うのを目撃。
体が勝手に動き、騎士に体技を仕掛けて気絶させる。
我に返ったエドは、騎士団に喧嘩を売ってしまったと青くなるが、気が付けば鳶色の瞳の女性を肩に担ぎ上げて表道を逃げ出していた。
『abdomen』
―腹部、腹腔、節足動物、虫とかエビとかの体の後部。
語源はラテン語のabdominから。―
茹で上がった大海老は、爪先と尻尾が皿からはみ出るほど大きく、殻の表面では、その鮮やかな赤の上で、蝋燭の明かりが暖かくゆらめいていた。
エドはまず大海老からのぼる湯気に両手をかざし、指先で何度かつついてから、綺麗に整った鼻の先を、すんと小さく鳴らした。
「食おうぜ」
皿の横にはナイフとフォークが添えられていたが、エドは無視。
ためらいなく手づかみで皿から取り上げ、両手で首をごりっとねじり、外す。
黄色がかった橙の汁が皿に垂れて、エドは小指の先で一度その液体をなめてから、横に海老の頭部を置き、丁寧に殻をむいていく。
むき身の海老は、かぶりつくと旨味が凝縮していて、尻尾まで弾力があり、若き船長は白のワインが欲しくなるが、注文は控える。
飯を食うために、この店に入ったのではない。
テーブルの向こうでうつむく女と、話をするためだ。
黒髪の豊かな彼女は、エドが彼女を抱えて石畳を駆けあがり、主のいない貴族の館の、荒れた敷地を突っ切るまでは、じだばたとし、わめき続けていた。
― でも、分かんねえなあ。―
駆けるのに必死だったが、それでもエドは女のわめき声を、ちゃんと聴いていた。聴くという能力は、御婆様号の一団を率いる上で、とても大切な資質である。
部下が、口髭の奥から発する言葉ではなく、そこに含まれた意志や、感情、迷いや決意に耳を傾けることで、エドは正しい判断ができる。実際、先代から船長の地位を引き継いでから、エドは、少なくとも彼の職務においては、間違えたことはない。
だから、その夜、石畳を駆ける逃走の間も、エドは女の意志や感情に耳を澄ませていたのだが、そうして、肩の上の彼女を理解しようとしていたのだが、結局、彼はますます分からなくなった。
女はじたばたとし続け、黒髪もふり乱されてエドの視界をふさいだりしたが、その声はぎこちなかった。
『下ろしなさいよ、馬鹿!!!』
とののしり続けるだけなのに、馬鹿、の言葉の前に、迷いがある。
加えて、罵倒の語彙がおそろしく貧弱だ。シェラスの公用語はスペイン語だが、庶民の言葉にはフランスやイギリスの言葉やなまりが混ざっている。これは植民都市シェラスの所有者が、100年の間にスペイン、イギリス、フランス、そしてまたスペインと変わり続けた結果なのだが、女は綺麗なスペイン語を話した。スペインの生まれなのかもしれない。だとしたら、人買いにさらわれてこの島まできたのか。
女がまとうローブの布は粗いし、野良犬の糞尿のような、鼻にこびりつく臭いがする。
逃亡奴隷か。
― 違うよなあ。―
騎士団に追われる逃亡奴隷の話など、エドは聞いたことがない。
熱帯の夜を、月明かりを頼りに椰子の木立の間を駆けながら、エドは楽しくなった。
聞いたことのないこと、いわゆる未知に、エドの心はおどる。それがどんな種類であれ、楽しくなるのが、若き船長の性分である。
椰子の木立の裏手は、エドが駆け抜けた先は、切り立った崖となっていて、下には運河が流れていた。
エドは女を肩に抱えたまま、後方をちらりと振り返る。
騎士団だろう、松明が複数。蜘蛛の赤い目のように、闇の向こうから近づいてくるのが、エドには分かった。
だから、若き船長はしっかりと彼らに向き直り、半月を背にしたために地面に黒く長く伸びた影に、一瞬目を落としてから、ふたたび騎士団に碧眼をすえて……。
とん、と後方、はるか下の運河に飛んだ。
同時に、肩の上でじたばたしていた女が、
「きゃああああああああああああああああああああ!!!!!!!」
と、絹を裂くような声をあげた。
その絶叫はすさまじく、エドの耳は痛くなり、片方だけでもふさぎたかった。
が、そんな余裕はない。身をねじり、騎士団から奪った剣を崖に突き出す。
刃先で、岩の表面をなぜる。
エドはそうして落下の勢いを殺そうとしたし、実際成功した。
それは丁寧な作業だった。
突き立てるだけなら簡単だが、それだと、いくら騎士の剣でも折れてしまう。
ほんの少しだけ、月明かりに浮かぶ凹凸に、引っ掛ける程度でいい。
操作は精緻が要求された。が、エドは慣れていた。
海戦時、エドはよく敵船に乗り移っては、身軽さを生かしてマストにのぼる。
そして敵の船長を探し、飛ぶ。
腰から抜いた曲刀が帆柱をひっかき落下の勢いを殺し、エドは船長を碧眼にとらえたまま柱を蹴り、空中を砲弾のように飛んで、そのまま敵の一団に突っ込む。
猿みてえだな、とモルガンに呆れられ、東洋の曲芸師のようですね、とヘンリーに肩をすくめられるが、エドは笑ってジンをあおるだけだ。戦いを早急に済ませる手段があるなら、迷うべきではない。
先代から船長の座を引き継いだ時点で、エドの腹の底に、覚悟は重くすわっている。
「ぁぁああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!」
着水の直前まで、女の悲鳴は続いた。
感心するくらいの肺活量。この女は船乗りの素質があるかもしれない、と少しだけ思いつつ、エドは崖に横蹴りを放つ。
二人の肉体は銀糸の夜にアーチを描き、暗い水の表面に白い柱が上がり、そして消えた。
……泳ぎは船乗りの基本だし、だからエドにとっては走るよりも楽な作業だった。
が、女を抱えて泳ぐという経験はなかった。
なので、若き船長は水中で川面を目指しながら、頭上で揺れる半月に碧眼を細めながら、不安に思った。
― こいつ、あれだけ叫んで、息、大丈夫かな? ―
水中で暴れられたら、さすがに水底に放り出すしかない。あるいは気絶させるか。
エドにとって幸運なことに、その懸念は杞憂に終わった。
女はエドの肩の上でぐったりとしていて、つまり着水の前後で気絶していたのだった。
気絶は、二人が小舟の老人に拾われ、得体の知れない積み荷の中にかくまわれながら運河を下って、夜市の荷下ろし場に着く直前まで続いた。
この間、エドは老人と世間話をしつつ、ひたすら月が雲に隠れるのを祈り続け、やっと隠れた時に安堵のため息をついた。月が隠れたから、もう騎士団は二人を追えない。
小舟から降りる時、エドは騎士の剣を、闇市で売ってくれよ、と老人に渡した。
それから、まだ船にいる女、その瞳に視線を定める。
鳶色の双眸には、宝石の中で炎が揺らめくような美があったが、女の黒髪がぐっしょりと濡れて少しだけ哀れだったせいか、エドは彼女に妙な親近感を覚えた。
「降りるか?」
差し出す手を、女が取らない場合を、エドは考慮に入れる。
と、胸に小さな痛みが走った。
が、それでもいい、とエドが思ったの時、女は積み荷の山に手をついて、上体を起こした。
そうして、ぐらぐらと頼りなく揺れながら、縁まで歩いて、そして、エドの手を取る。
水で冷えているが柔らかい手の感触に、エドの心臓が動いた。
……小舟を降りて、夜市の明かりに、光の群生のような区画に向かう間に、女は何も話さなかったし、エドも時折振り返って、彼女がしたがっていることを確認するだけで、無言だった。
熱帯の夜は生暖かく湿っているから、凍えることはないが、火にはあたりたい。
びしょ濡れの髪は拭きたい。女のローブは運河の水に離れ流れてしまい、繊維の粗い布が、ささやかな凹凸に張り付いているだけだ。
代えの服を用意してやりたい、とエドは思い、だからできるだけ治安の良くない通りを選ぶことにした。
どの港にもごろつきはいるし、治安の悪い区域は彼らの縄張りだし、そしてエドにとっては、ごろつきの群れは、川辺のベリーの群生と変わらない。
野の果実は動かないが、ごろつきは向こうから寄ってきてくれる。あとは、優しく意識を刈り取るだけだ。彼らはおしなべて、騎士団よりも弱い。勘もにぶいから、背丈とか、そんな根拠の薄い情報を頼りに、売ってはいけない相手に喧嘩を売る。
通りを1つ抜ける間に、エドは5人のごろつきを倒し、そして迷惑料をちゃんといただいた。
収穫は、銅貨の袋が3つと、銀貨が10枚。そして金貨が1枚。
女の服、そして剣を買うには十分な額だ。
夜市の区画の隅には焚火の場所もある。ここで宿なしたちが寝起きをする。混ざって火にあたっても、誰も文句は言わない……と、エドはモルガンから聞いたことがある。
ごろつきの区画を抜けたエドは、まずここで焚火にあたることにした。
焚火の周りには、くすんだ布をまとった男たちがいて、ひとしくフードを深くかぶっていた。
彼らは、串にさされて荒れ地の墓標のようになっている、肉や魚が焼けるのを待っているのだが、エドは銅貨を1枚払って、焼きあがりの近そうな魚の串を1本もらった。
「食えよ。腹、すいてるだろ」
エドの言葉は善意だった。
が、女のつるりとしたあごが引き、袖から出た肩が震えた、
若き船長は少し驚いてから、色々と思い返しつつ、魚の串を碧眼の上に掲げた。
……どこの海でも獲れる熱帯魚だ。
腐っているわけでもない。多分朝に水揚げされて、市場で余った分が捨て値となった。
たしかにそこまで美味いとは言えない魚だが、奴隷ならこれでも贅沢品だ。
― 美味いもんしか、食わされてねえのかな。―
エドの脳裏に浮かんだのは、領主の愛玩奴隷という言葉で、同時に若き船長の胸はえぐれた。
「行こうぜ。この街の名物、食わしてやる」
エドは立ち上がり、膝をまだ抱えている女に、手を差し伸べた。
銀貨1枚で上等の大海老を出してくれる食べ物屋がある。
夜市でも少し気取った区画で、陽が沈むと店を開き、星が消えるまで閉めない。
浮浪者は入店を断られるが、綿の服さえ着ていれば大丈夫だし、どんな会話をしても、秘密が外に漏れることはない。つまり、この女の話だって、ちゃんと聞いてやれる。
エドはそう判断しつつ、女にその口角を、できるだけ柔らかく上げた。
夜市で男女の服と、剣、そして巡回の騎士対策に仮面を2つ買い、しっかりと着替えてから、エドはその店の軒をくぐった。
外壁と同じ、白煉瓦の壁に囲まれた店内はそこまで広くはなく、テーブルは4つ。
四隅に掲げられた燭台は銀製で、蝋燭の明かりが暖かく客席を照らす。
そんな店に先客は一組だけで、白髪の混じった髪を後ろになでつけた男たちが、お互いに身を寄せ合って、何やら真剣に話し込んでいる。
エドは鳶色の目の女よりも先に席につき、着席をうながす。
と、やはり彼女は戸惑いを顔にあらわした。
― ……? ―
不満という顔ではない。ただ、本当に困っている。
エドが、どうした、と声をかけようとすると、女中が注文を取りにきた。
下瞼がぼってりと厚い目で、エドの連れを見て、小さく肩をすくめて椅子を引く。
鳶色の目の女は、ほっとした顔をして椅子に座った。
その仕草に、エドは見とれてしまった。綺麗な仕草だった。酒場の女たちに勉強させてやりたい、とエドは思った。客の気も大きくできるだろうし、稼ぎも増えるということは、次の寄港までに、女たちは無事だということだ。稼ぐ分には奴隷に落ちることはない。
つまり、船員たちは別れの喪失に傷つかなくても済む。
エドは銀貨を5枚渡し、大海老を2尾分頼んだ。
「海老しか分からねえからさ。あとは姉さんに任せる。美味いものを出してくれ」
若き船長の言葉に、女中は破顔して、奥に引き返した。
前菜の野菜と肉のパテ、煮詰めた果物と香ばしいパン、そして出てきた大海老を、エドは全部手づかみで食べた。
鳶色の瞳の女は、パン以外はナイフとフォークを使ったが、大海老を切り分けるのはためらった。
「食わねえのか? 良いんだぜ? ナイフでもフォークでも、口に入れて美味けりゃ天国だ」
海老の白い身をほおばりながら首をかしげるエドに、女は首を横に振った。
「ナイフとフォークしか、教わってない」
「まあ、人間ってのは色々あるからな。だから、あんたが知ってるやり方で食えばいい」
うつむく女の額を覆う黒髪に、蝋燭の橙が踊っている。
銀貨を6枚にしても良かったな、とエドは惚れ惚れする。
良い時間だと思いながら、海老の身をそしゃくし、呑み込み、またかぶりつく。
そんなエドに、女は顔を上げた。
鳶色の瞳に、蝋燭の暖色がきらめきながら重なる。
「……ナイフとフォークが正しいと思ってた。でも、違うのかもしれない、と思った」
「何が違うんだ?」
首をかしげるエドの碧眼を、鳶色の瞳が見据えた。
不意に女性は視線を逸らし、小さく首を横に振る。
「あんたの食べ方の方が、美味しそうだと思った」
悔し気なその声に、エドの口元はほころんだ。
「名前、教えてくれないか? あんたの、さ」
エドの問いかけに、鳶色の瞳の女性はしばし沈黙してから、
「……アントネッタ」
と答えた。そして、
「アントネッタ・メアリ・エル・シエラス」
と付け加えた。
瞬間、エドは海老の身でむせ、鼻の周りを赤くしながら、せき込んだ。
アントネッタ・メアリ・エル・シエラス。
エル・シエラスは、シエラスの領主という意味。
そして、領主には娘が1人いる。
つまり、目の前の鳶色の瞳の女性は……。
エドはとりあえず、そっか、と言って笑った。
引きつろうとする口元を柔らかくするのに、若き船長は苦労した。
不意に、吊られた男の、タロットの柄が、脳裏に閃く。
領主の一人娘に手を出した。これは、吊られるだけで済むなら安い話である。
皿が割れる音が立ち、エドとアントネッタが顔を向けると、女中があんぐりと口を開けて、ぼう然としていた。
アントネッタ・メアリ・エル・シエラスの告白を聞いてしまったのだろう。
エドは同情を覚えつつ、立ち上がり、金貨を一枚、袋から取り出して女中の手に握らせる。
「黙っててくれよな。俺たち、大変だからさ」
本当に大変だ、とエドは思った。
― ……けど、楽しいかもな。―
割れた皿のかけらを拾うのを手伝いながら、エドは長い夜を予感し、アントネッタに気づかれないように、小さく首をすくめた。