31粒目『abdicate:退位する。権利、責任などを放棄する』カリブガンズ 3rd wave
登場人物
エドワード・エブリデイ:海賊船『御婆様号』の船長。普段はエドと呼ばれる。まだ若いが、卓越した操舵技術と並みいる者の数少ない剣の腕は、先代ゆずり。寄港前の占いで、吊られた男のカードを引いている。
モルガン:御婆様号の副船長。こわもてだが、先代の姿とエドを重ねては涙ぐむ。
ヘンリー:操帆長。元海軍士官。あせっている時ほど物言いが冷静沈着になる。
前回までのあらすじ:
貿易都市シェラスの寄港にあたって、若き海賊船長エドはタロット占いをし、吊られた男を引く。
楽しみだなと笑うエドだったが、シェラスでの荷下ろしはすんなりと済み、慰労の酒宴が催された。
エドはからみついてくる女たちに嫌気がさし、酒場の裏手に出た。
『abdicate』
―退位する。権利、責任などを放棄する。
語源は離れるのabに宣言のdicere。王座を離れると宣言することが退位なのです。
放棄についても、裏を返せば、王座につくものには権利と責任があるという考え方があり、ちょっとかっこいいかもしれないと思います。―
酒場の裏で、エドは転びかけた。
先ほどまでの蝋燭の灯に慣れていたためか、若き船長の碧眼には周囲の闇が濃く映る。
見上げると紺色の夜空。浮かぶのは脈打つような立体の、しかしぼんやりとした雲だ。
エドは右手の人差し指と親指で小さな輪を作り、雲の向こうの月を探す。
その間に潮風がゆるく裏路地を伝って、船長の髪を揺らすと同時に、月を見つけた。
レモンの房のような半月が、あいまいな雲を白く染め抜いている。
風がゆるいので、月は雲を抜けるまでもう少しかかるだろう。
と、考えることができる分、冷静だとエドは思う。が、断定できるほどの自信はない。
「何かに転びかけたのって、いつだったかな」
思い出そうとするが、エドにはそんな経験はなかった。
天性のバランス感覚と、動物並みの勘がエドの足元を常に支えてきた。
だから、何かに転びかけるという体験は、エドには初めてであり、少なからぬ衝撃を若き船長に与えた。
頭をかすめるのはタロットカード。吊られた男だ。
これが前触れなのか。それは海は荒れる前に吹く異質な風のような。
闇の中で、エドの口角は上がった。
「楽しいなあ」
つぶやいて、エドは足元にしゃがみこんだ。
闇に目が慣れて、両手はちゃんとそれに触れる。
小ぶりの酒樽。ザラザラと皮膚にささる木の感覚。曲面。これは普段、酒場の裏に積まれているものだ。ちゃんと取っ手もある。酒宴の初めに男たちはまずこれを掲げて、乾杯をする。
酒場は乱れるためにあるが、備品の管理をなまける店はすぐにつぶれる。
海でもそれは同じで、つぶれるというよりも、沈む。だから副船長のモルガンはいつも青筋を立てて船内を見回るし、操帆長のヘンリーは愛おしむように帆をたたむ。
暗闇の中、エドが目をこらすと、そこらかしこに酒樽が転がっていた。
「つまり誰かが崩した」
普段は整然と積まれているべき酒樽の山を。この酒宴の夜に。
御婆様号の一団は名が知れている。だから海でしかけられることもそれなりにあるし、エドは相手の船をちゃんと海の藻屑にする。それが海賊の礼儀だからだ。
けれど、寄港地で喧嘩を売られた経験は、エドにはあまりない。陸は海賊の日常ではないし、戦闘で問われるのは喧嘩の腕っぷしだけだ。そしてエドの一団は強いから、この街で喧嘩を売ってくる馬鹿は……。
「ジョンのちょび髭野郎かなあ。でもあいつならもっと派手に仕掛けるだろうしなあ。わかんねえなあ」
頭をかき、インド綿のシャツの肩をすくめて、エドは闇の中を歩き出した。
酒宴の中で船長が店を離れても、責任を放棄したことにはならない。船長が手腕を問われるのは海の上だし、先代も宴の席に船長服を残して、朝まで戻らなかったことなど多々あった。
エドもちゃんと、船長服を玉座にかけてきた。誰も心配しない。せいぜい揶揄されるくらいだ。
熱帯の湿った夜風の中で、頭の中が整理されていく。
酒宴の夜に店の裏で酒樽が崩された。シェラスの街は情報の巡りがはやい。しかもエドの一団はそれなりに恐れられている。
誰かが酒を盗もうとして、崩したか。盗むなら別の店だ。喧嘩未満の嫌がらせか。それならもっと別のことをする。手っ取り早いのは、焼き討ち。それならそれで楽しいのに、とエドは思う。
何にせよ、誰がどういう意図で樽の山を崩したにせよ、変わらない事実がある。
エドは散らばった樽に転びかけた。人生で初めての経験。
何事にも、つまり航海にも戦闘にも、初めてという物事には楽しむ権利と処理の責任がともなう。
そしてエドはいかなる権利も責任も、放棄するつもりはない。
だから、若き船長は、崩した奴の顔を見る必要がある。どうするかはその後に決める。
肩に手をまわして酒宴に誘うもいいし、気に入らなければぶん殴るのもいい。
望ましいのは前者だ。
船長服を台座にかけてきたのは正解だった、とエドは思う。どんな相手にせよ、萎縮させるのは本意ではない。誘うにせよ殴るにせよ、相手には堂々としていてもらいたい。
樽は崩れてから時間が経っていない。船員たちはひたすら飲んでいたし、酒の追加は途切れることがなかった。店員が裏から酒を取ってきた時には、樽は整然と積まれていたはずだ。おそらく直後に山は崩れた。誰かが崩した。乱痴気騒ぎで音はかき消された。
店員と入れ替わりに、エドは裏に出て、転びかけた。多分そんなに離れていない、と若き追跡者は思う。エドの目は闇に慣れ、碧眼は路地に浮かぶ立体を確実にとらえている。
かかとは地面を蹴り、気が付けば走っている。
どうせなら、月が雲から出る前に見つけたい、とエドは望む。
闇は追跡をはばむが、音を立てなければ、相手にも気づかれにくい。
「見つけたぜ」
エドが声をかけたのとほぼ同じ瞬間、雲が切れて月の銀が路地を満たした。
若き船長はその目をみはった。原因は……。
「近寄らないで」
という硬い声に、嫌悪が溢れていたからではない。
声の主が女性だったからでもない。
銀糸に浮かんだ黒髪が豊かで、白くなめらかな額に落とす影がくっきりとしていたからでもない。
裏路地にへたり込んで、折られた膝が頼りなかったからでもない。
胸の前で交差する腕が、華奢な体に巻かれたローブの肩を、固くつかんでいたからでもない。
理由はただ1つ。
エドの心が、目の前の2つの瞳に、その挑むように燃える鳶色に、奪われたからである。