30粒目『abc approach:エービーシー方式。ジョージブッシュ政権が推進したエイズ防止策』ゆっこ⑤
『abc approach』
―エービーシー方式。ジョージブッシュ政権が推進したエイズ防止策。
abstinence,being faithful,controlled use of condome。
禁欲、誠実、コンドームの制御された使用。
意訳すると……。
『しないのが一番安全。お前らが誠実で、やる相手がパートナーだけなら感染しようがない。それでもするならちゃんと使え。コンドームをな!!!』―
「大丈夫か? 田中」
吉橋があたしをスルーして、ゆっこの前に立って、自然すぎるくらい自然な仕草で、この子のおでこに手のひらをあてた時。
つまりそのごつごつとした太い指たちが、ゆっこの帽子の下の前髪をかき上げた時。
あたしは虚を突かれたというか、軽蔑の矛先を失ったというか、一言であらわすと豆鉄砲を食らった鳩状態になった。
一方、吉橋に絶賛片思い中のゆっこはというと、それはもう鳩に豆MAP兵器といった感じで、目はぐるぐるに渦を巻き、真っ赤な耳からは湯気が噴き出す勢いで、筋肉質な肩の上に広がったショートの髪先もアフロに爆発しそうな勢いを、あたしは感じてしまった。
「熱でもあんのか? 田中」
吉橋はけげんに訊く。ゆっこは限界をとうに越している。上下の唇は酸欠の鯉みたいにぱくぱくしている。恋だけに。
で、あたしはどうすれば良いのか分からずに、我ながら情けないくらいにおろおろするばかりである。
……そんな状況を打破したのは、水柿さんだった。
ワンピースの裾をひらめかせて、彼女は吉橋とゆっこの間に割り入った。
裾には甘いピンクの薔薇が散っていたから、あたしは花がそっと舞ったような印象を受けた。
柑橘系の香水もふわりと香った。
水柿さんはそのまま無言で、吉橋のD&Gのシャツのみぞおちに手のひらをあてる。
ノーブルレッドの厚底ヒールのパンプスの踵が両方、同時に上がり、水柿さんのささやかな、ふっという吐息と共に下がる。
次の瞬間。吉橋は109の床のタイルに、両膝から崩れ落ちた。
「駄目だよ。とも兄。女の子のおでこは勝手にさわっちゃ駄目なんだよ」
白目をむく吉橋を見下ろして、優しくさとす水柿さん。
水柿さんは、あたしたちと同学年のスポーツ特待生だった。
伝統空手の選手で、推薦状を片手に他校に移っていった女の子。
水柿さんに関する知識はそれだけだった。
まさか、30歳の近い吉橋という男を無力化しちゃう、格闘家だったなんて。
伝統空手って、こんなに恐ろしいのか。
いや、それよりもとも兄って。吉橋のフルネームは吉橋友也。
友也のともに兄をつけて、とも兄ということは、水柿さんは必然的に、吉橋の妹となる……のか?
ゆっこの意見が聞きたい。けどゆっこは吉橋の背にしゃがみこんで、おろおろするばかりだ。
この子は完全に混乱している。いや、それはあたしもだけど。
……騒ぎが起きる前に、全部を解決してくれたのは、水柿さんだった。
彼女はショップの店員さんが来る前に、つまり白目をむいて崩れた吉橋の周囲に人だかりができる前に、吉橋の後ろから脇に両手を挟み込んで、ぐっと気合を入れて、意識を回復させて、それからふんわりパンケーキで有名なカフェにあたしたちを誘ってくれた。
で、生クリームの上にベリーやミントやバナナが散ったパンケーキをナイフとフォークで切り分けながら、判明したこと。
水柿さんは吉橋の姪さんだった。
吉橋は3人姉弟の末っ子で、長女であるお姉さんと15歳離れており、物心がついた時にはお姉さんは結婚していて、水柿という姓になっていたという。
で、吉橋が14歳の時に水柿さんが生まれた。吉橋の実家は沖縄で、つまり水柿家も沖縄にあり、しかも琉球空手の道場も開いていたので、水柿さんは自然と伝統空手を学び、護身としてそれだけでは不安だったので、上京を決意した時から、祖父の知り合いの中国人から拳法の手ほどきを受けていたそうだ。
そして、現在……。
「いいい、一緒に住んでるの!?」
ゆっこがびっくりした。
水柿さんはワンピースの肩を軽くすくめた。
「うん。セキュリティと家賃の節約の両方でね。ママはともかく、パパはとも兄なら安心だって、妙に信じちゃってるから。まあ、あたしも、とも兄ならいいかって感じだったし、実際楽なんだけどね。オリンピックの強化選手に選ばれるかもしれないって、最近連絡がきたの。本当に内定したら、アパートを出て、寮に入らないといけないから。今日はそれを見越して、とも兄に買い物付き合ってもらってた、というわけ。とも兄むさいから、ナンパ避けにもなるしね」
「人を蚊取り線香扱いするな。俺はお前の保護者代理だ」
むっとする吉橋に、水柿さんがふふっと笑う。
ストロベリーソーダのストローをつまむ指が綺麗だ。
あたしはちょっとほれぼれとしてしまう。
……でも、オリンピックか。選手村に入ったら、水柿さんにもコンドームとか配られて、恥ずかしそうに受け取るんだろうか。と、不謹慎な妄想をしつつ、あたしは水柿さんにラインの交換を申し込む。
将を射んとする者はまず馬を射よ。ことわざの本で偉いだれかが言ってた。
水柿さんは快諾してくれた。
あたしはちゃんと喜んで、ゆっこに目配せを試みる。
ほら、あんたも申し込みなさいと、意志を疎通するためだ。
が、ゆっこはパンケーキに視線を落としたまま、もじもじしている。
恥ずかしがり屋め。まあ、とりあえずあたしがゲットすればいいのか、と、あたしはノアールのぼてっとしたバッグから、スマホを取り出す。