3粒目『Aaron(アロン・アロンの杖・天鵞絨毛蕊花)』フロランタンタン①
『Aaron』
―アロン。古代イスラエルの大祭司。モーゼの弟。または薬用植物の天鵞絨毛蕊花。あるいはアロンの杖。アロンの杖はエジプトで9つの災いを引き起こした。触れた水を血に変え魚を死に至らしめ、蛙の大群を出現させ、ブヨやアブを大量発生させ、疫病を流行らせ、雹を降らせ、イナゴの大群を発生させた。災いの他にも、杖自体が蛇に変わる、振り下ろして海を割る、先端から芽を吹き、つぼみを付け、花を咲かせ、アーモンドの実を結ぶなど用途の多彩な杖である。―
黒く暗く大地を濡らしていた雨雲が割れ、光がさしてアーモンド形の空が現れた。
わたしは庭に出てその青に目をこらす。本格的にあがったのだろうか。雨は。細かな雫が大気には残っていて、ぱらぱらと落ちてきては頬やおでこを濡らしてくる。
また降るのだろうか。洗濯物はまだ干せないか。とりあえず焼き菓子でも作ろうか。
などと考えあぐねていると、玄関の方から声がした。
「天花。いるのかいないのか。俺様が来たのだ。小躍りして迎えろ」
「小躍りはしないけど待って。今行く」
玄関の方に歩くと、阿黒君が立っていた。半年ぶりの彼の手には、とても古そうでしかもボロボロな、縦にとても長い包みが握られている。
眉間が寄るのが自分でもわかった。
「何それ」
「ふっふっふ」
阿黒君はとても邪悪な笑みを浮かべた。元はとても上等だったはずの白いコートは、これはわたしがプレゼントに贈ったのだが、ホコリや乾いた泥の色に変色して、コートの肩に落ちる髪もいくつもの硬そうな束となっている。阿黒君は何日お風呂に入っていないのだろう。または、何か月、お風呂のない文化の土地をさまよっていたのか。
「これはアロンの杖だ。悲願念願宿願懇願の杖を、俺はついに手にいれたのだ!!!!!」
「懇願はよくわからないけど、おめでとう。で、アロンの杖って何?」
わたしの問い答える代わりに、阿黒君は包みをするするとほどいて、雲間の青に向けて高くかかげた。
「HNMUAKM!!!!」
ころん、と冷たい小石が落ちてきて、おでこに当たった。
地面に落ちたそれを拾いあげる。氷の塊、雹だった。
わたしは阿黒君に首をかしげる。
「どういうこと?」
「奇跡を起こしたのだ。今回は手加減したが、集中豪雨並みの雹を降らせることもできる。古代イスラエルの神の杖、アロン。かっこいいだろう?」
子供みたいに笑う阿黒君に、わたしは返事をせずに、まじまじとその奇跡の杖を見た。
古い蛇のように曲がりくねった木の杖。先が花の形をしている。何の花だったかは忘れた。
「他に何ができるの?」
「触れた水を血に変える。海も血の海になる。蛙の大群を出現させる。ブヨやアブを大量発生させる。疫病も流行らせる。1億粒の雹を降らせる。イナゴの大群を召喚」
「杖というより兵器ね」
「他にもまだあるぞ。海を割る。芽を吹き、つぼみを付け、花を咲かせ、アーモンドの実を結ぶなど、神の奇跡にふさわしい」
「え? もう一度言って」
「海を割る。芽を吹き、つぼみを付け、花を咲かせ、アーモンドの実を結ぶ」
けげんな顔で繰り返した阿黒君の杖をもっていない方の手を、わたしは両手で取った。
「阿黒君」
「何だ」
「アーモンドフロランタン作りたかったの!!!! 手伝ってくれる、よね?」
上目遣いのわたしから、阿黒君は目をそらした。
何年たっても阿黒君は阿黒君だと思う。
「まあ、やぶさかではないが」
「ありがとう。とりあえず入って」
「俺は10枚食べるぞ!!!!」
「何枚でもいいよ。アーモンドが美味しければ」
その日の午後、阿黒君は11枚のフロランタンを食べた。
わたしも3枚つまんだ。アロンの杖産の薄切りアーモンドが香り高くて、とても美味しかった。