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29粒目『abc:アルファベット、いろは、基本、または案内書』ゆっこ④

『abc』


―アルファベット、いろは、基本、または案内書。


おいうえおから教えてやんよごらああああ!!!! 的な気迫を感じる単語。―


 吉橋はあたしたちの学年主任で数学教師。栄養フェチで、痛い物言いが趣味でワイシャツがいつもパリッとしている。ウッドブラウンのシックなベストにライムグリーンのネクタイをいつもきゅっと締めていて、髪は年がら年中オールバックで哲学者みたいに難しい顔をしがちなんだけど、謎に清潔な印象がある。

 時計が良いのかな? ちょっとロックな感じで。

 吉橋のこだわりはラドウェザーのミリタリーウォッチ。

 ごつごつした白黒のデジタル時計なんだけど、ミリタリー、つまり軍用だけあって、100mの防水仕様でアラームもタイマーもついている。吉橋はテストの時には、いつもこれとにらめっこをしている。


「まあ、一番ありがたいのは電池の持ちなんだけどな」

 フル充電すれば2年以上動くと、吉橋は嬉しそうに説明した。

 そして吉橋は2年後の話をした。


 受験だな。お前ら。今は進路は色々不安だろうけどな。不安なんて生きてりゃつきもんだ。けどな、不安が完全にない奴なんて、ただの無敵の野郎だ。不安は、ちゃんと考えろって本能のサインなんだ。だから、ちゃんと考えて、ちょっとでも納得できたらあとはそっちに集中しろ。

 2年後も俺はこの学校にいるし、お前らの指導だってする。進路を一緒に考えるのも俺の仕事だし、俺は仕事は全力でやる主義だ。だからあんまり不安に思わなくていいぞ。今はとにかく、解ける問題を増やすんだ。


 ずいぶん自信たっぷりな物言いだったけど、あの時のあの教室の吉橋は、一番不安というか、切実な顔をしていた。

 ゆっこは机にうつむいていた。

 あたしはそんなゆっこに、素直になって、お礼の一つも言ったらいいのに、なんて思ったりしていた。

 

 吉橋が何故切実になったか。それは、結構な偏差値のこの高校で、あたしたちの成績が一番低いからだ。だって、あたしたちは元々、一応現在も名目上、スポーツ特待生なのである。

 中学でそれぞれの実績をあげて、この学校に入学して、さあこれからって時に……。

 吉橋が片思いしていた花坂先生が事件を起こして意識不明の重体になった。

 あおりを受ける形で全運動部が休部となってしまった。


 つまり、あたしたちは、この学校の他の子たちと比べて、絶望的に勉強ができなかった。

 フィジカルに全振りで生きてきたので当たり前だ。

 でもそんなあたしたちを見捨てない、と吉橋に誓わせたのは、花坂先生への未練だ。

 

 白ブラウスからいつもいい匂いがして、穏やかで笑みの絶えなかった花坂先生。

 彼女は現在でも意識不明の重体であり、そしてだからこそ弁解も後悔も贖罪もせずに、ひたすら吉橋の心を縛り続ける。

 吉橋があたしたちの指導に熱心なのだって、結局花坂先生のしりぬぐいをしたいだけだって、あたしもゆっこも分かっている。

 

 けど……。


 ゆっこはそんな吉橋に傷つく。反抗する。そして陰で努力をするのだ。

 アルファベットだって怪しかったゆっこ。

 oneをオネと読んでいたゆっこは、高校1年生の秋にして、ようやく中学3年生レベルの英語を朗読できるようになった。数学教師である吉橋が、目にくまを作って作成した英語の資料を、布団の中でうつぶせになって、枕に両肘をついてひたすら読み込むゆっこを、あたしは想像することができる。まあ、あたしはあたしで吉橋から紹介された案内本を読んで、人文社会系は克服したし、読書も趣味になったので現代文の成績も上がった。最下位圏から下位圏に浮上したのだ。これはあたしたちにとって、大きな前進である。


 そう。経緯はどうであれ、あたしたちと吉橋の関係は良好だったはずだ。

 

 なのに……。


 期末テスト明けの連休で訪れた109。

 この渋谷の巨塔で、あたしとゆっこは、吉橋に遭遇した。

 普段はオールバック的になでつけている髪をゆるくふわっと下ろして、堅苦しさが全然なくなって、ゆったりとしたD&GのロゴTシャツにディーゼルのスカルネックレスなんかしちゃって、インディゴブルーのリーバイスの腰に巻いたベルトは黒くて太くてビスがバシバシ入っていて、ミリタリーウォッチのごつさも含めていかにもロックなその全身は、普段の吉橋じゃないけど、謎に清潔な印象という一点においてとても吉橋だった。


「不潔」

 あたしは109の5階の通路で、吉橋に言った。

 吉橋は、元在校生の水柿(みながき)さんと歩いていた。

 水柿さんがあたしたちを呼び止めたのだけど、あたしたちは振り向いて、現実に対応できず、あたしは昔のドラマの登場人物がする紋切り型の演技みたいな軽蔑を示し、ゆっこは……。


 ゆっこは、歯を食いしばっていた。

 顔を耳たぶまで真っ赤にして、拳を握りしめて、涙目になって、ひたすら吉橋を、じっと見つめていた。

 

 そんなゆっこに、あたしはとても同情し、ほんの少しだけ羨ましく思った。

 ゆっこは恋のいろはを知らない。だから、好きな人が女の子と歩いているのに出くわしても、どう対処していいかわからないのだ。いや、あたしだって分からないけど。

 でも、ゆっこは逃げない。逃げない強い心。それが初恋の力なんだろうな、とその時に思った。

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