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18粒目『abatoir(食肉処理場)』豚さんの遁走

『abatoir』


―食肉処理場。


 語源はフランスのabattre。abattreは屠殺という意味なので、そのまま屠殺場所。― 


 かくまっていた豚のキュートサウさんが脱走した。


 それはうららかな秋の午後であった。

 私はダークオークの窓辺に腰をかけて、木枠に肩と頭をあずけ、うとうととしていた。

 組んだ膝の上には『巌窟王』の原書があった。


 この時、キュートサウさんが何を思ったのかはわからない。

 言語を理解しなくても『巌窟王』の秘めたる何かに触発されたのかもしれない。

 『巌窟王』は刑務所を脱走する話である。

 もちろんこの城は刑務所ではない。

しかし外の世界はやはり豚という生物の特性上、惹かれてやまないものなのだろう。


 外の世界。湖畔の町サイズの共和国。王政が廃止されたのが今から丁度300年前。

以来この城は外国人を受け入れるホテルとなっていた。

が、色々と管理が不十分であり、そんなつけがたまって、雨漏りはするは水道管は壊れるはで、結局ただの借屋になった。

 まあ、窓からの眺めは良いから、休暇と仕事を兼ねて長期滞在する私としては不満はない。

 湖畔の城下町も、城下町と共に朝日に輝く水面も、その先の深い緑の森も、迫りくるようにそびえる山脈の純白のいただきも、私の好みである。


 実は城の最上階から、キュートサウさんを抱き上げてこの眺めの共有を試みたことがあったのだが、彼女は暴れて、窓に突進、危うくガラスを割りかけた。投身自殺が趣味なのか。前世はレミングなのか。

 判然としないが、もしかしたら、城下町をにぎわす同族に思いをはせているのかもしれない。


 この町、というかシュタインゲルト共和国は人口3000人だが、豚は2倍いる。そしてシュタインゲルトハムはスペインのプロシュートの3分の1程度の知名度がある。

 ちなみにシュタインゲルト豚はイベリコ豚よりもマイナーだが、可愛い。耳の大きさがコウモリのそれをほうふつとさせるし、体毛は白いのに、目の上の毛が黒くて、眉毛のように見える。

 犬眉毛ではなく豚眉毛。可愛い。

 

 しかしシュタインゲルト豚は可愛いだけではない。食肉処理場を集団で脱走する。

 豚たちはシュタインゲルト共和国の小さな町を走り回り、何匹かは湖にダイブし、溺れる。

 彼らはもれなく金づちだ。


 閑話休題。

 私がキュートサウさんをかくまったのは、この城に到着した翌日で、キュートサウさんには名前がなく、ただの脱走豚であった。

私は応接間のソファアの下で彼女を発見し、それから扉の横の壁をみた。

 子豚が1頭通れるぎりぎりの大きさの穴がぽっかりと、梁が露出する形であいていた。


 とりあえず、食肉処理場に連絡をしようとして、ついでに交渉時の話題作りの材料にもしようと目論見、色々と考えた結果、面倒になり、私は工具箱の保管所に向かった。

 外国人に対して排他的で、しかも気のたっているシュタインゲルト人を相手にするより、壁を修理した方が気楽である。


 そんなこんなで、私は彼女をかくまうこととなった。

 キュートサウさんは、Cute Sow。可愛い牝豚さん。


 彼女の相手をしながら、戸締りを念入りにして、私は湖畔を歩いたり、豚の溺死体に黙とうしたり、あとは城の修理をしたり紅茶を片手に読書をしたりと過ごしてきた。

 が、休暇は終わるものである。しかも仕事の期限も迫る。


 私は事業家をしている。資金難に陥った食肉処理場をどうするか。

一国の食肉産業をどう料理するか。

 それ以前に援助の手をさしのべるかどうか。

 排他的な住民の性質上、資本を導入して抜本的なシステムの改善をはかるのは難しい。

 シュタインゲルトの湖は美しいがビーチといえるビーチもない。

 目をみはる観光地なら、ヨーロッパには他にいくらでもある。


 さてどうしようかと考えあぐねて、とりあえず『巌窟王』を読破しようとした秋の午後。

彼女は脱走し、来た時と同様の穴が応接間の壁に開いた。

 突進を繰り返していたのはそのためか。


 見事なり。キュートサウさん。

 と、感嘆しつつも、私は顔面から血の気が引くのが分かった。

 外部は、城の外には脱走豚感知センサーがめぐらされている。キュートサウさんが捕まってしまう。

 私はコートも羽織らずに、リーバイスのジーンズにウッドブラウンのベストという奇異なかっこうのまま、城の外に飛び出し……。


 たまたま通りかかったのだろう、脱走豚回収トラックに運び込まれ、連れ去られていく彼女の姿をみとめてしまった。

大声を出し手を振って追いかけたが、私は外国人。

 警戒されているのも嫌われているのもわかっている。

が、止まってくれないのはどうなのだろう。


 一度城に戻り、身支度を整えて、食肉処理場に向かった。

 警備に挨拶をして、名刺を差し出した。

ほどなくして、豚たちの絶叫が響くなか、工場長の応接室に案内される。

 一刻もはやくキュートサウさんを探したい。が、それは感情の問題である。


 豚をかくまっていました。返してください。

 こう言ってもだめだ。むしろ、豚をかくまうのは共和国の法律に反する。


 だから……。


「この国に出資をします。ただし、食肉処理場には出資をしません」

「どういうことですか?」

「観光地にしましょう」

「それは……」

 工場長は共和国の議長でもある。顔が苦渋に満ちている。

 湖畔がホテルから借家になるくらいには、この土地には魅力がない。


「あなたたちが気づかない、観光資源があるのですよ」

「何ですか」

「シュタインゲルト豚です。非常に可愛らしい」

「それは、つまり」

「そうです。このシュタインゲルト共和国は、シュタインゲルト牧場にします。豚と触れ合える観光地にします。ヨーロッパ中から、愛豚家が殺到することでしょう」

「殺到しますかね」

「します。ハリウッドで映画もつくらせます。ステルスマーケティングですよ。大丈夫。うまくいきます」

 

 こうして、シュタインゲルト共和国は、シュタインゲルト牧場となった。

 キュートサウさんの命は救われた。

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