16粒目『abate(減じる。激しさを和らげる。そぐ。緩和する。訴訟を中断する。不法妨害を排除する。令状を無効にする。減じる。寒気などが衰える。法が無効になる。消滅する)』愚者の遺産
『abate』
―減じる。激しさを和らげる。そぐ。緩和する。訴訟を中断する。不法妨害を排除する。令状を無効にする。減じる。寒気などが衰える。法が無効になる。消滅する。
語源は打つという意味のゲルマン語、 bautanaがbateになって、~の方向へのaがついたもの。イメージとしては矢印に近い。強かった鼓動が徐々に弱まっていくようなイメージ。ちなみに bautanaはbeat、打つの先祖でもある。―
あらゆる物が大きい、と思っていた時期があった。
たしか5歳か6歳の頃までだ。天井は高く使用人たちの足やスカートも長く輝くシャンデリアにも恐怖を覚えていた。あれはいつ落ちるのか。
僕は爺やに助けてと言った。外せという知恵もなかった。
爺やは目の周りのしわを深くして、
「あれは落ちません。もし落ちたら私めが受け止めてさしあげます」
と僕を安心させてくれた。
そう。爺やが僕の安心の根源だった。父ではなかった。あの人は夕食の時にしか顔を合わさなかったし、屋敷の全員がおびえていたので、僕も同様に恐れた。シャンデリアは大丈夫。あれが落ちてもじいやが受け止めてくれる。でも、絵本の熊のように髭が黒く濃い父が暴れたら、誰が止められるだろう。
そんな僕の懸念と裏腹に、父は僕に対してまるで川の向こうにいるような態度をとり続け、ある日地方貴族との決闘に敗れて死んだ。決闘を挑んだのは父だった。父は経済力、領土の広さも人脈も、あらゆる面において彼に勝っていたし、サーベルのあつかいにも長けていたが、それでも勝ったのは彼だった。
発端は、父が彼を侮蔑したことだっった。
激高した貴族が訴訟を起こしたが、法を司る者たちは父の援助を受けていたから、父にとって大きな意味はなかった。
そもそもが理は父にあった。民をよこして領地を勝手に開墾したのは彼だった。
「おさめるべきを収めていただければ良いのです。貴方の民ごと立ち退けとはいいません。民の安寧は神と王の意志です。このいざこざは関係がない」
「手つかずの荒れ地を開墾したのは私ですよ」
「川のこちらは代々我が家の領地です。神も王も認めていらっしゃる」
「それでも荒れ地として代々見捨てていたのは領主たる貴方だ」
「後回しになっていた、それだけです。とにかく、使用料さえ払っていただければ……」
「そんなもの、払う義理もない。むしろこちらが報酬をいただきたいくらいです。野盗も減ったでしょう。土地が栄えれば減るものですよ」
貴族の言葉に父はしばらく口をつぐんだ。
黒く太く逆立つ眉の下から、じっと貴族をすがめた。そうして一言だけ、
「乞食が」
と言った。
「なら訴訟をしましょう。どちらが乞食なのか、神と王に決めていただきましょう」
貴族は芝居がかった身振りで、肩をすくめた。
そして訴訟は行われ、審理が下る前に中断された。
父が決闘で死んだからだ。それは冬の寒気が衰えかけた、しかし春はまだ先のある日の夕方で、場所は愛人の家の庭先だった。
大学校への進学を準備中だった僕の2歳上である彼女は、父がまれにみるほどに情熱を傾けていた人で、美しいというには頬が貧相だったが、胸がふくよかで、声がいたいけなほどに細く、しかし目には強い意志と知性が認められる、そんな女性だった。
夕闇にまぎれて彼女を訪れた父は、愛をささやきあう声を聴いた。窓に灯はない。
父は扉を蹴破り、そしてくだんの貴族と彼女の2人が溶け合うようにしてもつれ合う姿を、姿が月光に照らされるのを認めた。
この瞬間、父は理解する。愛は消滅していた。奪われるという形で、感情は徐々に減じられ、気が付けばすべては終わっていた。
父はその場で貴族に決闘を宣言し、庭で貴族が着衣を終えるのを待ちながら、冷酷な月を見上げた。
そして彼は死ぬ。
さて、そんなわけで僕は領地を相続したのだが、そうして係争地は彼のものとなったのだが、僕にはこれ以上のことを荒立てるつもりはない。
何故なら……。
彼の思い人である彼女は、つまり父の元愛人は、現在僕の胸の内側で、長いまつ毛をふせているからだ。彼女のゆるやかにうねる金髪を指ですく。
ひっかかりが極端に少ないその髪に、そっと鼻をあてる。ほんの少しだけだが、父のにおいがした。




