12粒目『abase(へりくだる。卑下する)』ペペロンチーノ・ギャング
『abase』
―へりくだる。卑下する。
語源は方向のaに低いのbas。音楽のbassも低い音を出すので、basにeがついてbase。baseが土台。土台に落とすで、地位や品位を落とす。床ペロ的な意味でへりくだるが、abase。―
へべれけに酔っぱらうオヤジたちを昔は軽蔑していた。
が、同じくらいになった現在は、別の感情がわくようになってしまった。
お勤めご苦労様です。
膝をややがに股にし、両手をそこに落とす。じっくりと間をおいて頭を下げる。
古いが由緒正しい作法に、俺は抵抗がない。むしろ店に金を落としてくれる皆様方には土下座して靴だってなめても良いくらいだ。プライドと金なら金を取る。この考え方は今時らしい。
「お願いしますぅ……」
色々なもので汚れた雑居ビルの非常階段を3階まで上がり、藤五郎の事務所兼自宅のセキュリティを解除すると、ざらざらと濁った声が聞こえてきた。
藤五郎はぺペロン藤五郎の異名でこの業界では恐れられているが、趣味が家事一般というだけあって壁も廊下も清潔だ。しかも照明だってしゃれているから、俺はここの全てを、まあ一か所を除いてだが、気に入っている。
なのにその声だけが汚い。
反応して口がへの字になるのが自分でも分かった。
「来たぜ。邪魔だったか」
「いや。ちょうどよかった。まったくてめえは間が良いよな」
呼びかけると涼しい声が奥からかえってくる。俺は口の端をにやりと上げる。
「間ってやつが俺を好いてんだ。俺は何も考えちゃいねえよ」
我ながらずいぶんとなめた口をたたきながら、俺はトイレとベッドルームの前の通路を抜けた。
そして居間の入り口で右目をすがめた。ダンゴムシの化けもんがいる。
違った。背も手も指も顎も耳も丸い男が土下座している。その形がダンゴムシにそっくりなもんだから、俺は一瞬間違えてしまった。
「どうした? 何つっ立ってんだよ。入って来いよ。源治」
「だって取り込み中だろ? また来た方が良いだろ? お前は良くてもお客さんに失礼だろ?」
「お客さんはお客さんだけどな。お前にも会わせてやりたかったんだぜ。源治。なあ、椿坂さん。あんたも会いたかったよなあ」
腰の高い鉄の丸椅子で足と腕を組んでいた藤五郎の鋭い目が、いや本当に鋭くて紙くらいならすっぱりと綺麗に切れそうな目が、椿坂っていうダンゴムシに移った時には、俺はもう大股でずかずかと居間を横切って、ダンゴムシの前にヤンキー座りをしていた。手はこめかみの生え際あたりの毛をまとめてつかんでいた。本当は前髪をつかむつもりだったがそこはつるつるになってしまっていた。
そのまま手首をくいっとして、俺は椿坂の顔を上げさせた。
「椿坂さんじゃねえすか。昔は藤五郎を土下座させまくってた、あの椿坂さんじゃねえすか。藤五郎関係ねえのに。俺をぼこぼこにして終わりにすりゃあいいのに。でも懐かしいなあ。いや、本当に久しぶりですねえ」
言葉は恨み節だが俺の声も顔も明るい。
不思議だが俺の笑顔を前にすると泣く子は黙るし、子の母はのけぞる。
だから藤五郎はよく俺の笑顔を使う。つまり、俺はこの場の役割を完璧に理解している。
椿坂の髪のたばが赤ん坊みたいに柔らかくて気持ち悪いが、手を離さないのもそのためだ。
「勘弁してください……」
「ああ? 昔の威勢はどこにいったんだよお?」
「やめろ源治。それに椿坂さん。卑下しなくても良いです。あんたみたいな人が、勘弁なんて言葉を使っちゃ駄目だ。上に立つもんには品位ってやつが必要でしょう。そりゃあ、昔ほどじゃない。でも、だからといって、勝手に商売されても困るんです。裏でこそこそやられると、こっちも引っ込みがつかなくなる。いいんですよ。商売しても。ちゃんと話さえ通してもらえれば」
藤五郎はゆっくりと、含めるようにそう言い切ってから、唐辛子を口の端にくわえた。
瞬間、俺は理解した。そうか。こいつ、椿坂にあれを食わせる気だ。
俺の手は椿坂の頭髪を離れた。
「とりあえず、今日はお願いするために、来てもらったんです。別にあんたから何かを奪うつもりはない。脅したくもない。ただ、一緒に飯食って、商売の相談なんかも仲良くしたいっていう、それだけの話ですよ」
土下座の姿勢を保ったまま、椿坂が藤五郎を見上げた。
2つの目が潤んでいる。屠殺を待つ豚もこういう目をするんだろうか。
「なあ。藤五郎」
「ん?」
「今夜はペペロンチーノか?」
「ああ。今夜もペペロンチーノだ。俺の得意料理だからな。懐かしの椿坂さんもお迎えしてるんだ。腕がなるぜ」
腕まくりをしてキッチンに背を向けた藤五郎に、俺は呆れた。
ぺペロン藤五郎。抗争の相手に善意と和解のために、極悪ペペロンチーノを食わせる。
食い切った奴は生き残るし、ビジネスパートナーとしても認められる。
食べきれなかったり、不味いって顔をした奴相手には、地獄が待っている。
ジキルとハイド並みに人が変わるからだ。だからぺペロン藤五郎。
俺は藤五郎のペペロンチーノは慣れているし毎回食い切るが、それが駄目なのだろうかとも思う。
確かに奴のペペロンチーノソースは辛い。ハバネロとかデスソースがフルーティに感じられるほどだ。
だから俺以外の完食者は数えるほどしかいないし、俺だって今晩は無事では済まない。
溜息をこらえつつ、ちらりと椿坂を見やると、うるうるとした目で震えていた。
俺は昔の因縁を色々かんがみた上で、この豚に深く同情した。