100粒目『aboriginal:アボリジニ、先住民の』ストレンジな彼女⑬
『aboriginal』
―アボリジニ。先住民の。
もともとはラテン語。abから+original原初、で原初からいた人々、先に居住していた民、先住民となった。
アボリジニはオーストラリアの先住民の総称。―
龍成から着信があったのは2限目で、中国語の小テストを受けていた。
必修でもない限り、龍成に限らず電話には出ることにしていたけれど、テストを抜け出すことはさすがにためらわれ、僕はテストの問題用紙と向き合い続けた。
問題用紙にはネズミと猫のイラストが描かれていて、アニメ調の彼らはお互いに手を振って挨拶をしあい、空を仰いで天気の話をし、太陽をさえぎって飛ぶ小鳥に道をたずね、連れ立ってウサギの遊園地に歩き出すという、何というか大学を象徴するようなのどかで無害な内容だった。
が、問題文は色々とひねられていて、日本語と中国語の微妙な違いをちゃんと反映していた。
いわゆる引っ掛け問題がやたらと散りばめられていて、僕はいくつかには気づいたけれど、多分全部は無理だろうな、と思った。
いくつかは気づける。でも、全部は気づけない。
性格のあまりよろしくない (かもしれない)中国語の講師は、僕を含めた生徒たちに、このことを伝えようとしていたのかもしれない。
でももちろん僕はそんなことに思いをはせることはなく、ひたすら問題を解くのに手が一杯だった。
設問は小テスト、というわりに大量にあったし、しかも最後は文章作成だった。
『この後、ネズミとウサギは遊園地でどのような出来事に遭い、どのような教訓を得ますか。中国語で自由に説明しなさい』
という趣旨の問題が中国語で記されていた。
ネズミとウサギは遠縁の亀がいて、遊園地で合流。
亀が退園をしぶったので雲がわき、龍が顔を出して雷を放ち全員が黒こげになって、翌日のカフェのメニューにはネズミとウサギと亀の肉のサンドィッチが追加された。
……という小話が一瞬頭をかすめたが、もちろん解答用紙には別の、本当に当たり障りのない起承転結を書いた。どんな教訓に結論付けたかすら忘れてしまったけど、講師が終了を告げる1分前に書ききって、講師の挨拶が終わるとすぐに、僕は教室を出て、携帯電話を取り出し着信が龍成であると確認。
折り返しの電話をかけた。
※※※※※
僕は千葉の国立大学に進んだ。
センター試験では数学と物理で高得点を取ったけれど、文学部に進んだ。
理由としては、文章を読むのが好きだったというのもあるし、将来を考えていたのも大きい。
土建業の営業職に就いて、現場の人々や上司から罵声を浴びながら、都市開発を進めたい。
埼玉は開発されつくしたし、神奈川だって東京の一部だ。
でも千葉の南半分はほとんど手付かずだ。でもアクアラインだって何年か前に開通したし、横浜と千葉がつながったということは、物流も現在進行形で変わっていく。
都市設計なら工学部の方が良いけれど……、でも僕は図面を引くより、現場の、できれば寿村さんみたいに頑固な人々と交渉をしたい。
そんな望みがあった。
大学の1年で大体の単位を取って、その過程で中々面白い本を書く先生がこの大学にいると知り、彼のゼミに入りたいと思った。彼は文化人類学の教授で、アボリジニーの研究をしていた。1年の大半はオーストラリアにいて、だから同学年で彼を見た人は少なかったけれど、著作のカバーの写真では、日焼けした髭だらけの丸顔が精悍だった。
ゼミの選考を突破するためには、成績が優秀であることが最低限必要で、僕はこれをクリアできていたと思う。あとは面接だけど、残念ながら教授はオーストラリアに飛んでいたので、僕にできる事はなかった。
仕方なく持て余した時間は、アルバイトをしたり、簿記を含めたいくつかの資格の取得に費やした。サークルや部活には入らなかった。
合同の歓迎会には出席したけれど、どこか浮かれた、未来が約束されたような同学年たちを見ると、龍成を思い出した。
彼は私立大学に進んだ。
センター試験で僕よりも高い点数をたたき出して、二次試験が面接だけだったが、それなりに知名度のある大学で、僕は正直意外だった。もっとささやかというか、定員が割れているような学校でしか、または裏口でしか、彼は受け入れられないと思っていたから。
でも龍成は研ぎ澄ました勘でセンター試験を突破し、二次の面接も別人格を作り出して乗り切った。
別人格。丁寧で愛想がよく、ほどよく怯える、つまらない人間、というのが龍成の説明で、合格発表の前はそんなことを聞いても全然ぴんと来なかったけれど、でも、大学生となった彼が立ち上げた飲み会サークルの催しに何回か出席して、ああ、と感心した。
確かに別人格だった。
つまらない男女がつまらない調子ではしゃいでいる。
そんな彼ら彼女らに、バーのミラーボールが反射する無数の光点のために全身をまだらにしながら、龍成は笑顔を作り、マイクを握る。
傲慢でも尊大でもなく、丁寧で温かみがあり、さりげなく洗練もされていて、少しだけ神経質。
いつもぼさぼさだった髪にワックスをあてて、ブランド物の黒シャツに同じくブランド物のネックレスやごつごつとしたリングや、ピアスを合わせて、眉も整えた龍成は全くの別人だった。
色んな人間の、色々な美点を彼は吸収していた。
催しの進行にあたって、龍成は時折言葉につまり、助けを求めるように周囲を見回す。
本当に救いを求めているように見える。僕は彼の表情に既視感があった。
襲撃され肉を解体される一家の夫が妻を守りながら、助けを僕に求めて、僕は申し訳ないという表情を作りながら肩をすくめる。
そんな僕を見た時の夫の表情。絶望というものを、龍成はちゃんと理解し、学習していた。
完璧な擬態だ、と僕は思った。
龍成が主催していたのはそのサークルだけではなかったし、主催をしていなくても、色々なサークルに潜り込んでいた。彼いわく、全員つまらないらしい。でも、面白くしてやることもできない。
大学の学生たちには用途があるから、解体される人体としての対象ではない。
僕は、ええと、龍成いわくディープなサークルの飲み会で、彼からそんな話を聞いた時、とても納得をした。用途。
確かに彼ら彼女らには用途がある、と僕はコテージの窓枠に腕をかけながら、思う。
龍成はベルトを解いてジッパーを下げ、彼の前にひざまずいて奉仕をする全裸の女の子の頭を撫でている。
本当は割りたいんだろうな、と思う。
女の子は耳の形が綺麗だし胸も大きいし鎖骨だってくっきりとしている。
でも、ずっと龍成の隣にいたから分かる。彼女はつまらない人間だ。
僕はふらふらと流れてくる女の子たちの奉仕を全部謝絶している。
サークルの勧誘を断る時と似ている。
「楽しくないのか? 全員病気のチェックは済ませてるから、心配しなくてもいいんだぜ」
「楽しいよ。龍成。僕は君の隣にいるだけで、いつもよりずっと楽しい」
素っ気なく言う僕に、まばたきを何回かゆっくりしてから、龍成はふん、と鼻を鳴らした。
それから彼は何も言わなかった。ちょっと苦しそうだったのは、照れたのか、または女の子の奉仕が上手かったからからなのか。どちらか僕は分からない。両方かもしれない。
僕は窓の外に視線を投げた。
森が黒い輪郭を作っていて、上にはたくさんの星が電飾みたいに白くきらめいていた。
龍成の隣にいると、彼が何をしていても、夜でも昼でも、空を広く感じる。
透明な被膜は世界のどこかに押しやられる。
小さな箱の中でくねり合う釣り餌の虫たちみたいに、男女たちが混ざりあうコテージで、僕はそんなことを思いつつ、どこか寂しいものを感じた。