チェスの駒
「ゴホッ、ゴホォッ!!」
恭弥は咳き込みながら床にへたり込む。
『怪物』からの逃走劇で、恭弥の肺や足、全身の筋肉が悲鳴を上げていた。
捕まれば死が確定の鬼ごっこだったのだから、それも当然のことだった。
「ほんとに汎用魔術覚えててよかった。やっぱさすがだな」
汎用魔術。
それは現代の地球で使用される魔術だ。現代魔術には大きく分けて汎用魔術と創造魔術。
汎用魔術は歴史上に存在する逸話や英雄伝、神話などを基盤にした魔術で、誰でも使える一般的な魔術だ。
しかし、誰でも使えるからと侮ることは出来ない。汎用魔術も奥が深く、基盤にする神話を魔術行使時に術式に消費する魔力が多ければ多いほど再現度が高くなる。
例えば、先程恭弥は『怪物』から逃れるために天岩戸伝説をもとにした汎用魔術を行使して洞窟を塞ぎ鉄壁の防御を作り上げたわけだが、詠唱時に術式に魔力をもっと込めれば、岩で塞ぎ込む先、世界を闇で覆わせることもできたのだ。
しかし、そんなことをすれば、もちろん恭弥の少ない魔力量では一瞬で干からびて死んでしまう。
そして、もう一つの魔術、創造魔術は大仰な名前がついているが、簡単に言えばユニーク魔術だ。
神話や英雄伝を基盤とせず、一から術式を作り上げる必要がある。
神話などで見られる大災害を引き起こすことは不可能だが、実力者同士の戦いだと汎用魔術は術式の構築段階で、どんな魔術を使うか見破られてしまうため、創造魔術がよく使われる。他にも、汎用魔術とは違い勝手が効いたりする。そして何より製作者唯一の魔術、それに価値を見出す者たちもいる。
実は恭弥も簡単な簡単な創造魔術は使用できたりする。
汎用魔術に対して心強さを感じる恭弥。
マジで危なかった〜〜、死ぬかと思った。
………それにしてもなんだったんだ、あの『怪物』は。
見た感じ悪魔とか妖怪とか、そういう類のモノではない気がする。
この世界独自のモノだな。
生き延びることが出来たことで、命を脅かすその元凶について考える余裕が出てきたが、全く分からない。
恭弥の理解できる範囲を完全に超えていた。
そもそも恭弥は魔術を使えてもまだまだ半人前で、知識も特にあるわけではないのだ。
それに、あの未知の生物が魔術などで生まれたとも限らない。
地球と違う異世界独自の環境下で生まれた生き物かもしれないのだ。
そうだった場合、魔術どうこう以前に科学的な知識が必要になる。
一学生でもある恭弥からしたらお手上げだ。
これからどうするか。いつまでも洞窟に篭るわけにもいかないし、でも外に出ればあの『怪物』に殺されるし……………って、ほんとうるさいなぁ。
今後のことで考えを巡らそうとする恭弥だが、まったく集中できない。
それはー
「ドンッ!!ドンッ!!ドドドドンッ!!!!」
という音が岩の向こう側からするのだ。
岩を隔てた向こう側では『怪物』が岩に向かって攻撃しているのだろう。
絶対に破られない自信はあるが、それでも怖いものは怖いのだ。
と、おもむろに恭弥は立ち上がると魔術で塞いだ洞窟の入り口とは逆の洞窟の奥に進んでいく。
恭弥のうちにはそれなりの理由が何個かあったが、一番の理由は『怪物』から出来るだけ距離を取りたかったからだった。
############
「これ、どこまで続くんだ」
そんな声が薄暗い洞窟に響く。
恭弥はかれこれ一時間は洞窟の中を歩いていた。
この世界に転移してずっと歩いたり走ったりで、まったく休めていない。おかげで足腰はガクガクと震えて足取りはおぼつかない。
恭弥は背後を見る。
洞窟の入り口からはだいぶ距離をとった。もう、『怪物』が岩を攻撃する音は聞こえなくなった。そのせいか、心が少しは休まるようになった。
しかし、だからといって気を抜いてはいけない。
このまま、洞窟から出なければ『怪物』から殺されることはないが、おそらく飢えで死ぬ。だからと言って闇雲に洞窟の外に出れば『怪物』に殺される。
命の危機にあるのは依然として変わらないのだ。
「何かないのか」
だから、恭弥はこの状況を打開できる新たな要因を求めていた、ちょうどそのタイミングで洞窟の奥から光る物を見つけた。
なんだ、あれ?もしかして、またさっきの『怪物』みたいなやつじゃないだろうな?
恭弥の警戒心はトップレベルに引き上げられていた。
もう、どうでもいい。飢えで死ぬのも『怪物』に虐殺されるのも嫌だ………………何か俺の救いになるものがあるかもしれない。
しかし、一縷の希望に賭けて恭弥は光に歩む。
そして、恭弥が目にしたものは魔術師の工房だった。
散乱した書類の束、試験管やビーカーに保管されている何か生き物の臓物。恭弥が何度も嫌というほど地球で見てきた光景、特に目を見張るようなことではない。しかし、工房の一角、隅に置かれた祭壇の上にあるチェスの駒。
種類はナイトだった。
それに恭弥はどうしようもなく目を惹かれる。
なんてことはない、ただの光るチェス駒だ。
これを再現することなんて現代の科学技術があれば容易、珍しい物を目にしたかではまったくない、かと言って良い匂いがするとか、五感が魅了されているわけでもない。ただ何か、目にしているとどうしようもない燃えるような情動を掻き立てられるのだ。
あれを手にすれば完成に近づくと、そう心のどこかが言っている気がした。
恭弥は一歩、足を伸ばす。
そして人族橘恭弥を構成する肉が手にしたいと訴えかける。
恭弥は二歩、足を伸ばす。
そして魔術師橘恭弥の源、血が手に入れろと訴えかける。
恭弥は三歩、足を伸ばし祭壇の前に来る。
橘恭弥のものではない別の誰かの心が手に入れろと叫びかける。
そして恭弥はナイトにほんの少しだけ触れた。
すると、ナイトは恭弥の目線の高さまで浮かび上がった。
「っっっ!!!!」
突然の事態で驚く恭弥。
しかし、それだけに止まらない。
肋骨の真ん中、ちょうど心臓の位置に魔法陣が浮かび上がった。
恭弥は何か危険を察知して一歩退こうとするも間に合わない。
その魔法陣にナイトは一直線に向かっていき、そしてポツんと取り込まれた。
その直後、信じられない程の激痛が恭弥を襲った。
「うぐッえ、あッ、ああああゝああああああああ〜〜〜〜〜〜!?」
心臓を縄で直接締め上げられ殴打されるような、そんな痛みだった。体全体というよりも、心臓だけに痛みが走る。
恭弥はこんな痛みを受けて、よく頭がおかしくならないと不思議でならなかった。
一分ほど経ってようやく痛みが引いてきた。
「ゴホッ!ガホっ!」
大きな咳をする。
痛みが引いたってよりも俺の痛覚がバグったんだろうけど………。
あれほどの激痛を受け続けたら死ぬ。そう思い、体の方が痛覚をシャットアウトしたんだろうと推理した恭弥は自分の胸を触る。
正しくは肋骨の真ん中、心臓の真上。
あのチェスの駒はなんだったんだ?………それに今のは魔術か?
恭弥の頭の中はハテナマークで埋め尽くされていた。
それは魔術のようでありながらもまったくの別物の力を体験したからだ。
本来、魔術は術式を構築しなければならないのだが、いま恭弥が体験した現象には術式を感じられなかったのだ。
まさに『魔法』。そう解釈するしかなかった。
とそこで、
「グオおおおおおお!!!」
暗い暗いじめじめとした洞窟に醜悪な叫び声が反射する。
そして思考を巡らせていた恭弥の耳朶をうつ。