白詰草の指輪
花の好きな女性がいました。
彼女の恋人は、彼女の好きな物を良く理解し、よく花をプレゼントしてくれました。
薔薇にチューリップ、カーネーションにアネモネと色々な花を。
その中でも彼女が一等嬉しかった花がありました。
それは、二人でピクニックへ行った時のことです。
白詰草の多く咲いた草原で、彼女は花冠を作り、恋人もその隣で何かを作っていました。
彼女は花冠を作り上げると、恋人の頭に乗せました。
ニコニコと笑う彼女に、恋人も笑います。
笑った恋人が彼女の手を取れば、彼女は不思議そうに首を傾げました。
幼げなその様子に笑みを深めた恋人は、彼女の左手を引き寄せるとその薬指に白詰草で作った指輪を嵌めます。
それを見て、彼女は目を丸め、声を上げました。
白い頬を朱色に染めた彼女はなんと可愛らしいことでしょう。
喜ぶ彼女に、恋人も得意気です。
そうして恋人は彼女に対し、手を握ったまま言いました。
「予約だよ」と。
「俺と君とが幸せであるように」
恋人の優しげな、それでいて愛しさの滲む瞳に、彼女は涙を流して喜びます。
勢い良く恋人に抱きつけば、恋人はいとも簡単に彼女を抱き留めました。
「約束よ」と彼女は言います。
恋人は甘く微笑んで頷きました。
その一年後、雨の降る日のことです。
不慮の事故でした。
悲しい事故でした。
雨でスリップした車が、無防備な恋人の体と正面衝突したのです。
結婚式前日のことでした。
彼女は一人ぼっちになってしまったのです。
その日から彼女は毎日毎日泣いて過ごしました。
彼女の友人達は彼女を慰め、励まします。
目尻を赤くし、小さな鼻の頭も赤くした彼女に対し、男達は守ってやりたい、助けてやりたいと思うようになりました。
悲しみに暮れる彼女に甘い言葉を囁きます。
勿論、下心がありました。
ですが、下心だけではありませんでした。
確かに彼女を心配に思う気持ちがあったのです。
彼女もそれを感じ取ってか、時折薄くはにかむような笑みを見せました。
しかし、そういう日々が続くと、今度は彼女の周りに集まる男達が不可思議な体験をするようになりました。
ある者は晴れた日だというのに雨の音がすると言います。
またある者は毎晩悪夢を見るようになりました。
他にも身に覚えのないアザが出来ていたり、怪我をすることが増えた者がいました。
そうした体験をした男達は次第に、彼女よりも自分達の身を心配し始めます。
自然、男達は彼女に近付くことが減り、まるでそれに比例するように不可思議な体験も減っていきました。
そうです。
不可思議な体験は、彼女に近付いていたから起きていたのです。
男達がいなくなっても、女友達は残りました。
女友達は誰一人不可思議な体験をしていませんでした。
なので、彼女はそれに気付かずに過ごしました。
恋人が死んで何年も経ちました。
人は死を忘れられることがなくとも、乗り越えていけるものなのです。
それは彼女も同じでした。
いつまでも泣いていられるはずもなく、彼女は日々を懸命に生きていました。
恋しくも愛すべき恋人を忘れた日など、一日だってありません。
しかし、それでも時折ほのかに影の差す彼女に目を引かれる男がいました。
彼女の隣に立ちたいと願う男は、彼女に何度もその想いを告げます。
恋人を失って以来、真正面から受ける好意に困惑した彼女でしたが、彼女の友人達は口々に受けてみれば良いと勧めます。
もう長く、彼女は独り身でした。
友人の多くも結婚し、子供を持っている頃です。
悩む彼女に男は花束を抱えて言います。
「かつての恋人を忘れる必要なんてない。僕はその恋人ごと、貴女を愛します」
男は真っ赤な薔薇の花束を彼女に差し出しました。
彼女は男の真摯さを受け、その申し出も受けました。
二人はそうして結ばれたのです。
最初こそぎこちない様子だった彼女も、かつての恋人と共に過ごした日々のような笑みが増えました。
友人達も祝福してくれました。
幸せな日々です。
ですが、それを許さないモノもいました。
やはり、雨の日のことです。
深夜から降り続く雨は、朝になっても止まず、彼女の寝室へ差し込むべき光を遮断していました。
薄暗い部屋の中、何故か雨の音が大きく感じます。
雨音で目を覚ました彼女は、窓でも開いているのかしら、と首を傾げました。
確認するために体を起こすと、小さな違和感を覚え、目を瞬きます。
布団の上に乗せた手を見下ろしました。
自分の手です。
白く細い指先、左手の薬指に白詰草の指輪が嵌っています。
「えっ」
彼女は驚き、呆然と呟きます。
すると、左手がひんやりと冷気をまといました。
どこからともなく声が聞こえて来ます。
「約束」と。
「幸せ……約束」と。
聞き覚えのある言葉です。
身に覚えのある言葉です。
「俺と、君と、が、幸せで、あるように」
彼女はその声も言葉も、良く覚えていました。
雨は降り続いていました。
彼女と連絡の取れなくなった男が彼女の家へ上がると、どの部屋も薄暗く人の気配がしませんでした。
男は彼女の名前を呼びます。
返ってくるのは壁や床に跳ねた自分の声だけです。
リビングやキッチンを覗き、洗面所やシャワールームにトイレまで扉を開けて確認しました。
彼女はいません。
最後まで残したのは彼女の寝室です。
プライベート空間で最も無防備に思える寝室に、返答なく入るのは如何なものかと思っていた男だが、ここまで彼女の姿がないのならば確認するしかありませんでした。
ノックをしても返事がありませんでしたが、それでも声を掛けつつ扉を開きます。
寝室には人影一つ見当たりません。
男は寝室を見渡し、ベッドの近くへ向かいます。
ベッドサイドのテーブルには、彼女の携帯が置いたままになっていました。
おかしいな、と男は眉を顰めます。
ベッドを見れば白いシーツに皺がより、掛布団が半分ずり落ちていました。
男は首を傾げて、ベッドに手を下ろしました。
スプリングが軋む音が響き、マットレスが沈み、男は弾かれたように手を離します。
シーツが濡れていました。
ぐっしょりと、冷たく、濡れていました。
まるで、雨に降られたかのように。
彼女の姿はもうどこにもありませんでした。
***
「めでたしめでたし」
静かな声が物語の終わりを告げる。
それと同時に語り部だった女は握っていた万年筆を下ろし、机の上に転がした。
最後の原稿用紙が癖のある字で埋め尽くされたのを再度確認し、女は残りの原稿用紙と揃えて背後に立っていた男に差し出す。
「今回も締切ピッタリ」
ふふん、と鼻を鳴らして得意気な女に対し、男は青ざめた顔のまま振り返った女の顔を凝視する。
眉根を寄せ、差し出された原稿用紙を受け取らない。
女の方はとっとと受け取れ、と言うように男に押し付けると、両腕を高く上げて丸まっていた体を伸ばした。
「毎度毎度締切を守ってもらうのは有難いんですが、毎度毎度毎度毎度取りに来る度に手渡すのを先延ばしにして変な話をするのは止めて貰えないですかね」
押し付けられた原稿用紙を数える男が、苦虫を噛み潰したような顔付きで言う。
女の方はハテ、と小首を傾げる。
「普段は童話ばかり書いているんだもの。少し変わった話くらいしたいわよ」
「俺以外にして下さいよ。大体、何がめでたしめでたしですか。何がめでたいんですか」
唾でも吐きそうな男に、女は「さぁ?」と細い肩を竦めてみせた。
「定番の終わり文句でしょう」と続けながら。
「それに、ただの花言葉にまつわる小話でしょう」
「花言葉には明るくないので」
「編集者なのに?」
怪訝そうな女に、今度は男の方が肩を竦めた。
数え終えた原稿用紙はまた角を揃えられ、床に投げ置かれた鞄から出された封筒に仕舞い込まれる。
「人それぞれですよ」という男に、机の端に押しやっていたマグカップを引き寄せる女は、適当に一度二度と頷いた。
すっかり冷めた珈琲を胃に流し込む。
淹れ立ての芳ばしい香りはもうしない。
濡れた唇を一舐めした女は「『約束』に『幸せ』って出したでしょう」と告げる。
別の文章を綴りながらも見事な語りで、すっかり引き込まれていた男は、確かにそのワードを覚えていた。
「二人で『幸せ』になろうって『約束』していたのに、彼女は別の男の手を取ったんだもの『復讐』の一つ二つしたいでしょう」
「女々しい……」
「『私を思って』なんて些細な願いだったのにねぇ」
封筒を鞄に仕舞い込む男に、女は回転椅子を回してカラカラと笑い声を上げる。
しかし、男は唇を歪めて「俺、ホラー系統の話は好きじゃないんですよ」と片手を振って見せた。
シッシ、と追い払うような仕草だ。
「それじゃあ、原稿は確かに頂きました」
「はいはい。次も宜しく」
「次は小話なしでお願いします」
それでは、と女の仕事部屋を出る男に、女も椅子から飛び降りて後へ続く。
見送り、玄関扉の施錠をするためだ。
マグカップを乱雑に机へ置いたせいで、机の片隅に積んでいた本が揺れて崩れ落ちる。
仕事部屋の扉が閉められたために、女はそれに気付かない。
雪崩を起こした本からは、白詰草の指輪を押し花にした栞が飛び出していた。