2-30.怒り
「抗議でございますか?」
カタリナ様は何の事だと言わんばかりに、小首を傾げている。傍らの王太子殿下の機嫌が急降下していくのがわたしにも分かった。
過保護な旦那様はわたしの事を背に隠そうとするが、わたしはその場から離れるつもりはない。ヴィルへルム様の腕に自分のそれを絡めて意思表示とした。
「ええ。あなた、わたくしの頬を打ちましたわね」
「打ちましたわ。それが何か?」
「……っ! 何かじゃ済まされません事よ。わたくしはデゼリックの第一王女。謝罪を要求致しますわ」
「打たれるような事をするのが悪いと思いますのよ、わたくしは」
激昂するアイシャ王女とは対照的に、カタリナ様はにこやかに言葉を紡いでいる。カタリナ様が頬を打った原因といえばわたしの事なのだけれど……。これはわたしが謝罪をするべきなのだろうか。でもそれではカタリナ様の思いを無碍にしてしまうし、あんな言葉を浴びせられて謝りたくはない。
それにその理由をここで口にしたら、ヴィルへルム様が雷の雨を降らせてしまいそうでそれも恐ろしい。
「打たれるような事ですって? そこの女を疫病神と言った事で、どうしてわたくしが打たれなければならないの」
ああ、言ってしまった。
すぅっとその場の空気が冷え込んでいく。寒さに震えながら傍らのヴィルへルム様を伺うと瞳孔がくっきりと縦に割れている。
美しかった春の夜空が暗雲に覆われていく。その天気の急変に慣れているのはヒルトブランドの人達だけで、他の国の方々は何事だとばかりに空を見上げている。
「……ヴィルへルム様、いけません」
「黙っていろ、エルザ。妻を侮辱されて平然としていられるか」
「……オーティスさん、何とか――」
「出来ないわね。諦めなさいな」
ヴィルへルム様の背後に控えるオーティスさんに助けを求めるも、険しい顔をしたまま憮然として言葉を返してくる。
暗雲に雷が迸る。空を割るかと思うほどの轟音が響く。
「な、何よこれ……」
アイシャ王女が自らの腕で自分を抱きながら、怯えたように声をあげた。
「謝罪をするのはあなたの方だ、アイシャ王女殿下」
口を開いたのはリーヴェスのアルノルト王太子殿下だった。しっかりとカタリナ様を抱いたまま、どこか呆れたような声で言葉を紡ぐ。
「なっ! どうしてわたくしが! ……魔力欲しさに婚姻を整えるくらいですものね、殿下もその疫病神に媚諂う――」
雷がまるで槍のように突き刺さる。
その轟音にアイシャ王女の声は掻き消された。わたしは思わず耳を塞いで身を竦めてしまう。土埃が落ち着いた後に周囲を伺うと、わたし達とカタリナ様方の周りには結界が張られていて、それがオーティスさんが張ってくれたものだと分かった。
アイシャ王女と兄上様はその衝撃に縮こまってしまっているけれど、オーティスさんはそちらにまで結界を張ってはくれなかったようだ。
「ヴィル、周りの奴らが怯えてんだろ。ぽいぽい雷落とすんじゃねぇよ」
「当てなかっただけいいだろう」
「はいはい。陛下から書簡が転送されてきたぞ」
周囲の喧騒をものともせず、飄々と姿を現したのはジギワルドさんだった。くるりと丸められた羊皮紙を留めている封蝋は陛下の御印である二頭の龍だった。
封蝋にヴィルへルム様が魔力を当てる。簡単に割れた封蝋がはらりと落ちて、そして燃えてしまった。地に落ちるものは何もなかった。
羊皮紙を確認したヴィルへルム様の口端が吊り上がる。凄味さえ感じる程の美貌に、わたしの肩に腰掛けるアンが体を震わせた。
「くく、さすがは我らが皇帝陛下。良く分かってらっしゃる」
呟きに嫌な予感がした。
「オーティス、デゼリックに艦を回せ。ジギワルドはここの始末を」
「はぁい」
「了解」
敬礼をしながら副官の二人が、それはもういい笑顔で返事をする。
デゼリックに? 今日はまたリーヴェスに泊まるのではなかっただろうか。
「……ヴィルへルム殿、宜しいか。我が国に一体、どのような……」
立ち上がったアイシャ王女の兄上様が、アイシャ王女に手を貸しながら問いかける。その表情には不安がありありと張り付いていた。
「ヒルトブランド皇帝の名代として伺わせて頂く。我が皇帝陛下は国民を強く貶めるような発言に遺憾の意を示している。抗議をしてくるようにとの命を受けた」
「……待て、待ってくれ。妹が言い過ぎたのは、私からもよく言って聞かせる」
「カーシャ王太子殿下、私には開戦の自由が与えられていてね。あなたとはいい友人になれるかと思ったが残念だ」
演技がかった溜息をついたヴィルへルム様はわたしの腰をしっかりと抱き寄せたまま、アルノルト王太子殿下に向かって礼をする。わたしも倣ってカーテシーをしたけれど、内心では落ち着いてなどいられなかった。
「そういうわけで、申し訳ありませんが失礼します。私の副官が我が国の皇帝陛下との通信を繋ぎます故、ラテイロスや革命軍の協議などの際には副官にお声掛けを」
「あ、ああ。道中の無事を願っている」
「ありがとうございます」
どこか唖然としているアルノルト殿下とカタリナ様だけれど、わたしもきっと同じような顔をしていたと思う。
「……なんで、なんでその女ばかり……!」
アイシャ王女の震える声が響いた。
強い既視感に眩暈がする。
『なんでなんでなんで! なんでへスリヒが!』
タニア様に最後に掛けられた言葉がわたしの中を駆け巡った。
またヴィルへルム様の機嫌が悪くなっている。
わたしは漏れる溜息を堪えきれず、ヴィルへルム様の側から離れるとアイシャ王女に歩み寄った。
「アイシャ王女殿下。確かに今回、術士様はわたくしを狙って計画に荷担したのでしょう」
「そうよ! わたくしはそれに巻き込まれただけ! 全部あんたのせいなんだわ!」
背後でヴィルへルム様が動くのを感じ取ったわたしは、肩越しに振り返った。瞳孔の割れたヴィルへルム様が不機嫌を露にこちらに歩み寄ろうとしている。手を上げてそれを制すと再度王女に向き直った。
「ですが一国の王女として、他者を貶める発言をなさるのは如何なものかと思うのです」
「……なによ、偉そうに」
「差し出がましいのは理解しております。ですが王女殿下のお言葉やその振る舞いで、デゼリック王国の印象が悪くなってしまう事もあるのです」
「あんたからの印象が悪くなったって、うちは何も困らないわ」
「……わたしの周囲の方の印象も悪くなっているのですよ。それで国が危機に陥るかもしれないという事がなぜ分からないのですか」
「うちが危機に? ふん、我がデゼリックは海に囲まれた島国。水軍の強さは折り紙つきでしてよ。戦争になったって負けることはないわ」
わたしを見下ろすその視線には嘲りの色が強い。何度目かわからない溜息を飲み込んで、ぐっと拳を握りしめた。
この人は一体何を言っているのだろう。
「戦争になった時、血を流すのはあなた方王族ではない。前線で戦う兵士を、戦禍に巻き込まれる民草の事をどうして考えないのですか」
口から出た声は自分でも信じられない程に冷淡で、不機嫌さが露となっていた。




