2-24.咎の禁術
「禁術ねぇ……どうせ無駄だと、思い知ったらいいよ」
低く笑った術士様は、肩を叩いていた黒杖をヴィルヘルム様に向かって構え直す。切っ先に生まれた焔がゆらゆらと蠢いていた。
そうだ――前にまだ、わたしが下働きだった頃も、ああやって炎をちらつかせていた。わたしが背中を焼かれてから、炎撃を厭う事を知っていて。
でももう大丈夫。もう痛む傷なんてない。
ヴィルヘルム様は既に詠唱を始めている。
わたしの好きな、唄うような美しい詠唱。それに応えるように魔法陣からは魔法式が展開されはじめている。
わたしの知らない、古代文字。美しいその文字が孔雀緑の色に染まっている。
術士様が黒杖を一振りすると、蠢いていた焔が分裂した。そしてわたし達を飲み込もうと襲いかかってくる。わたしはそれを阻もうと結界を張った。
【いただきまぁす!】
焔が結界に当たって霧散する。
その結界を狙った白蛇が、勢いを付けて飛びかかってくる。白蛇が結界に歯を立てる刹那、それを見計らって、わたしは結界を解いた。目標が無くなった白蛇が体勢を崩す。そこに向かって杖を振ると、杖から放たれた光は矢となって白蛇へ向かっていった。
【おっと】
「油断しないでよね」
のけ反るようにして白蛇が矢をかわす。避けきれずに当たるはずだった矢は、術士様の張った結界に弾かれてしまった。
【なかなかやるじゃん、娘】
「僕のものにしたら、あんな杖もへし折ってやるけどね。また真名を奪うんだ」
【趣味悪ぃ】
「うるさいよ」
軽口を叩きながらも、術士様と白蛇は攻撃の手を休めない。
黒杖から放たれた焔が今度は白蛇に纏わりついて、白かった鱗が半分ほど黒炎の色に染まる。
あくまでも狙いはヴィルヘルム様らしい。
白蛇はヴィルヘルム様に飛びかかろうと距離を詰める。わたしの張った結界は、白蛇の尾で簡単に砕かれる――けれど、それを見越していたのはわたしの方で。
砕かれた結界に向かって杖を振ると、結界の光はロープとなって白蛇にしっかりと絡み付いた。固く結んで解けないように魔力を込めるけれど、術士様が炎を放つとそのロープは簡単に焼かれてしまった。
体の中を巡る魔力を確認する。――大丈夫、まだ戦える。
「まずは、その堕ち神に退場願おうか」
いつしか詠唱の唄は途絶えていた。
ヴィルヘルム様がわたしの頭を労るように撫でてくれる。その温もりが嬉しくて、笑みが零れた。
【俺を? 面白い事を言うもんだな】
術士様の側でゆらゆらとその体を揺り動かす白蛇が愉悦に口を歪めた。牙がぎらりと光を受ける。
ヴィルヘルム様は手にしていた白銀の杖で、床を突く。
ドン! と力強い音がしたかと思うと床から太い棘を持った茨が何本もつき出してきた。
『捉檻』
ヴィルヘルム様が古代語で詠唱の言葉を紡ぐ。それに従って茨は白蛇に襲いかかった。
のけ反り体をくねらせて、隙間からしゅるりと逃れようとする白蛇を、茨は逃がさない。茨自体が意思を持つように追いかけ続ける。
術士様が放った炎に包まれても、茨はびくともしない。そして――白蛇をその棘で絡め取った。
【ったく、鬱陶しい茨だぜ。で? これで俺をどうにか出来るとでも?】
「出来るからしている。現世に別れを告げる準備はいいか」
【はっ、ふざけたことを】
ヴィルヘルム様が杖に魔力を流しているのが分かった。飾られている瑠璃の魔石が色を濃くしている。
「堕ち神よ、虚無へと還るがいい」
【なっ……お前、神殺しの罪を負うつもりか!】
「罪になるのか? もう神の座も追われた、単なる魔物に過ぎないだろう」
ヴィルヘルム様が口端に笑みを浮かべた。凄味さえ感じられるその表情に息を飲む。
白蛇が慌てたように身をくねらせ、術士様も拘束を解こうと黒い刃を茨に何度も突き立てている。
『咎追』
短い、ただその一言だった。
ヴィルヘルム様の足元に描かれた魔法陣から、一気に魔力が溢れ出る。魔力を帯びた風の圧に思わずたたらを踏むと、ヴィルヘルム様が腰をしっかり抱いて支えてくれた。
ヴィルヘルム様は真剣な眼差しでじっと白蛇を見つめているが、その表情には余裕がないとわたしには分かった。ヴィルヘルム様の魔力が急速に失われていく。
【ぐ、あっ……がああああああっ!】
「くそっ!」
術士様が黒い焔をヴィルヘルム様に向けて放つ。わたしはそれを結界で弾くけれど、重い一撃に杖を持つ手が痺れてしまうほど。
そして――断末魔の悲鳴が余韻を残し、白蛇はさらさらと砂になって消えてしまった。
その砂もゆっくりと色を無くし、そして見えなくなった。
術士様がその場に膝をつく。額には珠のような汗が浮かび、顔色も悪い。肩で息をして、今にも倒れてしまいそうなほどだった。
「魂の一部を強制的に切り離して消滅させた。もう白蛇の、堕ち神の力は使えない。転魂の術も使えないんじゃないのか」
「……っ、うるさいよ」
「千年を生きる全能者もこれで終わりだ。お前のすべてを滅ぼしてやる」
「出来るものならやってごらんよ。強がっているけど、君だってもう魔力が残っていないだろう。神の存在を滅ぼす咎の禁術だ、魔力が枯渇したっておかしくない」
魔力が欠乏したら、次に失われるのは生命力。
わたしはヴィルヘルム様の言葉を思いだし、はっとした。ヴィルヘルム様を窺うけれど、いつものような穏やかな微笑みでわたしを見つめるばかりだった。わたしの不安が表情に表れていたのか、ヴィルヘルム様が額に唇を落としてくれる。宥めるような慈しむような、優しい温もりだった。
「エルザ、お前の未来は俺が守ってやる」
力強い声。
その声に何度勇気を貰ったか分からない。けれど、いまはその響きが、なんだかひどく哀しく聞こえた。
「ヴィルヘルム様……」
嫌だと、そんな事はしないでほしいと叫びたかった。けれど決意を持ったヴィルヘルム様の顔を見て、言葉がうまく形にならない。声の出し方も忘れたように。
『捉檻』
ヴィルヘルム様の声に応え、また茨が現れる。それは一直線に術士様に向かっていった。
茨に攻撃をして、飛んで、囚われる事を避けようとする術士様だったけれど、片足に茨が絡み付いて自由を奪う。
「……命を落とすことになっても、禁術を使うつもりかい?」
「俺がそれを躊躇うとでも? 覚悟は出来てる」
「だ、だめです、ヴィルヘルム様……!」
ようやく絞り出した声は情けないくらいに掠れていた。杖を握る力強い腕に思わずすがり付くけれど、ヴィルヘルム様が杖を下ろす事はない。
「心配するな、エルザ。死ぬと決まったわけじゃない」
「でも……!」
「俺の魔力が無尽蔵なのは知っているだろう」
声が震える。対するヴィルヘルム様はあまりにも普段通りで、胸の奥が苦しくなる。
「……我慢比べといこうか。僕の魂が消えるのが先か、君の魔力が尽きるのが先か。もちろん僕も、ただでやられたりはしない。抵抗はさせてもらうよ」
床に片膝をついたまま、術士様が不敵な様子で杖を構えた。杖の先に魔力が集まり、それは靄となって術士様を包んだ。
小さく詠唱しているのが聞こえる。黒く染まった古代文字が帯となって、術士様の周りをくるくるとゆっくり回っていた。
「心配するな、エルザ」
「でも……!」
「俺を信じろ」
その一言にわたしはもう黙るしかなかった。
考えろ。わたしに何が出来るのか。それを間違えたら、諦めたら、きっと……後悔する結末にしかならない。
ヴィルヘルム様が術士様に向かい、杖で床をドンと突く。そして――
『咎追』




