2-18.祈り
「エルザさん、しっかりして」
「……すみません、大丈夫です」
カタリナ様がわたしの背に手を当てて何度も優しく撫でてくれる。その温もりに落ち着きを取り戻したわたしは、意識して深呼吸を繰り返した。
恐怖に体を支配されるわけにはいかない。負けたくない。
「……あんたの、あんたが……」
その声は、わたしから少し離れた場所で聞こえた。そちらに目をやれば、アイシャ王女が離れた壁際まで下がり、自分の体を抱くようにして蹲っている。見開かれた瞳に映るのは憎悪の色。がたがたと震えながらわたしを睨んでいる。
「あんたのせいで、私は……っ! 返してよ! 今すぐ私を国に返しなさいよ!」
「アイシャ様、落ち着いて」
「あんたがあの男のものになれば私は解放されるんでしょ! 今すぐにあの男のところに行きなさいよ!」
「アイシャ様」
「最初から気にくわなかったのよ! あんたのせいで私まで巻き込まれて! あんたは疫病神なんだわ!」
近付いて制止するカタリナ様の声も届かない。
アイシャ王女の口から紡がれる忌言葉に、体の奥がすうっと冷えていくのを感じた。
バチン――!
不意に響いた鈍い音に、はっと我に返る。
何があったかと思えば、カタリナ様がアイシャ王女の頬をぶった音だった。アイシャ王女は唖然とした様子で、ぶたれた頬を押さえている。
「……いい加減になさい。これはウルバノ・グローマンが革命を成功させる為に起こした誘拐事件です。その過程であの術士が関わってくるだけで、エルザさんの責任など欠片もありません。あの術士がいなくても、ウルバノ・グローマンはわたくし達を誘拐して革命を成功させようとしていたかもしれません。その際はいまよりももっと手荒な手段だったかもしれませんね」
「でも……だって、その女が……」
「まだ落ち着いていないようですね。もう一発、お見舞いした方が宜しいでしょうか」
「っ……!」
カタリナ様が手を振りかぶると、アイシャ王女は口を噤んで首を何度も横に振った。
宜しい、と一言残して、カタリナ様はわたしの元に歩み寄ってくる。可愛らしい風貌からは想像の出来ない、強い声だった。
「ごめんなさいね」
「カタリナ様が謝られる事では……」
「あなたを守れなかったから」
紡がれた言葉に、目の奥が熱くなる。わたしは何と言っていいか分からずに、滲む視界を誤魔化すように瞬きを繰り返した。
「……エルザさん、あの術士との間に何があったの?」
わたしの隣に座り込んだカタリナ様が、わたしの手を強く握る。それを握り返しながら、わたしは今までの事をゆっくりと話していった。
母が亡くなり、義母と義妹が出来たこと。
父が亡くなり、術士様に真名を奪われ下働きの身に落とされたこと。
暴力や虐待を受けていたこと。
ある日、義母に命じられた術士様がわたしを国外に転移させたこと。
そこでヴィルヘルム様に救われたこと。
術士さまは元はヒルトブランドの魔導師団にいた人。
何人もの少女を誘拐して、虐待の末に殺害していた人。
処刑をされたけれど、転魂の術で別の肉体に乗り移った人。
その正体は千年を生きる全能者。
ヴィルヘルム様と精霊王様に魔法を封じられ、牢に入っていた人。
全てを話し終え、わたしはふぅと深い息をついた。カタリナ様はその瞳からぽろぽろと涙を溢れさせている。
「そん、な……大変な目に……」
「大丈夫ですよ。いまは幸せですから」
ドレスの隠しポケットからハンカチを取り出してカタリナ様に渡すと、それを使って涙を拭いてくれた。落ち着こうとしてか深い息を吐き出すと、気恥ずかしげに笑ってくれる。
「ごめんなさい、すっかり泣いてしまって」
「いえ、暗い話をしてしまって申し訳ありません」
「聞いたのは私よ。それにしても全能者が相手となると……さて、どうしたものかしら」
「ご存知なのですか?」
「私も魔導師の端くれですもの。でも伝説だとばかり思っていたわ。まさか実在するなんてね。無事に戻れたら、ガイノルドの皆に教えてあげなくちゃ」
明るく振る舞うカタリナ様に、わたしの気持ちも上向くようだ。つられるようにわたしも笑った。
そして、ひとつ思い付いた事がある。
「カタリナ様、少しやってみたい事があるのですが……」
「どんな事?」
「この場所で魔法は使えませんが、魔法を介さずに精霊を呼び出す事が出来ないかと」
「精霊召喚の魔法式を展開せずに、という事?」
「はい。この近くの精霊に声がもし届くのなら、と思いまして」
「簡単な事じゃないわ。きっとわたしの魔力じゃ無理。……でも、精霊王さえ力を貸すあなたの魔力なら、もしかしたら」
わたしとカタリナ様は頷き合った。
目を閉じ、胸の前で両手を組む。祈りを捧げる、いつもの形。
――精霊よ、どうかわたしの声に耳を貸して。
――精霊よ、どうかわたしの力になって欲しい。
体を巡る魔力を意識しながら、届くようにと願いを込める。
魔力に意識を集中させると、その魔力に色が乗るのが分かった。わたしが魔石を作る時に具現する瑠璃色。それに沿うように体を巡る孔雀緑――ヴィルヘルム様の魔力だ。
わたしの中には、ヴィルヘルム様に注がれた魔力が巡っている。
それに気付くと先程まで感じていた恐怖は消え去ってしまったようだ。離れていてもヴィルヘルム様はわたしを守ってくれている。そしてきっと、こうしている間にもわたしを助けようとわたしの事を探してくれていることだろう。
愛しさが胸の奥から溢れ出る。逢いたい、とそう思った。
『呼んだの?』
聞こえた声は鈴が鳴るように弾んでいる。
ゆっくりと目を開けたわたしは、目の前にふわふわと浮かぶその光に微笑みかけた。
「呼んだわ。わたしの声に応えてくれてありがとう」
『いいの。あなたの祈りは優しいの』
「ありがとう。お願いがあるんだけど……助けてくれる?」
『何をすればいいの?』
光が少しずつおさまってその先に見えたのは、わたしの手の平におさまる程に小さい、六枚の羽を背に生やした女の子だった。肩で切り揃えられた緑の髪が外側に跳ねている。
「わたし達、捕まっているの。あなたは、ここがどこか分かる?」
『分かるの。ラテイロスの東、山の麓なの』
「……ラテイロスの王都とは距離があるみたいね」
カタリナ様が落ちていた小さな石の破片を拾うと、床にがりがりと地図を刻んだ。山を越えた先にはカタリナ様の母国があるようだ。
「ここにね、わたし達を助けてくれるヴィルヘルムという人がいるの。その人にわたし達がここに捕まっていると教えて欲しいんだけど…」
わたしが地図上のリーヴェス王都を指差すと、精霊はわたしをじっと見つめた。
どうかしたかと首を傾げて見せると、精霊はわたしの額に小さな手で触れる。少しの間そうしていたかと思うと、にっこりと花咲く笑顔を見せてくれた。
『分かったの』
「……分かるの?」
『あなたの思い浮かべる、緑の目をした男の人、見えたの』
これが精霊の力なのか。
思わずカタリナ様と顔を見合わせていると、精霊がまた光を纏う。
『私が飛べばすぐなの。待っててなの!』
元気のいい声を最後に、余韻もなく光が消える。
「……まさか本当に精霊を呼び出せるなんて」
「……わたしも驚いています」
わたし達は声を潜めて笑った。
きっと大丈夫。ヴィルヘルム様がきっと来てくれる。先程までの陰惨とした気持ちは消え去って、希望だけが胸に灯っていた。




