2-17.人質の価値
「術士様……」
声が震える。
わたしの声に、背後の二人が戸惑ったように息を飲むのがわかった。ヘスリヒという呼び名にも何か思うところがあるのだろう。
「どうして、ここに……。魔封輪が外れたなんて、そんな話……」
目の前にいる術士様の首にも、瞳にも魔封輪は掛けられていない。偽物であって欲しいけれど、この気配も魔力も紛れもなく術士様だと言い切れる。幼い時から、この気配からだけは逃げなければならないと、心が覚えているのだから。
「君がそれを知らないだけで、僕はこうしてここにいる。君だけじゃない、あの元帥だってまだ気付いていないだろうけどね」
「……何が目的ですか。ラテイロスに身を寄せて、革命軍と戦おうというのですか」
口元を笑みに歪ませた術士様がわたしの全身に視線を這わせ、その笑みを深めた。その視線に背筋が震える。もう乗り越えたと思ったのに、こうして対峙するとやっぱりひどく恐ろしい。
術士様は懐から取り出したモノクルの曇りをハンカチで拭き取り、一度明かりに透かしてからそれを着けた。
「革命軍と? ああ、そうだよね」
可笑しそうに笑ったのは、術士様だけではなかった。ラウラ王妃も口元に手を寄せて肩を揺らしている。……ラウラ王妃も革命軍に弓引くつもりなんだろうか。
術士様が、パチンと高く指を鳴らす。
その瞬間だった。隣に立つラウラ王妃の顔がどろりと溶け落ちる。結い上げていた髪も解けて抜け落ちていく。
わたしの背後で「ひ、っ……」とくぐもった悲鳴があがった。アイシャ王女があげかけた悲鳴を、カタリナ様が塞いだようだ。
全てが崩れ落ちた後、そこにはラウラ王妃のドレスを纏った、男の人がいた。
優しそうな男性だけれど、それ以外に特徴がない。柔らかく細められた瞳も、弧を描く唇も、少し会わないだけで忘れてしまいそうなほど。
「ああ、窮屈だった。はじめまして、皆々様。私の名前はウルバノ・グローマンと申します。愚かな南の王族を討ち滅ぼす使命を帯びた戦士にございます」
ドレスを脱ぎ捨てた男性-グローマン-は、シャツにスラックスの軽装姿になった。足を引いて軽快な調子で一礼をして見せる。
「……革命軍が、ラウラ王妃に成り済ましていた」
思わず落とした呟きに、グローマンがにやりと笑った。
「その通り。この友人に手を貸して貰ってね、あの愚かな王妃に成り済ましたってわけだ。贅の限りを尽くすのに忙しいあの女は、招待状が届いていない事にも気づいていないだろうね」
「ラウラ王妃はご無事なのですか」
「いまはまだ、ね。あなた達の国に手伝って貰えれば、無事とは言えない状態になるだろうけれど」
背後でどちらかが体を震わせているのが分かった。
「わたし達は、国を革命に協力させる為の人質というわけですね」
そうだ、立場は変わらない。
どちらに拐われたか違うだけで。ラテイロスか、革命軍か。どちらにせよ、わたし達が人質だという事に変わりはないのだ。
「ご名答! あなた達の国が動けば、他国だって追随せざるを得ないでしょう。幾つかの協力は得ているが、あなた達の国ほどの大国は腰が重くてね」
グローマンは鉄格子に一歩近付いてくる。
もし鉄扉を開くようなら、何とかしてあの二人の足止めをしなければいけない。その隙にカタリナ様とアイシャ王女が助けを呼びに行けるかもしれない。
そんな事を願っていたのに、グローマンは鉄格子に触れようともしなかった。
「大丈夫、革命が成功すればあなた達は無傷で国にお返しします。……そこのミロレオナード夫人以外は」
驚きはしなかった。
術士様が側にいる時点で、それは予想していた事だ。
「術士様はそれを条件に、革命軍へ力を貸したのですね」
「そうだよ。正直なところ、僕は革命はどうでもいいとさえ思っている。僕の目的は今も変わらない。君を僕のものにすることだけだ」
「おいおい、ゲオルグ。そんなつれない事を言わないでおくれよ。革命が成功するまで……いや、三国がラテイロスに革命軍と共に攻め込むまででもいいんだ。それまではお預けだよ」
両手を広げたグローマンが演技がかった口調で言葉を紡ぎだす。そのまま術士様に歩み寄るとその肩をしっかりと抱いた。
親しげな雰囲気を醸し出しているのに、二人の間に友情や信頼なんてものが見当たらなくて、なんだかそれが空恐ろしかった。
「後程、あなた達の姿を各国に映し出す。交渉の始まりだね。化粧直しのひとつもさせてあげたいところだけど、あなた達はそのままでも美しいから心配しなくていいよ」
おどけて見せるけれど、グローマンの瞳に楽しげな表情はない。唯一、仄かに浮かぶのは冷たい程の怒りだけ。
そう、彼は――強い怒気をその胸に隠している。その行く末が革命だったのだろう。それだけの事をラテイロスはしているのか。
「……もし国が、あなたの要求を飲まなかったら?」
「それは悲しいことだね。私の本気が伝わらないだけなら、あなた達に少し痛い思いをしてもらうかもしれない。最初から協力する気がないのなら、あなた達には価値がなかったということだ」
大袈裟なほどに溜息をついて見せるけれど、その言葉に憐憫や哀れみの色はない。
誰かがわたしの腕に、痛いほどに縋りつく。視線を向けるとアイシャ王女だった。爪に飾られた宝石が光を映している。
「うん、その指いいよね。お茶会の時から思っていたんだ。その指を落として送りつけたら、砂漠の王は私達に協力してくれるだろうかって」
「ひぃっ!」
高い声を詰まらせて、アイシャ王女が慌てて手を隠す。
わたしは心臓が忙しないのを押し隠し、平然を装ってグローマンを睨み付けた。その隣で術士様が微笑んでいるけれど、決してそちらは見ないようにして。
「あまり脅かさないで下さい。まだわたし達に価値がないと決まったわけではないのですから」
「そうだったね、ごめんごめん。……その価値が下がらないことを願っているよ、私としても」
低く笑ったグローマンは、ドレスを踏みつけて来た道を戻っていく。
しかし術士様はそこから動かなかった。
「ヘスリヒ」
「……わたしの名前はエルザです」
「ふぅ……君にはまたお仕置きが必要なようだ。元帥がどう動こうと、もう君は僕のものだ。その事実は揺るがない」
「もう、あの頃のわたしではないのです。怯えて震えていた子どもじゃない。わたしはあなたのものにはならない。今までも、これからもずっと」
正直、怖い。
今すぐここから逃げ出してしまいたい。でもそれが叶わないと知っているから。この人に奪われなかった誇りを胸に、わたしは立ち向かわなければならない。
両手の拳をぐっと握りしめると、爪が食い込む鈍い痛みがする。大丈夫、わたしはまだ何も奪われていないのだと実感する。
術士様が肩を竦めると、その影から大きな白蛇が姿を現した。
驚きに目を瞠ってしまうと、その蛇は驚いたことに目を細めた。機嫌良さげに真っ赤な割れた舌をちろちろと動かしている。
白蛇は術士様の体に絡み付いているが、術士様が気にした様子はない。
「……ヘスリヒ、君は僕のものだ」
術士様の低音が牢に響く。
踵を返した術士様が蛇と共に牢の前から離れていく。その気配が分からなくなるまで、どれだけの時間が経っただろう。
魔力も気配も読み取れなくなった時、わたしはその場に膝から崩れ落ちていた。
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