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2-8.夜会のはじまり

 夜会の会場となる広間には、既に沢山の人が集まっていた。

 広間の端では黒の衣装に身を包んだ楽団が、明るく柔らかな音楽を奏でている。ダンスの時間にはまだ早く、招待客は歓談したり軽食を摂ったりとこの時間を楽しんでいるようだ。



 高く設えられた奥の座には、豪奢な椅子に腰掛ける王太子殿下と妃殿下がいる。途切れる事のない挨拶の列に、わたしは内心で驚いてしまったのだけど、あとであそこに並ばなければならない。

 それにしても王太子殿下はあんなに柔らかく笑う人だったのか。お目にかかったのは、伯爵家で義母達を捕らえる為のあの時一度きりだけど、あの時は酷く険しい顔をしていたのを思い出す。お隣の可愛らしい妃殿下を思いやる表情に溢れ、妃殿下もまた王太子殿下を慕っているのが分かるほどに頬を染めている。穏やかな雰囲気のふたりを見て、思わず笑みが零れた。



 広間には美しい硝子細工のシャンデリアが幾つも飾られている。光の魔法で輝きを放つそれに照らされて、会場にいる人々の宝石やドレスが煌めいてとても綺麗。

 初めての夜会にわたしが呆然としてしまうと、傍らのヴィルヘルム様がくつくつと低く笑ったのが分かった。


「どうした?」

「あ、その……なんだか凄い、と圧倒されてしまいました」

「そうか。嫌いではなさそうだな?」


 ヴィルヘルム様が指先でわたしの前髪を直してくれる。その優しい仕草が心地よくて目を細めた。

 そう、ヴィルヘルム様の言う通りに、この雰囲気は嫌いではないのだ。圧倒されてはいるけれど、華やかなこの空間を皆が楽しんでいるのが伝わってきて、わたしの心も弾むよう。


「そうですね、きっと。それにヴィルヘルム様の素敵な姿が見られますから」

「なんだ、この正装が好みか? それなら今夜はこのままだな」


 何を、とは問えない。

 咎めるような視線を送ってみても、ヴィルヘルム様は涼しい顔で笑うばかり。


「まず挨拶に行こうか」

「はい」


 先程までは長かった列も、少しは落ち着いてきている。周囲の視線を感じながら、わたしはヴィルヘルム様に導かれるまま足を踏み出した。



「ふぅん、あなたが元帥閣下のご夫人なのねぇ」


 踏み出したはずの足は、棘のある声に止められた。ヴィルヘルム様の機嫌が急降下しているせいで、なんだか肌寒くなってきている。

 わたしが絡めた腕に力を込めて言外に寒いと訴えると、小さな溜息が降ってきた。冷気を抑えてくれるつもりはあるらしい。

 背後から掛けられた声に振り返ると、そこには褐色の肌に翡翠の瞳が印象的な美しい女性がいた。タイトな赤いドレスは魅惑的な体によく似合っている。胸元も大きく開き、正面からでも腰の素肌が見えているのだから、きっと背中も布地は無いのだろう。露出が多いのに下品ではないのはやはりセンスとスタイルの賜物なのだろうか。


「はい、ルクレツィア・ミロレオナードと申します」

「わたくし、デゼリッグ王国(砂漠の国)の第一王女、アイシャ・デゼリッグですわ」


 掛けられた声は不躾なものだと思うけれど、わたしはそれを隠してカーテシーで挨拶をする。見定められるような視線が降り注いで、内心で苦笑いをするばかり。


「ふぅん、まだ子どもじゃない。綺麗なのは綺麗だけど……」

「私の妻に何か御用ですか」


 わたしを背に隠そうとするヴィルヘルム様の腕に手を掛けて、わたしは隣から離れるつもりはないと訴える。それだけで旦那様は分かってくれたようで、わたしの腰に手を回した。


「ご執心の奥さまを見てみたかっただけですわ。ねぇヴィルヘルム様、わたくしをお側に置くというお話、考えて下さいました?」


 先程までの棘もどこへやら、銀色の髪を背に払ったアイシャ王女はにっこりとヴィルヘルム様に笑いかける。わたしを抱く腕とは逆のヴィルヘルム様の腕に両手を絡ませようとした。

 ヴィルヘルム様は一歩下がり、その手を難なく避けるけれど、わたしの胸には燃えるような感情が沸き上がった。(くら)く渦巻く、嫉妬。怒りにも似た不快感を表情に出さぬよう、わたしは淑女の笑みを顔に貼り付ける。


「ふふ、砂漠の国ではそういうご冗談が流行しているのですか? わたくしには面白さが伝わらないのですが」

「冗談じゃなくてよ。ヴィルヘルム様にはわたくしがふさわしいと本当の事を申しているだけ」

「ふさわしい、ですか」

「そうよ。聞いたところだと、あなた……この国を追い出されたんですってね。もう伯爵家の後ろ楯もない。そんな夫人がヴィルヘルム様のお力になれると思って?」


 後ろ楯はないけれど、()()()を追い出されたわけではない。淑女の笑みを貼り付けて、そろそろ頬が疲れてきたけれど、反論はしないといけない。


「王女殿下」


 わたしが口を開くより先に、ヴィルヘルム様の地を這うような低音が響いた。殺気さえ纏うような鋭い声。


「それ以上、私の妻を侮辱するのはやめて頂きたい」

「……っ、ヴィルヘルム様、わたくしは……!」

「私は彼女以外を妻にするつもりはありません。これ以上関わり合うのはお互いの為にならないでしょう。では、良い夜を」


 いつも傍にいるわたしでさえ、震える程の恐ろしい声。ちらりと窺ったその表情は冷酷そのもの。冴え冴えとした孔雀緑の瞳に光はなく、瞳孔が縦に割れている。

 それに気付いたアイシャ王女が「ひ、っ……!」と悲鳴を押し殺す。


「……ヴィルヘルム様、参りましょう」


 掛けた声は、自分でも驚く程に掠れていた。口を開かず小さく咳をすると、ヴィルヘルム様がわたしへと顔を向ける。一転して、柔らかく美しい、いつもの笑みだった。

 わたしへ愛を囁く時の、甘い表情。アイシャ王女が息を飲むのが分かった。


 わたしは軽く会釈をしてから、ヴィルヘルム様のエスコートでその場を離れる。強く刺さるような視線を背後から感じたけれど、もう振り返る事はなかった。



 大きな広間、そして人が多い事もあって、わたし達の小さな諍いが注目を浴びる事はなかったらしい。それに内心安堵していると、隣のヴィルヘルム様が溜息をついたのが分かった。


「攻め込むか」

「おやめください」


 砂漠の国に攻め込むというのか。わたしは苦笑いするしかない。

 腰に回っていた手が離れ、組みやすいように腕が差し出される。そこに手を掛け寄り添いながらわたしはヴィルヘルム様に目を向けた。

 横顔からは未だに怒りの気配が漂うけれど、それでも美しい人だと思う。


「不快な思いをさせたな」

「否定はしませんが、ヴィルヘルム様のせいではないですもの」


 それにアイシャ王女が言った事、全て間違っているわけでもない。

 わたしは何も持っていない。後ろ楯になるだけの家も、教養も、財産も。全てを失ったわたしが全てを取り戻せたのは、ヴィルヘルム様が与えて下さったから。


 ……それらを取り除いたわたしには、何があるんだろう。


「変な事を考えているな」

「……え?」


 見上げた先には困ったように眉を下げる旦那様の姿が。この人はまたわたしの心を読んだんだろうか。いつものように言葉を返す事もできずに、ただわたしは笑うしか出来なかった。

 心の奥が軋む事には、気付かない振りをして。


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