2-7.星紛れに夜会の支度を
夕明かりに虹が掛かっていた。曇りのひとつもない窓から見えたその七色は、夕闇が濃くなるにつれ消えていく。
「はい、前を向いてくださいね」
笑いながら掛けられた声に、わたしは慌てて前へ向き直った。鏡に映るユマが目を細めたのに気付いて恥ずかしくなる。
こうして支度をしてもらうのにも、慣れたものだ。初めてヒルトブランドに渡った時もオーティスさんが支度をしてくれた。あの頃の痩せ細って傷だらけだった『わたし』は、いまは幸せそうに笑っている。
ユマはわたしの金髪を櫛で丁寧に梳いていく。その優しい手つきが心地よくて、ずっとしていてほしいと思ってしまうほど。それから編み上げて、ねじりを加えて、複雑な形に結っていく。頭の左側にパライバトルマリンの髪飾りを載せて出来上がりのようだ。髪飾りは花の形を模していて、垂れた鎖が耳元でしゃらりと小気味良く揺れた。
お化粧もしっかりしてもらったおかげで、自分でも綺麗になったと思えた。真珠の粉が目元や頬で煌めいている。
今日のドレスは瑠璃色だ。布地には小さな宝石が無数に縫い留められていて、まるで星空のよう。幾重にも重ねられた同色のレースと、縁を飾る金の糸。肩もうなじも露になっているけれど、その分パライバトルマリンの首飾りや耳飾りが映えていると思う。
後ろ姿は腰に同色のリボンが飾られていて、そこから白のフリルが何段にも裾まで広がって可愛らしい。
高めのヒールで立ち上がったわたしは、渡された瑠璃色の長手袋を両手にはめる。肘までのそれをユマに直して貰って、支度は完了。
「どうかしら?」
「とってもお綺麗ですよ。旦那様が待ちきれない様子ですので、見て頂きましょうか」
ユマは満足そうに頷いてくれる。そのまま寝室の扉へと歩み、大きくそこを開けると軍服姿のヴィルヘルム様が現れた。わたしの姿を見ると目を瞬き、すぐに破顔して足早に近付いてくる。それが何だか嬉しいのに気恥ずかしくて、わたしはにっこり笑うしか出来なかった。
「綺麗だ、エルザ。とてもよく似合っている」
「ありがとうございます。……ヴィルヘルム様もとっても素敵です」
ヴィルヘルム様は正装の軍服姿だ。
詰襟が特徴的な腰までの軍服は、ズボンも同じ白。それに合わせる勲章が飾られたジャケットは黒で、後ろ身頃が長くなっている。右腕につけた腕章には、獅子と太陽の紋章。衣装は金糸で装飾がされていて、美しいのに決して派手ではない。そしてやっぱり、この姿のヴィルヘルム様は格好いい。今日は夜会ということで軍帽はかぶっていないけれど。
「はいはい、お二人とも。見つめ合うのもそのくらいになさって下さいませ。そろそろお時間ですよ」
呆れたようなユマの声に我に返る。顔に熱が集う事を自覚するけれど、ヴィルヘルム様は平気な顔だ。
「行きたくない。こんなに美しいエルザを他の男共の目に晒さねばならんと思うと」
「はいはい」
相変わらずのヴィルヘルム様と、それを軽くあしらうユマ。その姿が可笑しくて、思わずくすくすと笑みが漏れた。
「見せびらかして下さいませ、ヴィルヘルム様。わたしがあなたの妻なのだと」
ヴィルヘルム様の腕に片手を絡ませて、そう言葉を紡ぐ。わたしも見せびらかすから、とそんな気持ちを込めて見つめると、孔雀緑が優しく煌めいた。
「そうだな。さっさと済ませて部屋に戻ろう」
低く笑ったヴィルヘルム様は吐息が漏れるくらいに格好いい。……こんな旦那様を他の人に見せたくないのはわたしも同じで、ヴィルヘルム様の事を言えないかもしれない。
私たちの様子に笑いながら片付けをするユマも、お仕着せ姿ではあるがお化粧を強めにしていて美貌が際立っている。金髪も複雑な形にきっちり纏められていて、きっとドレスがよく似合うと思った。
会場の端に控えているから、何かあればすぐに連れ出してくれると言っていた。万が一お化粧が崩れたり、ドレスが汚れたりしても……という事を言外に感じ取って、不安が少し薄らいだ。
――コンコンコン
ノックの音に、ユマが扉に向かう。
開いた先にいたヴィルヘルム様のように正装の軍服を着たジギワルドさんが入室してくる。上下とも白の軍服で、やはり金糸や胸元の勲章が光を受けて煌めいている。いつもは結い上げている黒の長髪は三つ編みにして背に垂らしていた。きっとユマがしたのだろう。綻びもない綺麗な三つ編みだった。
「支度は出来たみたいだな。じゃあそろそろ向かうか」
ジギワルドさんも会場に居てくれると言っていた。多分……なのだけど、きっと何か別の任務があるのだろうと思う。時折ヴィルヘルム様と一緒に打ち合せしているけれど、その内容はわたしには入ってこない。ジギワルドさんに危険な事がないようにと、願うしかなかった。
「待って、ジギー。奥様に何か言う事があるんじゃない?」
「ああ? んなもん、そこの元帥閣下が褒めてんだろ。俺は馬に蹴られたくねぇ」
ユマとジギワルドさんのやりとりに、お化粧が崩れるかもしれないのに笑ってしまう。傍らのヴィルヘルム様を見遣ると苦笑いの表情だ。
「では、行こうか」
ヴィルヘルム様の声に、ユマとジギワルドさんの背筋が伸びた。友人としてではなく、元帥とその副官としての表情になっているのが分かる。
わたしはヴィルヘルム様の腕に手をかけて、ゆっくりと深呼吸をする。恐れることなんてない。
ふと窓に目を向けるとすっかりと夜が籠んでいた。星の紛れのなか、一際輝く赤星が美しい夜だった。




