5.新しい名前
この状況はいったいどうしたらいいのだろうか。
表情筋は相変わらず仕事をしていないだろうけど、わたしは内心で動揺していた。
オーティスさんに身支度を整えて貰ってすぐに、美人さんが部屋に入ってきた。手を引かれるままに部屋を出るものだから、後ろで「あらあら」なんて笑うオーティスさんに頭を下げることしか出来なかった。
連れて行かれたのは、先程までよりも広い部屋。テーブルの上にはこれでもかとばかりに、湯気の立つ料理が並べられている。
そのテーブルと向かい合うソファーに座る美人さん。どういうことだかわたしは、その膝の上に横向きに座らされている。改めて言う、この状況はいったいどうしたらいいんだろうか。
「栄養失調寸前だ。食べないと死んでしまうぞ」
美人さんは眉を下げながら、わたしの口元に小さく切ったお肉を押し付けてくる。自分で食べられるとそのフォークに手を伸ばすも、渡してくれる様子は無い。
「あの、自分で食べられます。というか……下ろしていただけると……」
「軽いから問題ない」
「いえ、そういうことではなくてですね……」
これは子ども扱いされているのだろうか。
栄養が足りていないのも事実だし、小柄なのも認める。だけどもこれでも十六歳。男性の膝に座るなど破廉恥だ。
それを訴えても美人さんは、心配そうな表情をしながらも、時折楽しげに、わたしに食事を運ぶのだ。これはもう給餌なのだと、わたしも諦めることにした。
久しぶりに食べた温かいご飯。
いつも口にしているのは冷え切った具のないスープだとか、傷んでしまった堅いパン。
それも一日に二回食べられたらいい方で、一日一回も珍しい事ではなかった。そういう時は水で空腹を紛らわせていたっけ。
こんな柔らかいパンも、温かなスープも、分厚いお肉も、新鮮なお野菜もわたしの口には入らなかった。
食事はとても美味しいのだけど、粗食に慣れきったわたしの体には沢山入らない。すぐに胃が苦しくなってしまって、食べられませんと首を横に振ると、美人さんは眉を下げた。
「少しずつ慣らすぞ。もっと太らないといけない」
痩せぎすなのは自覚している。
わたしの事を自分の隣にそうっと下ろしてくれると、美人さんは残った食事をあっという間に全て平らげてしまった。細身に見えるのに、あの量は一体どこに入るのだろう。不思議すぎて目を瞠っていたようで、わたしの様子に気付いた美人さんが可笑しそうに笑う。
ああ、まただ。
また笑いかけてくれる。
美人さんが笑ってくれる度に、わたしの胸奥で軋む音がする。遠い昔に失った温もりが戻ってくるようで、わたしは慌ててその感情に蓋をする。
「そういえば俺は君に名乗っただろうか」
「いえ……」
「そうか、すまない。あの場で名乗るべきだったな。正体不明の男に連れて行かれては不安もあっただろう」
「そんなことは……」
名前を伺っていないのは気付いていた。だが自分がお名前を伺っていいものなのか。それに迷っていたのだが、逆に気を遣わせてしまっていた。
「俺はヴィルヘルム・ミロレオナード。ヒルトブランド帝国空軍の元帥だ」
「……元帥閣下だったのですね、大変失礼なことを…」
「そんなに堅苦しくならないでくれ。記号のようなものだ」
そう言われても。
昔ついていた家庭教師から、ヒルトブランド帝国には海軍・陸軍・空軍があると教えて貰っていた。空軍は出来たばかりで、当時の皇太子が元帥の座にいたと習ったが、恐らく代替わりしたのだろう。皇太子の絵姿は見たことがある。
「さて、真名を取り戻すまでの君の呼び名だが……エルザというのはどうだ?」
「……わたしに、呼び名を?」
「いままでの呼び名は気分が悪いし、あんなもので君を呼びたくない」
吐き捨てるような声の棘は、わたしに向けられたものではないのが分かる。わたしに向けられる声や表情は柔らかい。
「エルザ。気に入ってくれると嬉しいのだが」
エルザ。
これがわたしの新しい呼び名。綺麗な響きだと思った。
嬉しいけれど、わたしの表情は動かない。これではわたしが嬉しいという事が伝わらない。それなら、それを伝えないと。
「ありがとうございます。凄く嬉しいです……でもわたし、すみません。その……表情が作れなくて、嬉しさでいっぱいなんですが、そう見えないですよね……。すみません……」
居た堪れなさに、言い訳めいた言葉を紡いでしまう。
焦るわたしとは裏腹に、閣下はわたしの手を取りそっと握ると「いいんだ」と小さく言ってくれた。その表情に嫌悪感はなく、ただわたしへの気遣いが見える。
「エルザが喜んでいるのは伝わった。だが、これからも言葉で示してくれると俺も助かる。そうすれば誤解しないで済むだろう?」
「……ありがとうございます」
安堵に思わず閣下の手を握ってしまうが、彼は優しく笑うだけでそれを解いたりはしなかった。やっぱり美人だ。
「エルザ、君のいままでの事を聞きたいのだが」
「はい、構いません。わたしが覚えている事全て、お話し致します」
窓向こうの空では、大きな月が綺麗に満ちて輝いていた。