幕間.爪紅
わたしはいま、自室のソファーの上にいる。寝着の裾で足を包み、ソファーの端で背凭れに手を掛けて。
わたしの前でにっこりと笑っているのは、愛しいわたしの旦那様。愉しそうにその美しい顔を綻ばせ、わたしの寝着を引っ張っている。
「……自分でやりますので」
「俺がやりたい」
「……恥ずかしいのです」
「何を今更。俺とお前の間で、恥ずかしい事などないだろう」
先程からこの調子。
ヴィルヘルム様の手には、オーティスさんから頂いた爪紅が握られている。新しい色だからわたしにとオーティスさんが今日、下さったらしい。
それを自分で塗ろうとするわたしと、わたしに塗りたいヴィルヘルム様。
任せてしまえばいいのかもしれないけれど、ヴィルヘルム様はわたしの足の爪に塗りたいと言っているのだ。足を晒すのは恥ずかしい。……今更だというのも分かっているけれど。
「無理矢理されたいか?」
「ヴィルヘルム様はそんな事しないって、知っています」
「そうか? 気分が変わっていいかもしれない」
「何の気分ですか……」
ヴィルヘルム様は諦めないだろうというのは、分かっている。ここはわたしが諦めるしかなさそうだ。
「……擽らないで下さいね」
「口付けるのは?」
「だめです!」
わたしはおずおずと寝着の裾から足を出した。その足首を掴んだヴィルヘルム様は、引っ張って自分の太腿の上に乗せてしまう。
体勢が崩れて、ソファーの端にあるクッションに体を預けるようになってしまったけれど、足を掴まれていては姿勢も直せない。ここも諦めるしか無さそうだ。
「お前は足の爪も可愛らしいな」
「……変な事を仰らないで下さい」
羞恥に、顔が赤くなることを自覚する。わたしより体温の高い手に触れられて、そこから熱が広がっていくようだ。
ヴィルヘルム様は小さな爪やすりを手にして、わたしの爪を整えていく。壊れ物を扱うような優しい手付きから目が離せない。
「お上手ですね」
「そうか? お前の足を傷つけるわけにいかないからな」
そう言うヴィルヘルム様はとても楽しそうだ。任せる事に不安があるわけではない。ただ、恥ずかしいだけで。でもヴィルヘルム様が楽しそうにしているから、そこまで羞恥を感じる事でもないのかと思えた。
「塗っていくぞ」
「はい、お願いします」
ヴィルヘルム様が手にしている爪紅は珊瑚色だった。真珠の粉が入っているらしく、きらきらと光を受けて輝いている。
爪紅の小瓶に付いている小さな筆で、ヴィルヘルム様は丁寧に色を乗せていく。擽るような真似もせず、真剣な眼差しで。その横顔が美しくて、わたしは目が離せなかった。
爪に色を塗り終わったと気付いたのは、その美しい孔雀色がわたしに向けられたからだった。わたしがじっと見つめていた事に気付いたヴィルヘルム様は、目を瞬くもすぐに悪戯に笑う。
「どうした? 見惚れていたか」
その通りだから頷くしか出来ないのだけど。わたしが返事をする前に、わたしの足を持ち上げたヴィルヘルム様は足の甲に唇を落とす。高い音を響かせて唇が離れると、そこは薄く色付いている。
「……っ! ヴィルヘルム様!」
「そんな顔で見ているのが悪い。煽るな」
ヴィルヘルム様は機嫌のいい声で言葉を紡ぐと、わたしの足をゆっくり床に下ろしてくれた。次にわたしの手を取ると、逆手にはまた爪やすり。どうやら手の爪にも塗ってくれるらしい。
「手の爪は、爪の先を色濃くすると可愛らしいと聞いた。塗っていいか?」
「お願いします」
足の爪ほど恥ずかしくはない。それにヴィルヘルム様がしてくれるのは、嬉しい。わたしは上体を起こして手を任せた。
足の時と同じように、丁寧に爪の形が整えられる。わたしが自分でするよりも、遥かに上手だ。指の腹で爪に触れてみても、引っかかることもなく滑らかだった。
「痛くないか」
「大丈夫です。器用なんですね」
「初めてだから加減がわからん。だがこれはいいな、楽しい。次からも俺にやらせてくれるか」
「それは……ヴィルヘルム様が宜しいのなら」
「ではこれは俺の特権にしよう」
ヴィルヘルム様は十指の爪すべてに、一度薄く爪紅を塗り終えると再度親指の爪に筆を載せる。爪の中ほどから先端まで、丁寧に塗っていってくれる。真珠の粉がきらりと光った。
「綺麗な色ですね」
「お前の肌によく似合う。これを選んだのがオーティスだというのが面白くないが」
「今度はヴィルヘルム様が選んでくださいます?」
小指まで塗り終えたヴィルヘルム様が視線だけをわたしに向ける。その優しい眼差しに鼓動が跳ねた。
「もちろんだ」
十本塗り終えると、また親指の爪に戻る。今度は先端だけに色を乗せて、綺麗なグラデーションが完成した。わたしがそれに見惚れている間に、すべての爪が同じように仕上がっていく。
わたしは両手の指をぴんと伸ばし、色んな角度からそれを眺めた。まったくはみ出してもいないし、美しい仕上がりに目を瞠るばかり。
「わたしがするよりお上手です。ありがとうございます」
「いや、楽しかった」
ヴィルヘルム様は満足そうに笑うと、わたしの手を取り立ち上がる。つられるようにわたしも立ち上がると、導かれたのは寝台だった。
「さて、ご褒美を貰おうか」
「ご褒美」
「ああ。その指で俺に触れてくれ」
ヴィルヘルム様の瞳に熱が灯る。孔雀緑が色濃くなって、わたしは思わず息を飲んだ。きっとわたしも、同じような瞳をしているのだろうと思う。
手を引かれて、共に寝台に倒れこむ。ヴィルヘルム様の胸元に添えた指先で、珊瑚色が妖しく光った。




