28.初めての召喚
ルクレツィア・ヒパティカ・レーバブリューム。
頭の中に名前が浮かぶ。
目を開けるとわたしと術士様の間には、柔らかな淡黄色の光が繋がっていた。
「ルクレツィア・ヒパティカ・レーバブリューム……」
呟くと、その名前はすとんとわたしの中に馴染む。そうだ、これはわたしの名前。術士様に奪われて忘れていた、わたしの真名。
「くそ……っ!」
動揺した声を上げる術士様が漆黒の杖を振り切ると、美しい白虎は霧散してしまった。肩で荒い息をしている術士様は苦々しげにヴィルヘルム様を睨んでいる。
「……やられたよ、古代獣でさえ目くらましとはね。まぁいい、もう一度奪えば済む話だ」
「俺がそれをさせるとでも?」
「逆に言いたいね。僕に出来ないとでも思ってる?」
二人の遣り取りがどこか遠くで聞こえる。
体が熱くて、魔核を作る時よりも強い魔力が、奔流となってわたしの体を巡るようだった。足がふらつくも、ヴィルヘルム様が腰を抱いて支えてくれる。
「魔力の道が開こうとしている。大丈夫だ、俺がいる」
力強い声に思わず微笑むと、術士様の盛大な舌打ちが聞こえた。
「……ヘスリヒ。君は僕のものだろう。忘れたのか」
地を這うような低音に体が震える。でもわたしはもう、あの時の幼い子どもじゃない。全てを奪われたあの時のわたしではないのだ。
目を逸らす事無く術士様に視線を向けると、一瞬、術士様が眉を下げた。
「……渡さない、君は誰にも」
術士様が黒杖を振ると、杖にあしらわれた黒い魔石から小さな石が無数に現れる。それはパラパラと地面に落ちる。ただそれだけだった。それなのに、背筋に氷を当てられたような感覚が走る。怖い。
傍らのヴィルヘルム様を見上げると、険しい顔をしていた。後ろに控えるオーティスさん達を肩越しに振り返り、ただ小さく頷かれた。
ぞわ……と、空気が震えた。
石が落ちた場所から黒い霧が立ち上ると、それは魔獣の形を成していく。それも無数に。数えられないほどの魔獣が庭を埋め尽くし、わたし達を取り囲むようにして庭園中に展開していた。
狼のようだったり、鳥の形、角の生えた兎だったり、死人のような形だったり。様々な魔獣がじりじりと距離を詰めてくる。
「総員、殲滅せよ!」
何も畏れる事の無い、威厳ある力強い声。ヴィルヘルム様がそう命令すると、共に庭にいた空軍の兵士さん達や王宮の騎士さん達が、声に応えて駆け出していく。
先頭を走るのはオーティスさんとジギワルドさんだった。
ヴィルヘルム様は戦闘に加わらなかった。ただ真直ぐに術士様に視線を向けている。
「流石、帝国最強と名高い空軍兵士だね。空を駆けずともその力は劣らない、か」
「投降する気はないだろう。お前はここで仕留めさせて貰う」
「僕を殺すことは出来ないよ。でもそうだね……この体を殺して、君の体を奪うのもいいかもしれない」
可笑しそうに低く笑う術士様の瞳に、狂気の色が揺れている。鶯色の瞳が色濃くなる。黒髪の中の一房だけも同じ鶯色で、瞳の色が映るようにその一房もまた色が深くなっていく。
「……させません」
ヴィルヘルム様を殺させたりしない。この場にいる誰も殺させない。わたしを奪わせる事もしない。
わたしの声に、術士様が眉を寄せる。思えばあの人は、人形のようなわたしを好んで、口答えは許さなかった。
もう怖くない。震えたりもしない。わたしをヴィルヘルム様が支えてくれている。わたしはもうひとりじゃない。
先程まで体の中を駆け巡っていた魔力が、今では嘘のように落ち着いている。これなら暴発させないで済みそうだ。
わたしはヴィルヘルム様ににこりと笑って見せると両手を天に掲げた。
「杖よ」
わたしの声に応えるように、体中の魔力が両手に集っていく。溢れる光は次第に白銀の杖へとその形を変えていった。
初めて作った、わたしだけの杖。
現れた杖を両手に受け止めて胸の前に掲げると、ぱきん、ぱきんと音がしてヴィルヘルム様がくれた魔導具の石が割れていくことに気付いた。
割れた石から淡黄色の光が集う。髪飾りも壊れたようで、結っていた髪がふわりと解けた。巻き起こる風に遊ばれるわたしの髪。
淡黄色の光が杖に集まる。そこにわたしの魔力の青も集まり重なり合うと、花弁を幾重にも重ねたような緑色の魔石が白銀の杖に飾られていた。
まるでヴィルヘルム様の瞳のような、色鮮やかな孔雀色。
「……その色、気に食わないな」
術士様の呟きは、乱戦の声に溶け消えた。
「エルザ、あの男の魔力を封じる。殺すのは難しくないが、術を発動されると厄介だ。共に出来るな?」
「はい、ヴィルヘルム様が居てくださるなら」
ヴィルヘルム様は不敵に笑うと、わたしの腰を強く抱き寄せる。伝わる温もりが愛おしくて堪らない。この人と一緒なら何も怖くない。
「精霊よ、ルクレツィア・ヒパティカ・レーバブリュームの名において召喚する。その力を我に示せ。その光を我に与えよ」
昔、母に教えて貰った精霊召喚の術。それからすぐに真名を封じられたわたしには使うことが出来なかったけれど、今ならば召喚できる。他に魔法を習えなかったわたしにはこれしか出来ないけれど、ヴィルヘルム様が居るから大丈夫。わたしはわたしに出来る事をすればいい。
『承知した』
聞こえた声は高いようで低い。聞く耳によって異なるような不思議な旋律。
わたしの杖の前に現れたのは角度によって色の変わる、虹色の髪をたなびかせた背の高い男の人だった。
「な、っ……!」
「マジかよ!!」
オーティスさんとジギワルドさんの声が聞こえる。視界に入る魔獣の数は減っているから、此方に気を配る余裕もあるのかもしれない。
「……ヘスリヒ、君は何を呼び出したのか分かっているのか……」
珍しく術士様の顔色が悪い。それでも口元には笑みを浮かべている。
何かまずいことをしたのだろうか。傍らのヴィルヘルム様を伺うと、ヴィルヘルム様はいつもどおりの表情だったので安心した。
「エルザ、この方は精霊王だ」
はい?
初めての精霊召喚で呼び出したのが精霊王? 待って、意味が分からない。




