23.溺れているのはどちら?
心地よい倦怠感に、まどろみそうになる。
ヴィルヘルム様が優しく頭を撫でてくれるものだから、今にも意識を手放してしまいそうだ。欠伸が漏れる。
「数日後に皇帝陛下に謁見する」
もう眠ってしまおうと思って瞼を閉じたのに、聞こえた声に意識は一気に覚醒をした。
皇帝陛下? 謁見?
「……わたしが、ですか?」
「お前を餌にする。……不本意だが」
皇帝陛下への謁見と、わたしが餌……。苦々しげに呻くヴィルヘルム様の眉間には皺が寄っている。それでも美人なのだから、羨ましい。
わたしは基本的にこのお屋敷から出ない。それを出して、しかもわたしの存在が餌になるというのだから……おびき寄せる相手はきっと。
「術士様が、この帝都に来ているのですね」
「こういう時は察しが悪くてもいいんだが。餌だなんてと罵ってもいいんだぞ」
「罵るだなんてご冗談を」
「危険だぞ。気を悪くしないのか」
「わたしで餌になるのなら、喜んで。でもわたしが皇帝陛下に謁見することを術士様は知ることが出来るでしょうか」
ヴィルヘルム様は枕を重ねて背中にやるとそこに凭れ掛る。わたしを抱き上げて体の上に乗せるものだから、わたしはヴィルヘルム様の胸に頬を寄せた。
「情けない話だが、陸軍の中に術士に魅入られた将校が居る。陸軍にもお前が謁見する話は流すから、術士も必ず知るだろう」
「陸軍将校様……」
前に軍艦に乗せて貰った時、ヴィルヘルム様が陸軍の元帥閣下に絡まれた事を思い出す。陸軍も厳しそうだったけれど、そんな陸軍に居ても魅了の術にかかってしまうのだろうか。
「陸軍は元帥閣下が魔法を毛嫌いしていてな。護符なども滅多に持たないんだ」
「護符さえあれば魅了に掛からないのですか?」
「相手の魅了術が強ければ、かかることもある。だが空軍や海軍では定期的に変な術を受けていないか検査をしている。陸軍は検査など不要と言っていてな」
だから陸軍が狙われたのだろうか。
「そんなことより、皇帝陛下との謁見だ。当日は皇宮の至る所に罠を仕掛ける。絶対にお前に危害を加えさせないようにするし、術士も逃がさない。必ずお前の真名を取り戻す」
ヴィルヘルム様の力強い言葉に、それは現実のものになるのだろうと思う。
わたしが出来ることは何だろう。立派に餌の務めを果たす事だろうけど……実際には何をしたらいいのだろうか。
「わたしに何か出来ることはありますか?」
「俺の側から離れるな。陛下との謁見時も俺は一緒にいる」
「ご一緒してくださるなら、わたしも安心です」
「謁見後は城を案内する予定だ。花が満開の庭園も見て貰えと陛下もおっしゃっているしな」
「そこが舞台となるのですね」
「その予定だ」
術士様が来る。
それを思うと正直怖くないわけではない。すっかり消えた傷跡に、術士様の顔を思い浮かべただけで幻痛が走るほどだ。それが表情に出ていたのか、ヴィルヘルム様が背中をそっと撫でてくれた。単純なことに、それだけで恐怖や痛みは消え去ってしまう。
「真名を取り戻したら、次はリーヴェスにいるお前の義母と義妹だな」
「領地の件ですね」
「お前はどうしたい? もう虐げさせるようなことは絶対にさせないが」
義母はわたしの後見人となって領地経営をしていたけれど、決して良い領主ではなかったと思う。嘆願書が毎日のように届けられたけれど、それはいつも暖炉に放り投げられて薪代わりに燃やされていた。誰もそれを咎める人はいなかった。
「領地も爵位も王家にお返ししたいと思っています。お返しして、より良い領主の方に治めて頂くのが、領民にとってもよいことかと。本来ならばわたしがやるべきなのでしょうが、教育も受けていないわたしでは満足いく結果にはならないでしょうし」
領民に愛されていた父と母。
両親と共に過ごした日々は今も鮮やかに、わたしの胸を照らしてくれている。厳しくも優しい執事や、明るく元気なメイド達。使用人の数は多くなかったけれど、皆助け合い、居心地の良い屋敷を作ってくれていた。
だがそれはもう遠い日の事で、もう二度と手に入らないものだった。
「そうか。それではそのように取り計らう」
「……すみません、何から何までお任せしてしまって」
「謝ることではない。正直、お前がそう言ってくれてよかったとも思う」
見上げた先のヴィルヘルム様は嬉しそうに笑っている。わたしの頬を撫でる指先はどこまでも優しい。
「お前を閉じ込めないで済んだ」
「……はい?」
不穏な言葉が聞こえた気がする。
「俺から離れてリーヴェスに戻るというなら、屋敷の奥に閉じ込めるところだった。俺だけを見て、俺だけを受け止められるように」
「……ヴィルヘルム様?」
孔雀緑の瞳に狂気の色が揺らめく気がする。低い声が色気を増している。わたしを抱く腕は檻のよう。怖い筈なのにひどく美しい。
退廃的な雰囲気を纏わせるこの人は、本当に同じ人間なんだろうかと思うくらいに魔性を帯びた美しさ。
「お前がいないなら、もう何もかもどうだっていいんだ」
「……わたしはヴィルヘルム様のお傍にいますよ。お慕いしていると言ったでしょう」
その狂気さえ愛おしいのだから、わたしも大概だと思う。その想いに溺れてしまえば、彼はずっとわたしだけを見てくれる。その孔雀の瞳にわたしだけを映して、囚われているのがどちらか分からないくらいに、わたしを愛してくれるのだろう。
ヴィルヘルム様は雰囲気を和らげるときつくわたしを抱き締めてくれた。
「……領地や爵位を返還する事、無責任だと咎められるかと思いました」
「そんな事はない。適正な者が治める方が領民にとっても幸せだろう。お前は俺を軽蔑しないのか?」
「軽蔑ですか?」
「お前への執着が重いのは自覚している」
どこか気まずそうに視線を逃がすも、わたしを抱く腕の力は緩まない。その表情にわたしは思わず笑っていた。そう、笑えたのだ。可笑しくてくすくすと肩を揺らしてしまう。
「エルザ?」
「ヴィルヘルム様にならいいのです。執着されたって監禁されたって。わたしは全てを捧げると決めたのですから」
ヴィルヘルム様の瞳に熱が灯る。色濃くなる緑に捕らわれたように目が離せない。傍らから抜け出したヴィルヘルム様が覆い被さってきて、ランプの明かりが翳った。
これは、また朝まで眠れないかもしれない。
そんな期待をしながら、わたしはヴィルヘルム様を受け入れた。




