17.ある夜の元帥
ルクレツィア・レーバブリューム。
これがエルザの名前だ。心の中でその名前を呼んでみても、目の前にいる彼女と結びつかない。それほどまでに、俺の中で彼女はエルザという少女だった。
レーバブリューム伯爵家のことはすぐに調べが付いた。義母と義妹、そして病弱故に屋敷で療養しているというルクレツィア。前伯爵夫妻と一人娘のルクレツィアは領民から慕われているが、義母と義妹はそうではない。義母が後見人となってから、税金は上げるのに嘆願書には目もくれない。暴動が起きていないのが不思議な程だ。
俺は掛布に包まって眠るエルザの頭をそっと撫でる。疲れきっている彼女はこれくらいの刺激で起きることはない。頬にかかった髪を指先で払うと擽ったそうに身じろぎした。しかし起きる気配はない。口元にあるほくろを撫でる。
少しやり過ぎたかと苦笑いが漏れた。
最後までしていないのは、今も変わらず。俺の想いだけで最後まで奪ってしまうのは傲慢だと分かっている。いや、それを言うならこの行為もそうだ。エルザの瑠璃色の瞳にこの行為は、俺は……一体どのように映っているのだろうか。
俺の腕の中で震える彼女も、響く甘やかな声も、無表情が崩れる瞬間も酷く愛おしい。出来るなら一生、この腕の中に閉じ込めてしまいたい程に。他の誰にも見せる事無く、俺の愛だけで溺れる程に、その全てを俺のものにしたい。
昏く堕ちていきそうになる思考に溜息をつく。
掛布越しに腰を撫でる。
彼女はすっかりと健康を取り戻したが、心はまだ傷ついている。目に見えないそれを癒せる術を俺は持たない。
出来ることはただ甘やかして、全てを与えることだけだ。俺は彼女から何も奪わないと、守り続けると、それをその体に刻むことだけ。
エルザは背も伸び、体つきも丸みを帯びて十六歳の少女らしくなってきた。手入れをして磨かれた美貌は誰もが目を瞠るだろう程。
金糸の髪はふわふわとして飴細工のように艶めいている。深い瑠璃色の瞳は、無表情を補うかの如く感情を映す事に、きっと彼女は気付いていない。傷が癒えた肌は磁器のように白く、少し低めの声は耳に心地いい。
エルザを見つめているだけで、熱が帯びる。自分自身に呆れてしまうがそれも仕方がないだろう。これ程までに焦がれてしまう存在なんて、初めてなのだから。
静める為に寝台から降りる。窓から差し込む月明かりが美しい。
浴室へ向かい、洗面台で顔を洗うと意識がはっきりする。眠る姿にまで欲情するとは、もう末期かもしれない。
タオルで顔を拭くと、洗面台に設えられた鏡越しの自分と視線が重なる。灰色の髪が顔にかかって鬱陶しくて、かきあげる。……そうだ、エルザは髪が短いのも似合いそうだと言っていた。
悪戯を思いついた子どものようだ。自分でそう思いながらも、沸き立つ気持ちを抑える事は出来なかった。腰まである髪を無造作に束ねると、逆手に風を起こし、うなじあたりで一気に断ち切る。掴み損ねた髪がぱらぱらと床に落ちた。
掴んでいた髪は俺の魔力を帯びている。そのうち何かに使えるだろう。そう思って空間収納の魔術を組むとその中に放り込んだ。鏡に映る髪は肩辺りで切り揃えられている。もう少し短くてもいいんだが……。
そう思うと今すぐにどうにかしたくなる。待て、が出来ないのはエルザに関わることだからか。
俺はガウンだけを身につけると部屋を出た。
数刻後、俺は満足して部屋に戻った。
執事を叩き起こすつもりだったが、彼は夜も更けているにも関わらず身支度を整えていた。さすがにジャケットではなくシャツ姿だったが、髪はきっちり纏められて一筋の綻びもない。
髪を切ってほしいという願いには流石に驚いたようだが、それも一瞬のこと。見事な手捌きで髪を短く整えてくれた。
横は耳にかかる程度に、前髪は少し長めだが目にかかるほどではない。襟足もすっきりとして首がなんだか心許ないが、きっとエルザは驚くだろう。
上機嫌でガウンを脱ぎ、彼女の隣へ潜り込む。擦り寄るように体を預けてくるエルザが愛しい。腕を枕にしてやると、無意識ながらも胸元に頬を寄せてくるものだから、俺は思わず天を仰いだ。
早く朝にならないだろうか。眠る彼女を起こしてまで欲をぶつけたくはない。熱をあてることくらいは許して貰おう。
彼女の腰に手を回してしっかり抱き寄せると、目を閉じ眠りについた。
目が覚めた時の彼女は見物だった。
あの無表情が僅かに崩れる程に、驚愕していた。「まさか本当に切るだなんて」とうろたえていたが、似合わないかと問うと顔を赤らめて「似合う」と言ってくれた。それだけで満足だった。
そんな彼女が可愛らしいものだから、朝から触れてしまったのは致し方ない。髪を切ると雰囲気が変わったのか、彼女の反応が良くて、ついつい楽しみすぎてしまったのも仕方がないことだろう。
ああ、やっぱり俺のエルザは可愛すぎる。