10.穏やかな時間②
積んでいた本の半分を読み終え、両腕を高く伸ばして凝っていた背を解したところで扉の向こうの気配に気付いた。気が付けば陽が暮れる時間帯となっていた。
静かだった部屋に響いたのは、メイドさんがする時よりも力強いノック。返事を待たずして入室してくるのは、元帥閣下とオーティスさんと、昨日会ったもうひとりの小柄な男の人。
ここは元々元帥閣下のお部屋なのだから、ノックもいらないんじゃないかと、ふと思った。
「お帰りなさいませ」
立ち上がって膝を折り礼をする。近付く気配に顔を上げると、元帥閣下は優しく笑って、またわたしを抱き上げた。
「ただいま。綺麗になったな」
「こんなにして頂いて、ありがとうございます。それで、あの……下ろして欲しいのですが」
聞くつもりはないようで、元帥閣下はソファーに座るとわたしをまた膝に乗せた。こうなるとどうやっても下ろしては貰えないだろう。遠い目をしてしまうのも仕方が無い。
「エルザちゃん、よく似合うわ。あたしにもまた着飾らせて頂戴ね」
「肉が足りねぇ。色気もねぇ」
優しいオーティスさんと対照的な辛辣な言葉。でもその言葉に悪意の色は無い。
そういえばこの人の名前を知らないけれど、わたしから伺ってもいいものなのだろうか。わたしの戸惑いに気付いたように、小柄な男の人が親指で自分を指差す。
「左翼隊長のジギワルド・シュタインだ。敬称なんていらねぇからジギワルドって呼べばいい」
「ありがとうございます。エルザと申します」
礼をしたくとも膝の上に座らせられて、腰にはしっかりと元帥閣下の手が回っている。苦笑して手をひらひらさせるジギワルドさんの様子に、居た堪れなさが募るばかりだ。
「エルザ、明日の昼にここを発つ」
「どちらに行かれるのですか?」
「帝都シュヴァールだ。ここでの処理も終わったからな、帰還する」
「いやいや、あんた軽く言ってるけどねぇ……あれだけの仕事量をこなせば嫌でも終わるわよ」
「本当ならひと月は掛ける処理だぞ? お前の処理速度がやべぇのは知ってるけど、あそこまでとは思わなかったぜ」
呆れたようなオーティスさんとジギワルドさん。呆れの中に疲れたような様子も見えるから、元帥閣下は非常に無理をしたのだろう。
「お疲れ様でございました」
「帝都に帰ればお前の真名を取り戻す方法も分かる」
……わたしの為? 誤解してしまいそうになるくらい、優しい声。戸惑いを隠すように視線を床に落としてしまった。
「そういえばお前、逃げなかったんだな」
ジギワルドさんの声に伏せていた顔を上げる。どういう事かと首を傾げると彼は意地悪そうに口端を歪めた。
「逃げる、ですか……?」
「この部屋の周りに見張りがいなかっただろ。出ようとすればこの城から出られたのにな」
ぞんざいな言い方に、わたしを抱く元帥閣下の腕に力が篭ったのが分かる。纏う空気も冷え込んでいるようで、思わず身震いをする。オーティスさんが苦笑いをしているのが視界の端に見えた。
「そうですね、きっと逃げようと思えば逃げられたのでしょう。ですがわたしには逃げるつもりはありません」
「へぇ、見張りが居ないのには気付いていたのか?」
「気配を探るのは、どちらかといえば得意ですので」
ジギワルドさんは不可解そうに眉を寄せる。元帥閣下にはそろそろ腕の力を緩めて欲しいと思った。
「わたしが視界に入るだけで、暴力をふるう方もいらっしゃったのです。いつも気配を探るようにして、その方とは出来るだけ会わないようにしておりました」
「……とことん屑だな、お前の屋敷にいた奴ってのは」
それに関しては何も言えない。元帥閣下はそろそろ部屋の温度を下げるのをやめて欲しい。冷え切った空気に耐えられず、半袖から覗く腕を逆手で摩ると、元帥閣下はようやく気付いたようだ。
わたしの腰を抱く腕からも力が緩み、部屋の温度も心なしか上がったようだ。
「……悪かったな。本が好きなら、今度何か持ってきてやるよ」
「いえ、ジギワルドさんが謝られるような事ではありません。ですが本は嬉しいです」
気まずそうに頬を掻くジギワルドさんに「素直じゃないんだからぁ」とオーティスさんが声をかける。揶揄う言葉に仲の良さが伺えるようだ。
二人は元帥閣下と仕事の話を少ししてから、部屋を出て行った。
入れ替わりに入ってきたのは、メイドさんが数人。昨日のようにテーブル上に湯気立つ料理をこれでもかとばかりに並べていく。その時にもわたしは変わらず元帥閣下の膝の上に居て、生温い視線を向けて彼女達は笑うばかりだ。わたしは両手で顔を覆い隠すのが精一杯だった。
昨夜のようにわたしは少し、元帥閣下は凄い量の食事を終えると、元帥閣下の手によって浴室に運ばれる。
あれ? まさかお風呂も一緒? 今日もお風呂に入れるのは嬉しいんだけど、まさか一緒?
動揺で何の会話をしたのかは覚えていない。浴室で誰が自分を洗ったのかも羞恥で記憶が飛んでいるようだ。
最後に覚えているのは、寝台でまたわたしに覆い被さる、元帥閣下の優しい笑顔だけだった。