徳のある人とは?
まだまだ、私は無教養人であるが、何も頭で考えるよりはエッセイにした方が他の人の考えも聞けるかもしれないと思ったので、私は文字にして、考えることにした。
さて、徳とは何だろうか?
例えば、徳とつくものを思い浮かべるなら、道徳と、真っ先に思い付くものが多いかもしれない。
そう、小学校の時に行った道徳の時間だ。
思えば、僕はあの時間は好きだった。
僕は昔から人見知りの性格だったので、人と話すのは苦手だったが、道徳の時間になると、手を挙げて、発言することに積極的だった。
そして、自分の考えを述べ、時には、沈黙さに恥ずかしくなり、皆から称賛されたりしたときは、心躍り、そんな時間が、私の強制的な学びの中での自由がそこにあったからかもしれない。
しかし、今ではその道徳さえも、学問という縛りもしくは制度という縛りに当てはめようとしている。
これは憂うことである。
何せ、道徳というものは一人の人生の経験によって得られる、善いものであるからだ。
それを一概に先生という権力者の視点で正しい、正しくないと決めてしまえば、従うものは一面のみで決めてしまう可能性が高い。
もしかしたら、政府というものが、反抗的な、従属した鼠を育成しようとしてるのではないかという考えさへ伺えてならぬのは、私だけだろうか?
教育にさえも、戦前の日本の教育が復活してきたのだろうかと思うと、なぜ、令和の和にはこの、昭和の戦前の政治に回帰しようとしてる危険性さえも見えてならない。
この善いものというのは、正義とは違うことを胸においてもらいたい。
善いものとは、純粋的な思い、邪悪な思いは本来、人間は嫌うものである。
例えるなら、赤ちゃんというのは無垢な、純粋なものだ。
赤ちゃんは己の欲するもの、生きるために泣き、意思を示すために泣く。
邪悪な思いとは、不快に感じたときに泣く。
善い思いをすれば、泣き止み、次第に笑ったりする。
それが成長するにつれて、様々なものを見て、大人になり、
一人一人の価値観は違ってくる。
また、地域によっても違ってくる。
国によっても違ってくる。
例えば、世界ではタコを食べることは異常だという国があるが、
日本だけの視点で考えるとするなら、何がおかしいと怒るか首をかしげるかもしれないが、どっかの国では私の嫌いな虫(言葉にするのも嫌なものだから書かないが)を食べるのが当たり前な国もある。
その国では、常識であるが、私ならば理解することなどできない。
と考えたら、善いものとは、一概には言えない。
徳の大元も、善いものからきてるのであって、徳は、ある国ではタブーとなっている場合もあるので、徳の定義はできづらい。
しかし、私の考える徳とは、周りの世界というものを考えず、ただ純粋に人々が追い求めるのには、幸せというものを求める聖書が徳にはあり、具体的に見本となるのは、その聖書という存在に当てはまる人のようになろうと個々人が思ったものが徳であると考える。
徳のある人は、聖書のような物を頭に持っており、大事にしている人だと思うのだ。