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 扉を開けた先は、開けた空間だった。

 扉の巨大さにふさわしい、かなり広大な部屋だ。とても地下空間とは思えないほどで、横にも広ければ縦にも広い。天井を見上げると首が痛くなってくる。

 しかし、そんなだだっ広い部屋の内装は殺風景極まりない。天井を支えるように建っている何本かの柱以外には、何もない。床や壁の意匠も、ダンジョン内の他の部屋と変わりない。入る前はどんな禍々しいものが待ち構えているのだろうと思っていたが、ある意味拍子抜けとも言えた。

 ただひとつ……部屋の中央で待ち受けている、それを除けばだが。

「ミノタウルス……か」

 牛の頭を持つ、半人半獣のモンスター。それがミノタウルスだ。

 二本の足でしっかりと立つその巨体に乗っかっている頭は、まさに猛牛のそれだ。貫かれたら相当なダメージを覚悟しなくてはならないだろう、雄雄しいツノが二本、頭にそそり立っている。

 筋骨粒々な全身を、短く茶色い体毛が覆っている。その上、胸と腰に簡素な鎧まで装備している。申し訳程度に装備された鎧から覗く両手両足は、ともに丸太のように太い。体の細い小山内がもし捕まったりしようものなら、そのまま背骨をへし折られてしまいそうだ。

 そして手には一本、無骨な鉄製の斧が握られていた。

「あれが……ここのボス?」

「だろうな」

 小山内が震えた声を出す。まあ確かに、小山内が今までに出会ったどのモンスターよりも強そうなのは確かだ。思わずビビッてしまうのも無理はないだろう。

 だが、俺は逆に少し落ち着いていた。

 何故かといえば、俺はボス部屋の扉があまりにも巨大だったため、ボスもそれ相応に巨大なのではないかと予想していたのだ。

 だがしかし、ミノタウルスは巨体ではあるが、せいぜい俺の身長の1.5倍といったところ。ダンジョンに入る前に倒したゴーレムは身長の二倍近くあったため、単純にスケールダウンしている。

 加えて、敵がミノタウルスであるという点も安心できる要素だった。

 ミノタウルスが敵として出てくるゲームはいくつかやったことがあるが、やつに物理攻撃が利かないというゲームはなかった。ゴーレムのように、特別な弱点をつかなければ倒せない……というモンスターでもない。レベルを上げ、物理攻撃を繰り返していればいつかは勝てる……そういうモンスターが、ミノタウルスだ。

 つまり、今の俺でも勝てる可能性は高いってことだ。

「ひゃっ!?」

 背後から轟音が鳴り響いて、小山内が悲鳴を上げる。後ろを振り返ると、開いていたはずの巨大な扉が閉まっていた。……なるほど、ボス戦からは逃げられないってことか。

「……よし、やってやるか。じゃ、手はず通りにな」

「う、うん……!」

 小山内にそう指示をして、俺は剣を抜く。

 ……手はず通り、などと言ってはみたが、要するに戦闘の邪魔にならないよう離れてろというだけだ。

 この戦いは俺が……俺一人が楽しむための戦いだ。なんだったら、ノーダメージで倒してやる……!

 俺は恐れることなく、ずんずんと部屋の中央へと進んでいく。すると、こちらを見つめるばかりで動く気配のなかったミノタウルスの頭が動き、眼光が赤く光った。

「オオオオオオオオオオッ!」

 咆哮。

 静謐の保たれていた部屋に、恐ろしい声が響き渡る。

「……ふん。声だけ大きくったって、怖くもなんともないぞ……!」

 俺は一直線に走り出す。

 ゴーレムと戦ったときのような、体の震えは一切無い。不思議と、やれる気がした。

 俺が向かってくるのに気づいたミノタウルスは、再び咆哮をあげる。汚らしく涎を飛び散らせ、興奮しているのか鼻からは蒸気のように白い息が噴き出していた。

 ミノタウルスが右手を大きく振り上げた。手には鈍く光る巨大な斧……当たったりしたひとたまりも無い。だが……、

「当たらなければどうということはない……ってな!」

 俺は地面を蹴り、体を右側へと動かす。ゴーレムの振り下ろしパンチを避けたときと同じ要領だ、違いは敵の攻撃の速さと避ける方向だけ、今の俺なら絶対に避けられる……!

 果たして、ミノタウルスの攻撃は空を切った。

 攻撃を空ぶったその一瞬、そこを見逃さずに……!

「おらぁッ!」

 両手に渾身の力を込めて、俺は刃を叩き込む。

 隙だらけのわき腹へモロに入った斬撃はしっかりとダメージになったようで、ミノタウルスは苦しそうな叫び声をあげて後ろに後ずさった。

 ……いける。俺は確信した。

 今の要領でこのまま攻撃を加えていけば、絶対に倒せる。剣による攻撃が有効であるうえに、相手の攻撃だってちゃんと見れば避けられる。

 加えて、体の調子がとてもいい。落とし穴に落ちたり、延々とダンジョンで戦い続けたりしたというのに、体が思い通りに動く。まるで、疲れをどこかに忘れてきてしまったかのようだ。

 ……もしかしたら、自身の気力とかもパラメータに影響したりするのかもしれない。はは、今度あの女神にでも聞いてみるかな……!

「さあ、まだまだだ!」

 俺の叫び声を挑発だと思ったのか、ミノタウルスは怒り狂ったかのような鳴き声を出す。興奮した牛のようなその甲高い鳴き声を聞いて、俺はにやりと笑った。もはや、ただの牛にしか見えないぞ……!

 ミノタウルスは再度、斧を振った。ただし、今度は真上ではなく真横へと、腕を大きく後ろへ回す。

「横薙ぎ……!」

 若干の緊張が走る。縦に斧を振り下ろされれば避けるのはたやすいが、横となるとそうもいかない。

 アクションゲームでは、縦はサイドステップ、横はバックステップで避けるというゲームが多いが、もしバックステップの距離を見誤ったりしたら腸をかっさばかれてしまう。ゲームと違って、無敵時間なんてものはないんだからな。

 だが、他に対策を知らないわけじゃない。バックステップの他にもうひとつ、横薙ぎ攻撃を簡単に交わす方法は……!

 事前にわかっていた分、俺の体はスムーズに動いた。ミノタウルスがその丸太のような太さの腕を振り、俺を真っ二つにしようとしたその瞬間、

「だあっ!」

 俺はミノタウルスの頭に向かって、飛んだ。

 現実世界であれば、ありえない選択肢だったろうと思う。普通の人間のジャンプ力なんて、そうたいしたものじゃない。せいぜい足元の攻撃を避けるくらいが関の山だ。自分の身長の1.5倍はある巨体が繰り出す横薙ぎをジャンプで交わそうとしても、両足を切断されるだけだ。

 だがこの世界に来て、レベルを上げていくにつれ……俺は自身の身体能力の向上を感じていた。

 最初に交わしたミノタウルスの攻撃だって、現実の俺では避けきれずに片腕がもげていただろう。先ほどはまるで、それこそアクションゲームのような動きで、俺はミノタウルスの攻撃を交わしたのだ。

 スタミナに関しても同様だ。最初の頃は森の中を歩き回るだけで疲れ果てていた。だが今や、まる一日ダンジョンを歩き回っても問題ないほどにスタミナがついている。レベルを上げれば上げるほど……自分を鍛えれば鍛えるほど、無限に強くなることができる。女神がこの世界に来る前に、俺に話していたことは事実だったわけだ。

 そうして強くなった俺がいま、本気でジャンプをすればどうなるか。

 ミノタウルスの攻撃は、見事に空振った。なぎ払おうとしていた敵の姿はすでにそこにはなく、思い切り腕を振った反動でその巨体をよろけさせる。

 その様子を、俺は上から見ていた。ミノタウルスを軽々と飛び越せるほどに、俺は高々とジャンプできたのだ。

 そして、よろめき隙だらけになったミノタウルスの脳天にめがけ、

「はああっ!」

 俺は両手で力強く剣を握り、カブト割りを叩き込む。

「オオオオオオオオオオオオッ!」

 今までで一番悲痛な鳴き声を、ミノタウルスはあげる。おそらく、渾身の一撃のはず。剣が叩き込まれた頭を、斧を持っていない左手で抑えながら、ミノタウルスはよろよろと後ずさっていった。

「よし……!」

 いける、いけるぞ!

 俺の動きが完全に、相手を上回っている。当たればダメージは大きいんだろうが、ミノタウルスの動きをよく見ておけば、かわせない攻撃はない。頭が牛だから、単純な攻撃しかしてこないのだろうか? もしそうだったとしたら、ただパワーが高いだけの雑魚キャラも同然だ。

 ダメージもちゃんと蓄積されているようだ。頭に強力なカブト割りを食らったからか、心なしかミノタウルスの息が乱れているような気もする。対して、こちらのダメージはゼロ。体に不調も感じない。

 やはり、俺の考えは間違ってなかった。

 俺一人でもこいつは倒せる。極端な話、小山内だって必要なかったんだ。このまま相手の攻撃を避け続けて、しっかりと隙をついて攻撃を繰り返していけば、いずれは……、

「さ、冴梨くんっ……!」

 頭の中に描かれていた勝利のビジョンが、小山内の声で雲散霧消した。

 俺は思わず眉根を寄せ、舌打ちをしそうになった。……せっかくいいところだったのに、一体どうしたんだ?

 部屋の中にはこのミノタウルス一体だけ、他にはなにも危険はなかったはず。しかもそのミノタウルスは、いま俺の動きに完全に翻弄されている。危険が迫ったときだけ呼べと言っておいたのに……。

 仕方なく、俺はミノタウルスから少し距離をとった。敵の目の前で後ろを振り返るほどバカじゃない。何かあったらすぐに対処できるくらいの距離を取ってから、俺は後ろをちらりと振り返り、

「あ……?」

 間抜けな声が、口から溢れ出た。

 最初は、自分が見た光景がなんなのか、理解できなかった。やがて、なぜこんなところに鏡が置いてあるのだろう、なんて馬鹿なことを考えた。

 振り返ったそこには、ミノタウルスがいた。

 鼻息荒く呼吸を繰り返しながら、杖を抱きしめたまま動かない小山内を見下ろしていた。

「な……え……?」

 脳みそがぐるぐると回転するが、一向に理解が進まない。

 なぜ後ろにミノタウルスがいる? 部屋にいたミノタウルスは、今まさに俺が戦っている最中だ。

 どこかに隠れていた? ……そんなわけはない、あの巨体が隠れられるような障害物は、この部屋には無い。何本か柱が建っているとはいえ、せいぜい人間一人が隠れられる程度だ。……だったらなぜ?

 いくら考えても、答えはわからなかった。ただただ、目の前に広がる光景に呆然とするばかりで、あまりにも唐突なミノタウルスの出現に、まるで世界が止まってしまったかのような感覚に俺は陥っていた。

 ……だが、止まってしまっていたのは、俺だけだ。

「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!」

 背後で、雄たけびが上がる。

「……ッ!? しまっ……」

 背中を向けてぼけっと突っ立っている俺を、手負いのミノタウルスが見逃すはずもない。体力が減っているはずだったミノタウルスは、ダメージを感じさせない動きで俺へと迫り、右手に握った斧を振り下ろし、

「…………ッ!」

 俺の左腕を、切断した。

「ぎッ……! あ、あ、あああッ……!」

 左腕に走る激痛で、猛烈な吐き気を催す。

 さらなる追撃を避けるため、俺はなんとか脚を動かした。……いや、そんな冷静には考えていない。単純に、俺はその場から逃げたかったのだ。

「く、ふ、うううッ……!」

 左腕の感覚がない。

 ……見たくはない。見たくはないが……自然と視線が自分の左腕へと動く。

「…………ッ?」

 視線の先には、左腕がしっかりとついていた。ただ、力なくだらんと垂れ下がっている。

 ……そういえば、モンスターにダメージを与えたときに、モンスターから派手に血が吹き出たりはしなかった。いまさっきカブト割りを食らわしたミノタウルスだって、頭がふたつに割れたりはしていない。……モンスターだからそうだと思っていたが、もしかして人間もそうなのか?

 考えてみれば、落とし穴に落ちたときもそうだ。死ぬほど痛かったが、周囲が血だまりになっていたりはしなかった。骨が折れているのではと思ったのも、ただ俺がそう感じただけで、回復呪文を受けたらすぐに動くようになった。

 女神がこの異世界を紹介していた、最初の説明を思い出す。『あなたの住んでいる世界とは、違う理が存在する世界』。魔法やモンスターの存在や、ステータスの数値化だけを指していると思っていた言葉だが、まさか出血や人体の欠損が存在しない世界とは……。ショッキングな絵になっていないのは、ありがたい話だ……。

 だが、痛みはしっかりと俺に襲い掛かっている。どうしてこういうところは気が利いてないんだ……。俺はよろよろとミノタウルスから距離を取る。

「冴梨くん……!? 体力が……!」

 俺の嗚咽が聞こえたのか、小山内がこちらを見て驚愕に目を見開いている。その後ろには、やはりミノタウルスが立っている。……どのように現れたのかはわからない。だが間違いなく、この部屋にはミノタウルスが二体いた。

「ま、待ってて! 今すぐか、回復を……」

「……! 待っ……」

 小山内が引きつった顔で回復魔法を唱えようとするのを止めようとしたが……遅かった。

 小山内の回復魔法を敵対行動と認識したのか、新たに現れたミノタウルスの目が赤く光る。その手には、手負いのミノタウルスが持っているのと同じような武器。こちらは、人間の頭よりも大きな石をそのまま棒にくくりつけたような、石斧を持っていた。

 斧で、俺の左腕が切断はされることはなかった。

 ……だがあの石斧で、頭を叩き割られた場合はどうだ……?

「…………ッ」

 左腕から、脳に激痛の信号がバンバン送りこまれてくる。

 だが、足は痛くない。俺は前へ……小山内の下へと駆け出した。

「えっ……?」

 突然自分のほうに走ってきた俺に驚いて、小山内は魔法の使用を止める。だが、それで石斧のミノタウルスが、小山内への敵対を止めるわけではない。

 手に持った石斧を、ミノタウルスが高々と掲げた。小山内は、それに気づいていない。このままでは、間に合わない……!

「おお……らァッ!」

 俺は右手に持った両手剣を、槍投げの要領でミノタウルスに向かって投擲した。……どうせ今、片腕は使い物にならないんだ、だったらくれてやる……!

 槍投げの経験があるわけでもないし、コントロールに自信があるわけでもなかったが、投げられた両手剣は奇跡的にミノタウルスへと一直線へ向かっていく。

「グオオッ」

 ミノタウルスの胸元に、両手剣はぐっさりと刺さった。だが、大したダメージは与えられていないようだ。

 問題ない、今は時間が稼げただけで充分……!

「ひあっ……!?」

 俺は困惑して硬直したままの小山内を右腕で小脇に抱える。小山内が小学生みたいに小さくなければ、こんなことはできなかっただろう。そして、素早く壁際へと退避する。

 まずい。

 まずい、まずい、まずい……!

 なんでだ、どうしてこうなった? いきなりボスが二体? なんだそりゃ、ハードモードだなんて聞いてないぞ……!

 壁際まで寄ったはいいが、この状況を打開する方法など何一つ思いつかない。戦えるのは俺一人だけ、そのうえ左腕は使い物にならず、武器も失った。

 ミノタウルスが胸に刺さった剣を抜き、後ろへと放る。最初の街で買ってからなんだかんだ使い続けてきた両手剣はガチャリと音を立てながら地面を滑っていき、入り口の扉に当たって止まった。

(そうだ、入り口まで逃げれば……)

 そんな考えが頭をよぎるが、すぐに意味の無い思考だと思い至る。ボス部屋の扉はすでに閉まっている。……ボス戦からは、逃げることができないのだ。

 全滅という言葉が頭に浮かぶ。

 自分たちが圧倒的優位に回ったとわかっているのか、ミノタウルスたちはゆっくりとこちらへ近づいてきた。脇から下ろした小山内が、後ろで小さく震えているのがわかる。……かばうように小山内の前に立ってはいるものの、今の俺にできることなど、何も無い。身を挺して守ったとしても、小山内には逃げ道すら残されていないのだ。

 俺は動く右手を痛くなるほど握り締め、歯を食いしばった。

 ……なにやってんだ、俺は。

 一人で全部できると……ボスなんて一人で充分だといきっておいてこのザマだ。一人でなんとかできるのなら、二体目のミノタウルスが出てきたとしても冷静に対処できただろう。それなのに、急な敵の出現にボーっとして、致命的な一撃を食らってしまった。間抜けにもほどがある。

 そのうえ、俺一人で死ぬならまだいい。俺が一人でやったことなら、俺がケツを拭くだけの話だ。

 だが、小山内を誘った上でこの状況に陥るなんて、最低も最低だ。

 俺は一人でいるのが好きだが、自分さえよければそれでいい、とは思わない。迷惑をこうむることも、迷惑をかけることもないから、俺は一人が好きなんだ。

 自分から誘っておいて、自分のミスを他人にまで押し付けるなんて、ただのクズじゃねーか……!

 左腕の痛みと、自分への嫌悪感で再び吐きそうになる。……助かる手段はおそらく、ない。だが、早々に諦めるのはありえない。手前だけの命がかかってるわけじゃないんだ、あがけるうちはあがかなければ……!

 とにかく、体力の回復と武器を取り戻すことが最優先だ。そのためには、なんとかこの二体のミノタウルスたちから距離を取らなければ……。

 すぐに脇に抱えて回避行動が取れるよう、小山内の腰に腕を回す。小山内が悲鳴のような声を上げるが、我慢してもらう他ない。今は命を大事に、だ。

「!」

 ミノタウルスが動いた。石斧を持ったほうのミノタウルスが、雄たけびを上げながら右手に持った石斧を真上に振り上げた。

「縦……!」

 縦方向の攻撃なら、簡単に避けられる。俺は小山内をぐっと持ち上げ、両足に力を込めて床を蹴った。そのまま、入り口近くまで走ろうとしたのだが、

「オオオオオオオオオオオオオオオオッ!」

「なっ……!」

 手負いのほうのミノタウルスが、ものすごい勢いでこちらへ突っ込んできた。

 半分は獣なだけあり、ゴーレムのように緩慢な動きではない。怒涛のような突撃で距離を一気に詰めてきたミノタウルスは、右手の鉄斧を真横に構える。横向きの一閃……! まずい、間に合わない……!

「飛び込んで!」

 小脇に抱えた小山内から、今まで聞いた中で一番大きな声で指示が飛んできた。飛び込む? 前に? それでどうなるんだ? いや、考えている暇はない……! 俺はつんのめるようにして、自分が走っている方向へダイブする。

 ガギィン、と。金属同士が派手にぶつかったような音がした。

 小山内を下敷きにしないようかばいながら、受身もクソもない、みっともない格好で床へと倒れこむ。しこたま頭をぶつけたが、斧に真っ二つにされるよりはずっといい。

 体を起き上がらせると、床にぶつけた箇所以外はどこも怪我をしていない。小山内も無事のようで、こちらはしっかりと自分の手で頭をガードしていた。器用なやつだ。

 いったい全体、どうして助かったのかと視線をあげる。

 そこにあったのは、柱だった。天井を支えるように、部屋中にいくつか建っていた、そのうちの一本。その柱が、俺の体とミノタウルスが切りつけてきた斧の間に挟まり、刃を弾いてくれたようだ。……そうか、走りこんだ先に柱が建っていたのか。運がよかった……。

 ……いや、運ではない。前へ飛び込むよう指示したのは、俺に抱えられていた小山内だ。俺は、襲い掛かるミノタウルスにばかり目が行って、柱の存在にすら気づいていなかった。小山内の指示がなければ、俺の体は完璧に斧で真っ二つにされていただろう……。

「よかった……」

 もぞもぞと起きだした小山内が、震えた声でそう言った。

 だが、安心するのはまだ早い。状況は何も変化してはいないのだから。

「冴梨くん、ほら!」

 小山内は立ち上がり、俺の手を引っ張ると、自分の足で走り出した。

 背後から、二体のミノタウルスが襲い来る。俺と小山内は時に力を振り絞って避けながら、時に柱を盾にしながら逃げ続ける。

 柱の間を縫うように走り続け、なんとか無傷で逃げ続けていたが、

「くそっ……」

「…………!」

 閉鎖された空間で、いつまでも逃げ続けられるわけもなく……俺と小山内は再び、壁際へと追い詰められていた。

 入り口のすぐ近く、俺の両手剣も少し走れば取りにいけそうな距離。だが、取りに行く隙がない。そして武器を回収したところで、左手は相変わらず動かないままだ。小山内が回復魔法を唱える時間稼ぎすらできそうにない。

 ミノタウルスたちが、絶対に逃がさないとでも主張するかのように俺と小山内を包囲している。心なしかニヤついているように見えるのは、俺の心が折れかけているからだろうか。牛の表情の変化なんて、俺に分かるわけもない。

 小山内が、俺の着ている服を握り締めている。そこから、小山内の震えが伝わってくる。……もしかしたら、俺自身も震えているのかもしれない。その震えを止める方法が一切思いつかないのがあまりにも悔しくて、奥歯が砕けそうなほど強く歯を食いしばる。

 もうどうしようもないのか?

 ここで俺の異世界生活は終わってしまうのか?

「冴梨くん……!」

 小山内の叫びに答えることもできないまま、俺はミノタウルスの構えた斧に視線を奪われ、

「グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!」

 ……そのせいで、目の前で何が起こったかを把握することができなかった。

「な……?」

 今まさに鉄斧を振りかざそうとしていたミノタウルスの頭に、何かがしがみついている。

 その何かはミノタウルスの角に片手でしがみつきながら、もう片方の手に握り締めた細剣を、何度も何度も頭に突き刺していた。

「オオオオオオオオオオオオオオオオッ!」

 突然頭を串刺しにされたミノタウルスは、しがみついている何者かを振り落とそうとするかのように暴れた。

「うおっ!」

「きゃあっ」

 ミノタウルスは両腕をぶんぶんと振り回し、右手の鉄斧で無作為に周囲を攻撃する。無作為攻撃は味方のはずの石斧のミノタウルスにも当たり、仲間から不意に攻撃を食らった石斧のミノタウルスは、唸り声を上げながら暴れるミノタウルスから距離を取る。

「二人とも! はやくこっちへ!」

 床に伏せてミノタウルスの暴走攻撃から身を守っていると、そんな声が聞こえてきた。男の声だ。

「霧洲くん……!」

 声のした方に視線を向けるとそこには、入り口の扉を開けたまま、閉まらないように押さえている霧洲の姿があった。霧洲のことだから、ボス戦では逃げられなくなるというロープレの常識も知っているのだろう。だからこそのストッパーか……。

「急いで! すぐにここから逃げるんだ!」

 ミノタウルスの攻撃に当たらないよう頭を低くしながら、俺と小山内は入り口の扉へと走る。

 霧洲の姿を見て予測はついていたが、俺は思わず、ミノタウルスの頭にしがみついている人物を見た。

 そこにいたのは、やはり十和田だった。今まで見たことのないような必死な形相で、暴れるミノタウルスの頭に向かって攻撃を繰り返している。相当激しく揺さぶられているはずなのに、角をがっしりと掴んで離さない。

 巨大な敵に勇敢に立ち向かうその姿は、まさに勇者そのものだった。

「リョーマくん、大丈夫?」

「……ああ」

 なんだかずいぶん久しぶりに見る気がする霧洲は、やはり笑顔を浮かべていた。とはいえ、若干引きつった様子だったが。

 霧洲の押さえている扉から、よろよろと外へ出る。そこには小山内がいた。今日買ったばかりの神官服は、みすぼらしく汚れてしまっている。手には自らの装備である杖と、俺の両手剣が握られていた。どうやら、逃げ出す際に入り口近くに落ちていたのを拾ってきてくれたようだ。

「……はい」

「…………ありがとう」

 渡してきた両手剣を受け取ると、小山内は小さく笑った。こんな散々な目に遭ったというのに。

「ツキちゃん! もう大丈夫! 急いで!」

 霧洲がボス部屋の中に向かって、大声を張り上げる。部屋の中からミノタウルスの雄たけびが聞こえてくる。そしてしばらくすると、十和田が部屋の中からこちらへ転がりこんできた。それを確認して、霧洲はすぐにボス部屋へ続く巨大な扉を閉めた。

 ――こうして、俺はボスから逃れることができた。

 ステータス的には体力が減っただけで、アイテムの浪費もしていない。ゴーレム戦での十和田のように、武器を失うこともなかった。

 ただ……ステータスには現れていない何かを、失ったような気がした。



 左頬に、するどい痛みが走る。

 左手を鉄斧でぶった切られて減っていた俺の体力が、さらにゼロへと近づいた。

「冴梨……。あなた、自分がしたこと分かってるの?」

 ダンジョンから命からがら逃げ出すと、あたりはすっかり夜になっていた。頼りない月明かりを補うように小山内が魔法で周囲を照らすと同時に、十和田は俺の頬を叩いてそう言った。

「本当に死んでしまうところだったわ。扉を開けて、あなたたちがあのモンスターに囲まれているのを見た瞬間に、心臓が破裂するかと思った……」

 十和田たちのいた部屋と、ボス部屋への巨大な扉がある部屋は壁で区切られていたはずだ。俺たちのいたほうからスイッチを押さなければ道は開かないと思ったのだが、どうやってこちらへ来たのだろう……。だが、そんなことを聞く気にはならなかった。

「どうして、あんなことしたの?」

 十和田がまっすぐ、こちらの目を見つめながら言う。

「あなたたちが落とし穴に落ちてしばらくしたあと、空中に突然地図が現れたわ。コロちゃんの魔法だったんでしょう? おかげでダンジョン攻略はスムーズに進んで、すぐにでもあなたたちと合流できると思った。……でも合流できそうになったところで、あなたたちはわたしたちから距離を取ったわ」

 なるほど、小山内のマッピングはパーティ全体に効果が及んでいたのか。それならば、ボス部屋前でスイッチを押そうとしてやめたところも、なんとなく分かったわけだ……。

「もう一度聞くわ……。どうしてあんなことしたの?」

 十和田の目を見る。怒っている……といえば、怒っているのだろう。だが、それだけではないような……何か別の感情も混じっているような気がした。

 それが何なのかは俺には分からなかったし……そもそも俺の勘違いなのかもしれないけれど。

「……俺だけでも、ボス相手に充分戦えると思ったからだ」

 十和田の問いに、俺は答える。ありがたいことに、声が震えたりはしなかった。

「……わたしたちと合流すれば、もっとずっと安全に、ボスと戦えたじゃない。それが分からないあなたじゃないでしょう?」

「当然分かっていた。それでも、一人で充分だと思った」

「一人じゃないでしょう。……コロちゃんもいたじゃない」

 返す言葉がない、まさに正論だ。……あの時俺は、一人ではなかった。

「あなただけじゃなく、コロちゃんの命もかかってたのよ。……それでも、戦おうと思ったの?」

 小山内が何か言おうとして、霧洲に止められていた。……正直、ありがたい。ここで小山内がどんなことを言っても、あまり関係がない。これは俺の問題なのだから。

 ……俺はあのとき、本当に一人で戦えると思っていたのか?

 一緒にいた小山内のことを、どう考えていたのか?

 記憶と思考が頭の中をぐるぐると駆け巡り……やがて、俺は十和田の瞳をまっすぐに見返す。自分がどんな表情を浮かべているかもわからぬままに、一言だけつぶやいた。

「……ああ」

 十和田はすぐには何も言わなかった。眉根をほんの少しだけ寄せ、怒っているのかどうなのかよく分からない顔のまましばらくの間黙り込んだかと思うと、

「そう」

 とだけ言った。

「早く街へ戻りましょう。……もうこんなに暗くなっていたのね」

「そうだね。……その前に、小山内さん。リョーマくんを回復してあげてよ。今のままじゃ弱いモンスターの攻撃を食らっても倒れちゃいそうだ」

 霧洲に頼まれて、小山内があわててこちらへ駆け寄ってくる。今朝、ダンジョンへ来たときのぎこちなさは最早なく、手馴れた様子で回復魔法を使う。

 感覚がなくなっていた左手を動かしてみる。……ついさっきまでまるで動かなかったのが嘘のように、思い通りに俺の左手は動いてくれた。

「……ありがとう」

「……ううん」

 小山内は首を横に振ると、街へ向かった小山内の後ろをついていった。

「行こうか、リョーマくん」

 霧洲は変わらぬ微笑を湛えたまま、そう言って歩き出した。いつもは腹立たしく感じる霧洲の笑顔が、今に限ってはなぜか腹立たしさを感じなかった。

 こんな所にいつまでも突っ立っているわけにはいかないので、俺も歩き出す。小山内の回復魔法のおかげで、身体中のどこにも、もう痛みは感じない。

 ただ一点……十和田にぶたれた左頬だけが、いつまでもじんじんと痛んでいた。



「…………」

 目が覚めると、そこは見慣れた天井。十年以上使い続けている自室で、俺は目を覚ました。異世界から現実世界へと帰ってきたわけだ。

 目覚まし時計を見ると、やはり時刻は朝の七時だった。半日以上ダンジョンに篭り、命を失う寸前まで戦った日であっても、こちらでの目覚めは変わらない。目はぱっちりと開き、頭はすっきりとしている。

 ただ気分だけが、霞がかかったかのようにもやもやとして、最悪だった。

 ベッドから抜け出し部屋を出て、角度が急で狭い階段を降りて洗面所へと向かう。冷たい水をばしゃりと顔に浴びせるが、気分が晴れることはない。

 鏡に映った、自分の顔を見る。……ひどい顔だ。もともと冴えない顔なのに、今日は輪をかけてひどい顔をしている。見ていてむかむかしてくるので、鏡から目を逸らして歯を磨く。

 磨き終え、リビングへと向かう。

 誰もいない。いつもどおりの自宅の様子だ。ダイニングテーブルには、片付け忘れたのかスプーンがひとつ。ほかには何もない。

 その静けさ漂う光景に、なぜかやたらと心がざわついた。

「…………ッ」

 誰もいないのをいいことに、俺は整理しきれない感情を全て拳に乗せて、テーブルを叩く。

 一人残されたスプーンが、やかましく音を立てた。



 ここ最近、学校で過ごす時間は俺にとって、異世界での冒険のための予習時間だった。

 授業を適度に聞き流し、頭の中で計画を立てる。わからないことがあれば休み時間の間にスマートフォンや本で調べ、また授業中に計画を考える。こうしていれば、つまらない学校生活はあっという間に過ぎ去った。

 だが今日は、やたら一日が長く感じる。

 異世界のことを考えようとしても、まるで頭が働かない。……脳みそが、考えることを拒否しているかのようだ。

 こうなると、学校はもはや何の意味もない場所だ。教室でけらけら笑っている連中は、何がそんなにおかしいのだろう。俺には、わからない。

 休み時間の間、ぼーっと窓の外を見て時間をつぶしていたが、雲の形を眺めているのもさすがに飽きてきた。俺はちらりと、教室の中を眺める。

 十和田も、霧洲も、小山内も……三人とも教室内にいた。小山内なんかは同じ教室にいた記憶がまったくなかったので、実はクラスメイトだなんて嘘なんじゃないかと疑っていたのだが、本当にクラスメイトだったらしい。単に俺が目を向けていなかっただけだ。

 十和田と小山内は、クラスのほかの女子も交えて何事かを話している。霧洲は、クラスメイトの中では顔の造りが上位のグループ(それでも十和田よりは下だが)と話しながら、相変わらず微笑んでいた。

 学校で十和田たちと、異世界でのことを話したことは無い。

 まぁ、懸命な判断だと思う。生徒会長さまたちが、突然クラスの爪弾き者とわけのわからないファンタジー話を繰り広げたりしたら、信用が地に落ちてしまうだろう。

 だから、俺と十和田たちは学校ではただのクラスメイトで、なんの関わりもない赤の他人で……。

「……ハァー」

 思わず、盛大にため息が漏れる。

 どうでもいいことを考えこんでしまった。俺とあいつらが学校ではどうであるかなんて、心底どうでもいい話だ。どうしてこんなことが、ちらりとでも脳裏をよぎってしまったのか……。何もかも学校がつまらなくて暇なのと、異世界のことを拒否する脳みそのせいだ。

 だめだだめだ、こんなんじゃ。もっと集中しろ……!

 だがそれでも、俺の頭は働いてくれなかった。



 ……異世界に行くのがこんなに嫌になるだなんて、いったい誰が予想しただろう。

 それでも、夜はやってくる。夜がやってくれば、眠気がやってくる。……もしかしたら、徹夜をすれば異世界に行かずに済んだのかもしれない。だが、それを許さないとでも言うかのように、夜の帳が下りた瞬間に急激な眠気が俺を襲った。気がつけば、そこはもう異世界の宿屋だ。

「……今日は、冒険はお休みね」

 十和田が、起き抜けにそんなことを言った。誰も反対はしなかった。

「街で買い物をしようと思うの。今回消費したアイテムとか、ほかにも何か足りないものを買ったり……」

 俺はベッドに座ったまま、十和田の言葉に耳を傾ける。……なんだか、全員一緒に行こうとでも言いそうな流れだ。勘弁してくれ……と内心うな垂れていると、

「そうだね。じゃあ今日は各自、自由行動ってことにしようか」

 霧洲の何気なく言った一言により、自由行動の流れになった。これで十和田について行くのも行かないのも、個人の自由ということになる。正直、助かった。

 霧洲のほうを見やると、相変わらずの微笑を浮かべながらこちらを見ていた。……なんだか見透かされているような気がして、心がもやもやする。さっきの発言ももしや……? いや、まさかな。

 今日の方針が決まると、三人は部屋から出て行った。これから三人で、街の中を歩いて回るのだろう。小山内がちらちらとこちらを見ていたが、無視した。どれだけ見られようと、ついて行くなんてできるわけがない。

 かといって、何かやりたいことがあるわけではない。外に出て戦闘を行う気分でもないし(そもそもほかの三人と離れているから経験値が入らないので、やる意味が無い)、街へ出て気分転換……なんて性質でもない。街中でばったり出くわすのも嫌だしな……。

 結果、俺は部屋の中で時間を潰す以外、することがなくなった。しかし、初めて来たときは内装にすら感激したこの部屋だが、今ではもう大分見慣れてしまっている。部屋に備え付けられている本も、全て読み終えた。この部屋の中に、時間を潰すために使えるものは、もう何も残っていない。

 何も無いのならば、残る方法はただひとつ。頭を動かすことだけだ。

 ベッドに座ったまま両膝に肘を乗せて両手を組み、組んだ手の上に顎を乗せて、俺は考える。

 十和田がさっきこぼした台詞が、頭の中に響いていた。……足りないもの。あのダンジョンを、ボスを倒すために、俺に足りないものは一体なんだった?

 自分の命がかかっているという危機感か。

 小山内の命も守らなければならないという責任感か。

 ……あいつらと一緒に戦おうという発想をしないほどに低い、パーティメンバーへの信頼感か。

 今思えば、何もかもが足りていなかったのだと思う。特に、あいつら三人と歩幅をあわせて進みたいとは、これっぽっちも考えていなかった。……まぁ、今もあまり考えていないが。

 そもそも、このパーティは四人ではない。三人と一人と言ったほうが正しいだろう。学校の生徒会メンバーである三人に、なぜか俺が紛れ込んでいる。傍から見れば、そうとしか映らないはずだ。なのでどちらかといえば、足りないものが何かと考えるよりも、余計なものが何なのかと考えたほうがいいのかもしれない。

 そしてそれは考えるべくもない、俺だ。

 あいつら三人で仲良しこよし、異世界で冒険をしていれば、案外早くこの世界は平和になるのかもしれない。十和田がリーダーで二人を引っ張り、ゲームにわりと詳しい霧洲が知恵袋となり、小山内は回復役としてサポートに徹する。なかなか理想的じゃないか。

 俺はベッドに寝転がる。……まったく、どうして俺一人が紛れ込んでしまっているのか。なぜパーティを解散できないなんていう、面倒くさいシステムになっているのか……。あの気の利かない女神がこんなシステムにしなければ、俺は心安らかに異世界生活を楽しむことができたのに……。

「……はぁ」

 思わず、ため息が漏れる。

 こんな愚痴を考えたところで、本当にただの時間つぶしにしかならない。

 考えるべきことは、ほかにあるはずだ。パーティが解散できないことを嘆く時期は、とうの昔に過ぎている。霧洲が、小山内が加入した時点ですでに諦めていたじゃないか。

 今俺が考えるべきことは……俺はこのパーティで何をすべきか、何ができるかだ。

 目を瞑る。窓から入ってくる日差しがまぶしくて、腕をまぶたの上に乗せる。視界が真っ暗になると、ほんの少しだけ、頭が冴えてくるような気がした。

 考えろ、俺に足りないもの……このパーティに足りないものは、一体なんだ。

 そして俺にできること、俺にしかできないことは……。



「ただいまー……うわっ?」

 部屋の扉を開けて、十和田が入ってきた。霧洲と小山内も一緒だ。やはり三人で街を歩き回っていたのだろう。

 しかし、入ってきて早々人の顔を見て「うわっ」とは、ずいぶんな反応だ。

「えっと……冴梨?」

「なんだ」

「……何かあったの? なんか妙に疲れているように見えるんだけど……」

「……別に、なんでもない」

 疲れているように見えるのは、おそらく朝から何も食べていないからだろう。……一日何も食べなかったくらいじゃ、何も問題はないはずだ。

「それより……聞いてくれ」

 俺がそう言うと、十和田は目を丸くした。考えてみれば、俺からこうして話を切り出すのはこれが初めてかもしれない。

「明日……というか、次回か。またダンジョンに行こうと思う。……今度は完全にクリアする」

 ……それなりに覚悟をして発言をしたはずなのに、手にじっとりと汗が滲む。

 本来、俺はこんなことを言っていい立場じゃない。たとえ望んだものじゃなかったとしても、一応パーティメンバーとして戦ってきた十和田と霧洲をわざと無視してボスへと挑み、一緒に戦っていた小山内を自動的に回復を施してくれるNPCであるかのように考えていたのだ。

 俺は一人が好きだ。今だって、一人で冒険ができればどれだけ良いかと思っている。

 だが、何度も言うが、自分だけがよければそれでいいと考えているわけじゃないんだ。

 俺は一人で楽しむのを優先するあまり、ミスを犯した。それはパーティメンバー三人をないがしろにする、最低の行動だった。そのミスを挽回もせずに、放ったらかしにしておくのはなんというか……気持ちが悪い。

 だからこそ、俺は挽回のチャンスを求める。虫のいい話だとはわかってる。だがこうでもしなきゃ……俺は自分が許せない。

 とはいえチャンスを貰えるかどうかは、三人次第だ。総スカンを食らっても文句は言えない……。

「……そう。わかったわ、行きましょうか。ダンジョン攻略」

 だから、十和田がそう言ってくれたとき、俺は心底安堵した。……顔には、出さなかったけど。

「言うからには、勝算はちゃんとあるんでしょうね?」

「ああ。そもそも、ミノタウルス一匹だけなら、俺一人でも充分戦えていたくらいだ。……四人で戦えば、絶対に勝てる」

 ……霧洲がいつも以上にニコニコと笑っている気がする。ふん、俺がみんなで戦えば、なんて言ったのがそんなにおかしいか? ……まぁ、おかしいか。

 パーティ全員でボスであるミノタウルス二匹と戦えば、絶対に勝てる。これは間違いない。

 だがそれでは、俺のミスを挽回したことにはならない。俺が目指すのは、さらにひとつ上だ。

「だが、さっきも言ったとおり……次は完全な、完璧なクリアを目指す。ミノタウルスたちに何もさせず、誰一人としてダメージを食らわない……回復役の小山内が何もすることがないほどに、完全な勝利を目指す」

 十和田がほんの少しだけ、形のいい眉を寄せた。

「完全な勝利って……」

「何もそこまで目指さなくても……って言うんだろ。確かに勝つだけなら、ノーダメージである必要はない。……だけど、あえてそこを目指すことで、知ってもらいたいんだ」

「何を?」

 思わず口ごもる。……ええい、言ってしまえ。

「……俺が、その……。反省したってことを」

 ……ああ、顔から火が出るようだってのは、こういう感覚だったのか。体中の血液が顔まで逆流しているみたいだ。鏡を見ずとも、自分の顔が真っ赤になっているのがわかる。霧洲は相変わらず気に食わない笑みを浮かべているし、小山内もやたらうれしそうに笑っているしで、余計に恥ずかしい。

 そして十和田はといえば、きょとんとした顔のまま固まっていた。何を言ったらいいのかわからない、とでも言いたげな顔だが、こちらも何かを言ってもらわないと困る。

「……何か言ってくれよ」

「……え? ああ、そうね……」

 はっと我に返った十和田は、冷静さを取り戻したのかいつもどおりの表情になり、俺のほうをまっすぐに見ながらこう言った。

「その前に……そっちも言わなきゃいけないことがあるんじゃない?」

「え? ……あ」

 言われてようやく気がついた。こんな当たり前のことも言っていなかっただなんて……どうかしてるな。

深く、深く、俺は頭を下げる。

「……あの時は、悪かった」

 悪いことをしたら、素直に謝る。

 そんなことも忘れるくらい、俺は人と関わってこなかったんだな……。

「ん。よろしい」

 頭を上げると、十和田はやわらかく微笑んでいた。霧洲も小山内も、同じように笑っている。

「まあ、僕はもともとあんまり気にしてなかったけどね。だから、リョーマくんもあんまり気にしないでよ」

「わ、わたしはそもそも、謝られるような立場じゃないし……。冴梨くんについていくって決めたのは、わたしだから」

 部屋の中の空気が、一気に暖かくなったような……そんな気がした。

「もう二度と、あんなことするんじゃないわよ? わたしたちは、四人でひとつのパーティなんだから」

「ああ……そうだな」

「まったく、今日だって結局一人だけついてこないんだから。今度からは……」

「いや、それは今後も遠慮させてもらうが」

「……はぁ?」

 勝手に独断専行したことは謝るが、別に四六時中一緒にいると誓ったわけではないぞ。

 俺としては当然のことを言ったつもりだったが……十和田は口元をひくひくと引きつらせている。

「あ、あなたね……」

「あはは、まぁ一日二日で今までの性格が変わるわけがないよ」

 青筋を立てている十和田をなだめるように、霧洲がぽんと肩をたたきながら言った。

「それより……リョーマくんが考えた、完全勝利する方法ってのを聞かせてよ。よほどの自信があるみたいだけど……一体今日だけでどんなアイディアを思いついたのかな」

「ああ、それは……」

 俺は今日やったこと、そしてボス戦での作戦を伝える。

「……というわけだ」

「冴梨、あなたいつの間に……」

 十和田は驚き半分、呆れ半分といった表情だ。

 対して霧洲は、ほんの少しだけ悔しそうな……もしくは残念そうな顔をしている。

「なるほどね……確かに、ちょっと盲点だったかな。でも、もっと画期的な方法かと思ってたよ」

「そんなアイディア、ポンポン浮かぶわけ無いだろ。じゃあ、これで問題ないか?」

 俺がそう問いかけると、三人とも首を縦に振った。

「よし。それじゃ、次に異世界に来たときが……」

「あのダンジョンを、クリアするときね!」

 異世界に来て、初めてのダンジョン探索。

 自分が許せないほどの最低のミスを犯しながらも挽回のチャンスをくれたこいつらのためにも……というわけでもないが、絶対にクリアしてみせる。

 俺たち……四人の勇者の、冒険を始めるために。



「さて、行くか」

 一度の現実世界への帰還を経ての翌日、俺たち四人は再びダンジョンのボス部屋前へと訪れていた。

 小山内のマッピング魔法は日付をまたいでも記憶を保持しているらしく、再度使用したところ完全にコンプリートされた地図が宙に浮かび出た。おかげで、ボス部屋前まで迷うことなくストレートに来ることができた。

「作戦は覚えてるよな?」

「当然でしょ?」

 十和田が腕を組んでグッグッと体をほぐしながら答える。

「ここに来るまでの雑魚モンスターとの戦いで、軽く練習もできたしね」

「練習どおりにいけば、確かにノーダメージでの勝利もありえるかもね。その場合、小山内さんはかなり暇になっちゃうけど」

 霧洲は小刀をもてあそんでいる。そういえば、こいつの装備は町で購入して以来ずっとこれだった。魔法使いなのだから小山内のように杖を装備していたほうがいい気もするが……まぁ変えたくなったら自分で変えるか。

「わ、わたしは……別に」

 小山内は恐縮するように縮こまり、目を伏せた。ボスとの戦いでボロボロになったはずの神官服も、今ではすっかり元通りになっている。……もう二度と、この真っ白な服が汚れるような事態にはすまい。

「……よし、じゃあ準備いいな? 行くぞ……!」

 全員が首を縦に振ったのを確認すると、俺は禍々しい彫刻の刻まれた、巨大なボス部屋の扉を再度押し開けた。

 部屋の中は、前回と変わっていない。広大な空間と、天井を支える数本の柱。二日前にミノタウルス二匹が大暴れしたとはとても思えないほど、静まり返っている。

 そして部屋の奥には、打倒すべき敵が待ち構えていた。

「一匹……か」

 ボスとの再戦方法は二パターン存在するだろうと、事前に三人と話をしていた。

 ひとつは、前回と同じように途中から二匹目のミノタウルスが出現する場合。もうひとつは、前回の続きから、つまり最初から二匹を相手に戦うというものだ。

 後者のパターンの場合、はじめから二体同時に戦わなければならないという苦境に立たされるものの、敵の体力なども引き継がれている可能性がある。だが、部屋で待ち受けているのはどう見ても一匹のみ。おそらく前回の戦闘状況はリセットされ、体力も回復してしまっているのだろう。

「このパターンの場合は……」

「わたしと冴梨が『連携』でしょ? ほら、行くわよ!」

 十和田が腰の細剣を抜き放ち、前へと進み出る。俺も両手剣を手に取ると、その背中に続いた。

 ――十和田が唐突に言い放った『連携』とは、単にチームワークで戦おうという意味ではない。

 三人が町へと出かけている間、俺が何をやっていたかといえば……それは至極単純なことだ。

 ゲームを買ったらまず最初に誰もがやることで……単に『説明書を読んだ』というだけだった。

 もちろん、説明書なんてものが実際に存在しているわけではなく、女神から渡された電話機能を持つイヤリングを用いて、あの女神から根掘り葉掘り、この異世界におけるルールをこれでもかというくらい聞き、頭の中に叩き込んだのだ。

「あのー。全部教えてしまうと、わたしの出番がますます無くなってしまうような気がするんですが……」

 などとぼやく女神を、おだてたりごまかしたり宥めすかしながら情報を聞き出し、一通りのことを完全に覚えたはずだ。これでしばらくの間は女神にヘルプを求めることはないだろう、というくらいに。

 そうしてこの世界のルール……いわばゲームシステムを調べつくしたところ、案の定俺たちはまったくシステムを生かさずに戦いを進めていたことがわかった。

 十和田が言い放った『連携』も、異世界での戦闘におけるシステムのひとつ。この『連携』を使用することにより、パーティ内の誰か一人と繋がり、思考の共有ができるようになる。たとえば……、

(振り下ろし。わたしは右に避けるから! 隙を狙って!)

 前を行く十和田から、思考が頭の中に飛んでくる。声に出さずに会話ができるというよりも、お互いの思考が一瞬で頭の中にインプットされるような感覚。……ニュータイプといえば、わかりやすいのだろうか? イメージとしてはあんな感じだ。

 頭に刻み込まれた思考どおり、十和田がミノタウルスの振り下ろし攻撃を右に避けた。鉄斧を床へと振り下ろしたミノタウルスは隙だらけ、そこに、

「『一刀両断』……!」

 俺はスキルを使い、一撃を叩き込む。体力消費のスキルなので体力が減ってしまったが……これはノーダメージ勝利の観点からいえばノーカウントだろ?

「グオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!」

 たった一撃で、ミノタウルスの体力は大きく減った。甲高い雄たけびを上げ、狂ったように鉄斧を振り回す。こんな適当な攻撃でダメージを食らったりしないよう、俺も十和田も距離を取る。

 さて、俺の考えではそろそろだと思うんだが……。

「リョーマくん! 来たよ! 天井に穴が開いて、上から落ちてきた!」

 背後から、霧洲の大声が聞こえてきた。『連携』していないメンバーとは、声で連絡を取る以外に方法はないのだ。声に反応して、俺は後ろを振り返る。

 やはりそこには、石斧を持ったほうのミノタウルスがいた。鉄斧のほうに一定ダメージを与えると、二匹目が出現するようになっているのだろう。前回は焦ってしまったが、今になって考えるとロープレではお約束のボスパターンだ。

「よし、予定通り! 霧洲!」

「オッケー、『連携』だね」

 俺は十和田との『連携』を切り、今度は霧洲とつなぐ。これで俺と霧洲の間で戦闘に関する思考は共有される。

 それと同時に、俺との『連携』が途切れた十和田は鉄斧のミノタウルスから離れ、背後に出現した石斧のほうへと駆けていった。

 二匹目が出現したら、そちらを十和田と小山内がひきつけ、体力の減ったほうを俺と霧洲が集中攻撃を行い速攻で倒す。これが今回の作戦だ。

 ボスが二匹以上いる場合、どれか一体を集中的に攻撃して数を減らすのは常套手段だ。……二匹同時に体力をゼロにしないと倒せない、みたいな条件がなければだが。今回はそういうパターンではないと信じて、戦力を二つに分ける作戦を取った。攻撃型の戦士である俺と魔法使いの霧洲が片方を一気につぶし、すぐに女子二人に合流する算段だ。

 攻撃手段を持たない小山内のもとへと急ぐ十和田に、一言声をかける。

「そっちは頼むぞ」

「! 任せなさい、そっちもちゃっちゃと倒しなさいよ!」

 やけに嬉しそうな顔をしながら、十和田は駆けていった。

 ……言われなくとも、そのつもりだ。『連携』のおかげで、霧洲が近くまで寄ってきたのがわかる。それを確認した俺は、手負いとなった鉄斧のミノタウルスへと斬りかかった。

「おらぁッ!」

 十和田がいなくなっても、一対一なら問題ないのは前回の経験でわかりきっている。攻撃パターンも変わっていないので余裕を持ってミノタウルスの攻撃を避け、テンポよく攻撃を重ねていく。

 幾度かの斬撃を叩き込んだところで、

(リョーマくん! そろそろ撃つよ!)

 霧洲の思考が頭の中に流れこんできたので攻撃を一時中断、さっとバックステップを行い、再びミノタウルスから距離を取った。突然距離を取られて困惑するミノタウルスに、

『炎嵐<フレアトルネード>』

 霧洲の攻撃魔法が炸裂する。突如として足元から湧き上がった爆炎の嵐に、ミノタウルスはなすすべもなく焼き尽くされ、体力を減少させていく。

「これで……とどめッ」

 魔法の炎が止むのを見計らい、残りわずかの体力となったミノタウルスに一気に近づいた俺は、力強く握り締めた両手剣を深々と突き刺した。

「ゴオオオオオオオオオオ……」

 ミノタウルスは断末魔の叫びを上げると、力なく地面へと崩れ落ちる。そして雑魚モンスターと同じように、ドロップアイテムを残して跡形もなく消え去った。

「やった! まさに完璧だね」

「まだ終わりじゃないだろ。もう一匹を倒さないと……」

 本音を言えば俺も諸手を挙げて喜びたかったが、一度油断して敗走した手前そういうわけにもいかない。気を引き締める意味でもそう言い放ち、新しく出現したミノタウルスを引き付けている十和田たちのほうへ体を向けるが、

「……どうも、向こうも問題なさそうだよ?」

 まさにそのとおりだった。

 一対一なら問題なく戦えるのは、俺だけでなく十和田も同様だったらしい。

「はああっ!」

 ミノタウルスの持つ鉄斧が十和田に襲い掛かる。それを十和田は、左手に装備している盾でタイミングよく弾いた。

「グオッ」

 渾身の攻撃を弾かれたミノタウルスは、大きく後ろへとよろける。そこへ、

「『五月雨』!」

 十和田は連続で突きを繰り出すスキルを発動。細剣による目にも止まらない高速突きが、ミノタウルスを襲う。

「いやぁ……ツキちゃんの盾で弾くやつ、あれ強いねぇ。ほとんど反則じゃない?」

 十和田の使った、盾で敵の攻撃を弾く行動はパリィという盾装備時限定の技だ。これも女神から聞き出した。

 アクションゲームではわりとポピュラーな技で、敵の攻撃を無傷で受け流した上に大きな隙を作ることができる。確かに、敵の攻撃を毎回パリィで弾くことができれば、負けはないとまで言えるが……。

「……そんなに簡単なものじゃ、ないはずなんだけどな」

 大きなリターンを得ることができる分、パリィを成功させるのは難しい。タイミングよくパリィを行わなければ、敵の攻撃を完璧に弾くことはできない……と女神が言っていたはずなのだが、十和田は数度の練習だけで、パリィの極意を身につけたらしい。さすがは完璧生徒会長といったところか。

 このまま放っておいてもいずれは倒しそうだが、黙って見ていてはあとから十和田に何か言われそうだ。とりあえず参戦しておくことにする。

「あら? もう終わったのね」

 横に並ぶと、十和田が話しかけてきた。息も上がってないじゃないか、まったくなんてヤツだ……。

「ああ、あっさりとな。こっちも手助けはいらなさそうじゃないか」

「そう言わずに、一緒に戦いなさいよ。……わたしたち、四人でひとつのパーティなんでしょ?」

「……ふん」

 剣を構えると、十和田から『連携』が飛んできた。俺は霧洲との『連携』を切り、十和田と思考を繋ぐ。

「さ、行くわよ!」

「……はいよ」

 掛け声と同時に、俺と十和田は前へと踏み出す。

 ――そして、驚くほどあっさりと、俺たちパーティ初めてのダンジョン攻略は終わった。



「……はい、試験終了まで残り10分」

 英語教諭の某が腕時計を見ながら、机に向かう生徒たちに残り時間を告げる。紙の上にペンを走らせる音が、心なしかうるさくなったような気がした。

 今現在、俺が通う学校では中間テストが行われている。五月の長期休暇を心待ちにしている生徒たちへ学校が贈る、気の利いたプレゼント。学生である以上、受け取り拒否は認められない、たちの悪いイベントだ。

 そんな中間テストも千秋楽、残り10分で全てがおわる。最後の科目は数学だ。

 俺は今一度、机の上に乗った問題用紙を眺める。

 わかる問題をあらかた片付け、わかりそうな問題に手をつけているのだが……先ほどからさっぱり解答が思いつかない。何かの公式を使って解く問題なのはわかるのだが……残念ながら、使うはずの公式が頭の中からすっぽり抜け落ちている。

 ……覚えていないものを思い出せるはずがない。俺は潔く諦めてペンを投げ出し、残り10分を思考に耽ることでつぶすことにした。

 ――あのダンジョンの攻略報酬は、予想していたより大したものではなかった。

「……なにこれ?」

 二匹のミノタウルスを倒すと、ボス部屋の壁からさらに奥へと続く扉が現れた。そしてその先に待っていたものは、いかにも立派な宝箱。一応罠の可能性を考慮しつつも嬉々として近づき、箱を開けた瞬間に十和田が放った一言がそれだった。

 ぱかりと開いた宝箱の中を覗くと、なんだかよくわからないレリーフが入っていた。高尚なもののようにも、ガラクタのようにも見える。文字の類は特に刻まれたりしておらず、本当に何の用途で使うものかわからない。

「特殊な装備アイテム……ってわけでもなさそうだね。毒の防止とかをするような」

「まあ、どう見ても装備できるようなものには見えないな。何かのイベントアイテムじゃないか」

 現状では使い道はないが、のちのちの冒険で必要になるもの。いつかは必要になるのかもしれないが、それがいつかは分からない。冒険を始めたばかりの俺たちにとっては正直、手放しで喜べるものではない。強力な武器や、便利な装備アイテムのほうがよほど嬉しいかったのだが。

 十和田はレリーフを眺めながらきょとんとしている。……まあ、初めての大掛かりな冒険の報酬がこれじゃあ、がっかりもするか。

「まあ、こういうときもある。残念だったな」

 俺がそう声をかけると、十和田はくるりと振り向いて、笑った。

「ぜんぜん残念なんかじゃないわよ」

「……? なんでだ、今の時点じゃこんなもの、なんの意味も……」

「そんなことないわ!」

 十和田は立ち上がり、霧洲を見て、小山内を見た。そして吸い込まれそうに綺麗な瞳を煌かせながら、恥ずかしげもなく言う。

「わたしたち四人で、初めてダンジョンをクリアしたときに手に入れたアイテムなのよ? なんの意味もない、なんてことあるはずないじゃない。きっと大切な思い出の品になるはずだわ……」

 ……思い出の品、ね。

 とてもじゃないが、俺では思いつかない発想だ。この世界にはいくつも存在しているであろうダンジョン、そのうちのひとつのクリア報酬であるという感覚しか、俺にはない。

 もしかしてだが、こいつはダンジョンを攻略するたびに思い出の品を増やすつもりじゃなかろうな?

 ――だが、そんなふうにどんなものでも大切なものに思えるのは、ほんの少しだけ……。

「はい、試験終了。全員筆記用具を机の上に置くように!」

 英語教諭が突然上げた大声で、俺ははっと我に返った。試験の残り時間10分は、あっという間に過ぎ去っていたようだ。

 教室内に弛緩した空気が流れる。思い通りにできた者できなかった者、時間が足りなかった者や余ってしょうがなかった者……生徒各々テストの出来は違うだろうが、人心地ついたのはどの生徒も一緒だろう。

 一番後ろの席から順に、答案用紙が前へと送られる。俺も、前の席の名も知らぬクラスメイトに答案を渡し、座りっぱなしで凝り固まった身体をほぐすために腕を上にあげて伸びをする。

「……よし、揃ってるな。これで試験終了だ、お疲れ様」

 英語教諭が全員分の答案用紙があるか確認し、一声かけて教室から出て行くと、教室内はいよいよ喧騒に包まれた。息苦しいテスト期間はもう終わり、あとに待つは長期休暇……否が応にもテンションがあがるというものだろう。その前に、テスト結果の返却が待っているが。

 ……俺は当然、しゃべる相手もいないのでさっさと帰宅の準備をする。テストが終われば、もう学校にいる必要はない。たまには早く家に帰って、最近サボりがちだった積みゲーの消化でも進めようじゃないか。

 カバンを持って教室から出て行くとき、無意識のうちに三人の生徒へと視線が動いた。もちろん、十和田、霧洲、小山内の三人だ。それぞれ思い思いに、クラスメイトたちと話をしている。テストの出来がどうだったかを話しているのだろうか。それとも、長期休暇の予定でも決めているのか?

 ……まあ、俺には関係のないことだ。

 ダンジョン攻略にひと段落がついてすぐ、三人は積極的に冒険に出ることをやめていた。

 理由は単純で、『テスト前だから』だった。自分以外の三人が冒険に出ないので、俺も仕方なく街をうろついたりして時間を潰していたのだが、それも昨日で終わりだろう。今日の夜に眠りに落ちれば、また嫌でもあの三人と冒険の旅に出ることになる。だったら、わざわざこっちの世界でも顔を見る必要もない。

 ……それだというのに、なぜ俺はあいつらのことを目で追ってしまったのだろう?

 自分で自分のことがわからず、心の中で首をかしげながら教室を出て、階段をたたたとリズミカルに降り、下駄箱で靴を履き替える。まだ生徒がまばらな下駄箱を通り抜け、中庭も通り抜け、一直線に校門へと向かおうとしたところで、足が止まった。

 ががっというくぐもった音と、キーンという耳障りな甲高い音。校内放送のスピーカーが、突然ノイズを鳴らした。校舎のどこかに設置されているスピーカーが、そのノイズ音を外にいる俺の耳へとわざわざ届けてくれたようだ。

 そしてそのスピーカーは、どこかで聞いたことのある声でこんなことを喋りだした。

『二年B組、冴梨リョーマくん。いますぐ校舎三階、生徒会室まで来てください』

「…………」

 生徒会室に呼ばれるようなことは何もやっていない。

 そもそも生徒会のメンバーでも、委員会の役職者でも、部活の部長でもない一般生徒である俺が生徒会室に呼ばれる理由など、本来ない。

 理由があるとすれば、それは……。

『繰り返します。二年B組、冴梨リョーマくん。いますぐ校舎三階、生徒会室まで来てください』

 二度目の呼び出しを終えると、スピーカーの音はぶつりと切れた。

 さて、このまま無視して帰ってもいいだろう。

 呼び出した理由を考えれば、この校内放送はおそらく、生徒会長様の職権乱用によるものだ。正式なものでないのなら、それに応える道理だってない。

 俺は後ろを振り返る。あとほんの少し歩けば、校門をくぐることができる。学校の敷地内から出てしまえば、俺は帰宅済みの生徒だ。そうなればさらに、校内放送に応える理由はなくなるはずだ。

 なんとなく、空を見上げた。それで初めて気がついたが、今日は快晴だった。

 初めて異世界に降り立ったときに見上げたような、素晴らしい紺碧の空が広がっていた。

「……ったく」

 顔を下げ、小さくため息をつく。そして、俺は歩き出した。

 ……どちらの方向へ歩き出したかって?


 ――お節介な生徒会長様に、一言言ってやらなきゃいけないだろ?



     了

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