遠い記憶 (ショートショート64)
その日、私の探偵事務所に奇妙な相談があった。依頼者は七十歳なかばの老人である。
して、その内容だが……。
三か月ほど前から、同じ夢を繰り返し見るようになった。七、八歳の女の子が夢の中で、「あなたが、あたしを殺したんだ」と訴えてくる。
むろん殺してなどいない。ただ同じ夢を何度も見るうち、老人はこう思うようになったそうだ。
今となっては記憶のない幼少のころ、あやまってその子を死に至らしめたのではないか。脳の隅に追いやられている記憶が、夢となってよみがえっているのではなかろうかと……。
もしそうであれば、その子の墓に参って許しを請いたい。ただの夢であれば、今の不安から逃れられるだろう。
いずれにしろ、自分の幼少のころを調べてすっきりしたい。
私は老人にたずねた。
「子供のころ、そうした女の子があなたの身のまわりにいたんですね?」
「はい、近所に一人おりました。ですが、殺した覚えはまったくないんです」
いくら幼少のころだとはいえ、人を殺めれば記憶に残るはずだと話す。
たしかにそうであろう。
「その人は夢に出る女の子ですか?」
「そのようで、そうではないような……。なにしろ七十年も前のことです。おぼろげでしか、当時のことは覚えてないもので」
「覚えているだけでけっこうですので、その人のことを詳しく聞かせていただけませんか?」
「最後に遊んだのは、たしか幼稚園に入るころだったと思うが……。いえね、その子が急に引っ越したものだから」
老人は、そう前置きして話を続けた。
「同い年で、ユキちゃんと呼んでおりました。家が近所だったもんで、毎日のように遊んでね。どんな遊びをしたか、さすがに忘れましたが」
今は顔もよく覚えていない。
記憶にあるのは、二人で遊んだということだけである。当時のことを調べようにも、その子が住んでいた家はすでになく、まわりにも女の子を覚えている者がいない。
「たぶん……」
老人は最後にこう言った。
「こんな夢を見始めたのは、あれを見てからではないかと」
「あれとは?」
「私の家の近くには川があるんですが、三か月ほど前に土手を散歩しているときでした。女の子の人形が川面を流れておったんです。どうも、それを見てからではないかと……」
女の子のことで共通するのは、そのことぐらいしか思い浮かばないと言う。
まるで雲をつかむような話だ。
「わかりました。とりあえず調べられるだけ、当方で調べてみましょう。わかったことは調査の終わりしだい報告いたします」
私は調査を始める約束をした。あまり期待はしないでほしい、そう言い添えて……。
二週間後。
私は小山雪子に会っていた。老人のいる町から、さほど遠くない町で存命していたのである。
老人の話を聞かせると……。
彼女は当時のことをよく覚えていた。二人は同学年でも、彼女は四月生まれと、老人より一年近く年かさで記憶が確かだったのだ。
「死んだ姉では……」
彼女が、その日のことを語ってくれた。
その日。
彼女は姉の目を盗み、姉が大切にしていた人形をこっそり持ち出した。ところが遊んでいるさなか、その人形をなくしていることに気づく。
それが夕方になり、人形は川でおぼれ死んだ姉の手にあったそうだ。
「お姉さんが拾ったんですね?」
「はい」
「でも、なぜお姉さん。なくなった人形が、川にあることがわかったんでしょう?」
「お話を聞いて思ったんですが、おそらく川に捨てられるところを見たのでしょう」
「だれかが捨てるところを?」
「はい、その方だったのでは。その日、二人は川の近くで遊んでいましたから。それに川を流れる人形を見て、そんな夢を見るなんて……」
彼女が、その老人ではないかと言う。
それが事実であるなら、なぜそんなことをしたのだろうか。
ほんのいたずら心でやったのか。それとも、人形とばかり遊ぶ女の子を自分の方に向かせたかったのか。
理由はわからないが、そこらはおそらく老人にも覚えがないであろう。
「いいえ、やはり私のせいで姉は死んだんです。私が人形を持ち出しさえしなければ……。そのことを忘れさせようと、両親は私のことを考えて引っ越したんです。それに両親も、姉の死んだ町で暮らすことがつらくて……」
彼女が自分を責める。
この老婦はおそらく、ずっと己を責めて生きてきたのだ。だから七十年も前のことを、姉の死んだ日のことを鮮明に覚えているのだろう。
私は老人に報告した。
「ユキちゃん、つまり小山雪子さんですが、彼女は存命しておりました」
「そうでしたか」
老人の顔に安堵の表情が浮かんだ。
「ただ、幼少のころのことです。当時のことは覚えていませんでした」
小山雪子の話は伝えなかった。
話せば、老人は自身を責めることになる。
小山雪子の記憶に責められることになる。
そして……。
その記憶が小山雪子も知らぬうちに、いつかしら彼女によって塗り替えられているとしたら……。間接的にも姉を殺してしまった、その事実から逃げ出したくて。
遠い記憶。
老人が脳の隅に追いやった記憶は、小山雪子が人形を川に捨てるのを見ただけのものかもしれない。
真実はわからない。