第26話 「神様」
鼻糞を指の腹でコロコロお洒落にこねくりまわし、そこに次の鼻糞(適量)を適当なタイミングで仲間に加えてどんどん大きくしていく。そんな工場制手工業のBGMとして、俺は自作のラブソングなんかを優しく歌ってみてやると、鼻糞が少し微笑んだかのように見えた。
でっかい鼻糞を作ってやろうと最初に意気込んだ時には、絶対に手の平サイズくらいのを作ってやるんだと強く思うのだが、時間が進むにつれ、その単純作業に飽きてきて、結局人差し指の腹に乗っかるのが丁度一番綺麗な具合のもので終わってしまう。
これはいつものことだ。
俺の両親は離婚こそしていないが、今ではお互いまったく口を聞かない。なるほど、この二人も人差し指サイズまでの鼻糞しか作ったことないなと思わせるには充分飽き性だということがわかる風景だ。
それにしても、最近悩みの種がこの鼻糞だということを近所のおじさんやパン屋さんに打ち明けたとしても何の解決にもならいないだろう。特にパン屋さんで働いているおばあさんなんかは、すごくIQが低いし、足の指をぶつけたら痛いんじゃないかと思うほど背中も曲がっている。いや、背中が曲がっているのは別にいいと思うのだ。誰でも年を取ると背中は曲がってくるものだから。しかし、このばばあの曲がり方は俺に殺意を与えている。顔はにこやかに笑っていようとも、その背中からは悪意を感じる。
一度、警察に通報してみたのだが、「事件にまだなっていないのに我々が出て行くことはできない。」とうまくかわされてしまった。これだから警察は困る。何かが起きてからじゃ遅いのに。
俺の悩みの種という鼻糞のことなのだが、どういった悩みなのかと言うと、それはこの鼻糞という言葉自体にある。
何故、鼻糞というのだろうか?
別に鼻が作りだしたものではないし、たまたま糞が存在していた場所が鼻だっただけの話で、鼻は悪くない。
それなのに鼻糞。泣けてくる。
鼻に一時的に存在していたものを鼻糞と呼ぶというのなら、
うんこは尻糞と呼ばれるべきではないのか。
ノアニール西の洞窟にある「夢見るルビー」は、ノアニール西の洞窟糞と呼ばなければならない。
なんなら、耳糞を一旦綿棒で抽出し、その抽出された耳糞を机の上で転がして遊んだ後に、鼻の穴に入れたとすれば、これは鼻糞になるのか?
その鼻糞が、たまたま台風が来た時にその猛烈な風力の影響でピョンと鼻の穴から飛び出して肩に落ちたとしたら、それは肩糞と呼ばれるべきなのか否なのか?
辞書で「鼻糞」をひいてみると、「鼻水とほこりが鼻の中で固まったもの」と記載されていた。そうであるのなら、鼻糞ではなく、鼻水とほこり糞ではないのだろうか。そう考えると、鼻水という言葉も鼻が作ったわけじゃないのに鼻水と呼ばれていることにも嫌悪感を覚える。
とりあえず糞と決め付けていることがすでに俺としては許せないし、何で?とさえ思ってしまう。
たまにでかい鼻糞が取れた時、万人は喜ぶ。喜びを与えてくれているのに糞というのは失礼すぎやしないか?
俺は今までのことを反省して、今日から鼻糞のことを鼻神と呼ぶことにする。
今日は鼻神が人差し指程度抽出できたので、それを指の腹で数分転がしたあと、指の先でデコピンをする時のように窓から飛ばした。




