第二章 第七話:ヒルダ
「はあ・・・」
ヒルダは馬車に揺られながら溜息を吐いた。
時間帯はすでに夜、陽が落ちて久しい。
馬車は平野の何もない道を走っている。
周囲の光は月の光だけだ。
彼女は今、領主の妻ネアンドラ夫人の影武者として馬車に乗せられていた。
もちろん自分の意思ではない。
ちょうどネアンドラの街を訪れたところで、通りがかったネアンドラ夫人の目に留まってしまったのだ。
どこの街の住人でもない旅芸者、使い捨てるには最適の人材ということだろう。
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「はあ・・・」
今日何度目かわからない溜息と共に、私は頭を抱えた。
この馬車がどこへ向かっているのかはわからないが、私だってそこまでバカじゃない、目的ぐらいはわかっている。
きっとネアンドラ夫人が街の外へ出かけるのだろう。つまり私は囮だ。
私は同情した召使の人たちにネアンドラの事情を教えて貰っていた。
今のネアンデル領主はかなりの好色家で、正妻の他に何人も妾がいるらしい。
夫人と妾が領主の正妻の地位を巡って影で互いの命を狙っているという噂だ。
貴族の中でも特に大きな力を持つ領主。
その妻と言うのは女性たちにとっては羨望の的。
綺麗に着飾って何不自由ない優雅な生活。
正に勝ち組の代名詞。
平民出身の夫人がその地位を死守しようとするのも無理はない。
それはわかる、私も以前はそれに憧れたことがあるから。
よくわかる、わかるけど・・・、そのために利用される側にとってはたまったものではない。
仮に夫人が青い血の生まれだったなら、こうはなっていなかったかもしれない。
夫人は平民の出だから、妾達もチャンスがあると思っているのかもしれない。
窓の外を見る。護衛の騎士が馬に跨って並走していた。
この馬車を護衛している騎士は全部で5人。
話し方からすると全員貴族だと思う。
育ちの良さが滲み出ていた。
貴族の馬車に乗って年頃の貴族の青年達に守ってもらう。
命の危険が無けなら悪くないシチュエーションだと思う。
呑気な子なら舞い上がってしまうだろう。
もっとも5人の内の1人は女だし、私は『貴族の騎士様達が守ってくれるから安心♪』なんて考えるほどアホの子じゃないけど。
旅芸者なんてやっている以上、危険な目はそこそこ経験している。
腕に覚えがありそうな連中だって見慣れている。
それと比べると、この人たちは正直頼りない。
ましてや『あの人』とは・・・、比べるまでもない。
「はあ・・・」
2年前、あの夜のことを思い出す。
ポトールイに向かっていた時のことだ。
あの時は道中で3度も襲われた。
雇っていた護衛は2度目の襲撃で全滅、なんとかポトールイ近くまで行ったところで3度目の襲撃を受けた。
襲ってきたのは夜盗。
殺されるか慰み者にされるか、正直もう駄目だと思った。
獣に食い殺されるよりはまだマシだと自分に言い聞かせたのは今でも覚えてる。
そんな時に颯爽と現れたのが『あの人』だ。
いきなり現れたと思ったら、あっという間に全員倒してしまった。
あんなに強い人は見たことない。
あれまでも。あれからも。
それからポトールイに着くまでの短い時間、横に並んで話した。
一緒に過ごしたのはその時だけ。
恥ずかしがって顔すら見せてくれなかったけど。
でも私にとっては一番大事な時間。
夢を見ているような時間だった。
恋する乙女、なんて正直馬鹿にしていたのに。
いつの間にか自分もその1人になっていた。
でもそのことを自覚したのはあの人がいなくなってからだ。
(なんで追いかけなかったんだろう・・・)
追いかけなかったことを未だに後悔する。
短い夢から覚めた後、私は旅の合間にあの人を探した。
そうしてもう2年。
未だ手がかりの一つすら見つからない。
わかっているのは名前だけ。
(アルフレッド様・・・)
2年前のあの日から、私は名前しか知らない王子様への片思いを続けていた。
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「きゃっ!」
突然止まった馬車が私の物思いを中断させる。
外で何かあったに違いない。
私は窓の端からそっと外の様子を伺った。
防音処理のされたこの馬車では外の音はほとんど聞こえない。
窓から見える情報だけが頼りだ。
窓の外では護衛の騎士達が誰かと戦っているように見える。
視界の下の方には既に騎士が一人倒れているのが見えた。
私は心臓が高鳴るのを自覚する。
いよいよ、その時が近づいてきた。夫人の身代わりとして犠牲になる時が。
怖い。
生き延びられるだろうか?
状況はとても悪い。
普段ならここはとっくに逃げの一択だというのに。
馬車には外から鍵を掛けられているので逃げられない。
襲われた経験なら何度もあるが、ここまで分が悪かったことは無い。
それこそ、あの人が助けてくれた時以上に絶望的だ。
このままだと護衛を全員やられた後、最後にゆっくり殺されるだろう。
多少の護身術は身に着けているが、とても通用しそうな相手には見えない。
私は震える手でドレスの裾をまくり、太ももに隠しておいた短剣を抜いた。
(これで・・・、やるしか・・・)
勿論、これで切り抜けられると本気で思っているわけじゃない。
それでも、可能性はあると自分に言い聞かせた。
窓の外でまた護衛が一人やられた。
やられたのは女の人?
暗くてよくわからない。
体中が震えて力が入らない。
ここで自分の人生が終わる。
そう予感したその時、
キラッ
視界の隅で何かが光った。
光った、というほどでも無かったかもしれない。
とにかく何かが月明りを反射した。
金属のような鈍い光だ。
(・・・剣?)
『それは』どんどんこちらに向かって来る。
(・・・!!)
全身が震えた。
私の見ている前で、まるであの時の『彼』のように。
闇の中から現れた男が大剣で敵の一人を両断した。
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(アルフレッド・・・さま?)
私は突如として乱入した男に彼の姿を重ねていた。
男は最初の1人に続いて横のもう一人も両断、3人目も早々に片づけると馬車の反対側へ回り込む。
窓の死角に入ってしまった男の姿を追いかけて、私も慌てて反対側の窓を覗きに行く。
ここで殺されるという、さっきまでの恐怖はもうどこかへ行ってしまった。
私が反対側の窓を覗いたとき、既に敵の1人が大剣に貫かれていた。
(本当に彼かもしれない)
期待に胸が高鳴る。
こんな芸当、誰にでもできるものではない。
彼だ、きっと彼に違いない。
彼は一瞬体を屈めると、一気に飛び上がった。
トンッ!
頭上から微かな振動が伝わってきた。
屋根に飛び乗ったみたいだ。
私は窓から上を見ようとしたが彼の姿は確認できなかった。
彼の姿を追いかけて、窓から見える範囲をくまなく探す。
・・・いない。
(どこっ?どこなのっ?)
慌てて反対側の窓からも確認する。
窓の隅から何かが視界の外へ動いていった。
きっと彼に違いない。
進行方向を先読みして再び反対側の窓へ戻る。
今度こそ彼を視界の中心に捉えることができた。
ようやく、2年ぶりに会うことができた。
もう体の震えが止まらない。
生き残った騎士たちと何か話している。
私も早く彼と話したい。
トントンッと壁を叩く。
が、向こうに側に反応は無い。
(気付いてないのかな?)
この馬車にはかなり強力な防音処理がされていることを思い出した。
ドンドン!
自分の方を見て欲しくて壁を叩く。
が、やっぱり向こう側に反応はない。
その時、彼が大剣を担いで背を向けた、と思ったらまた馬車の反対側に向けて急に走り出した。
「え?!」
私は慌てて反対側の窓を覗く。
彼が背を向けて走っていく姿が見えた。
「うそ・・・、そんな・・・」
ドン!ドン!
私は短剣の柄で窓を力一杯叩いた。
「気づいて!お願いだから!」
彼の後ろ姿がどんどん小さくなっていく。
「まって!ヒルダですっ!お願いっ!おいていかないでっ!アルフレッドさまぁああああっ!」
私の叫び声は、彼どころか横にいた騎士たちにすら届かなかった。