新茶と季節の練りきりをすこしずつ3
やることが多ければ多いほど、時間は待ってくれない。着実に文化祭へ近づいていく。文化祭は十月下旬。それまで、二週間はとうに切っていた。
半東としての仕事をまだ完璧にこなせるようになった訳でもなく、更にその上クラスの方の手伝いにも追われている。つい先日、中間テストが終わったのがまだ救いだろうか。それでも、覚えなくてはいけないこと、やらなくてはいけないことが多過ぎて、頭がパンクしそうになっていた。
相変わらず早朝登校は続けていたが、最近は四条とすれ違うことも無い。寂しくないと言ったら嘘にはなるが、実際はそんなことを気にしていられる余裕が無いのも事実である。
放課後。茶道部の活動場所である作法室で、お手前の練習をする。いつもの活動日とは違うので、お茶の先生はやってこない。生徒だけの自主練だ。
お手前をしている人と、裏方である水屋との連携を図るのも、実佳が請け負っている半東の役目の一つであった。お手前の進行具合によってお菓子を回す。そして、メインのお客様である正客ではない客人達へのお茶を点てるように水屋に告げ、自分は亭主が点てたお抹茶を正客へと出す。
挨拶を始めとして、掛け軸やお花、道具の説明、それら全てがうまくいくことなんて無くて、焦りが生まれ始めていた。
「おたくは、まあ良くやってると思うよ。私が急に押し付けたんだしね」
理有がそう慰めても、実佳の気は晴れない。なにせ、理有の方はほとんど完璧にお手前をこなしているのだ。いつもなら尊敬を抱くそれも、今は恨めしい。
水屋組のみんなも、上手になったと褒めてはくれるのだが、それでも気分は浮上しない。失敗続きなのは明らかだからだ。
「だいたいさ、普通は正客さんが質問とかするんでしょ? 研鑽会のときにそうだったように。でも今回、相手は学生だよ。しかも、ド素人」
「そうそう。そんな気構えなくても大丈夫ですよ、先輩。相手は作法なんて、てんで分かっちゃいないんですから」
なんて心強いのだろうか。どん、と構えていられるその強さが羨ましい。
しかし、それらは今の実佳にとっては重く感じるのだ。自分だけが、取り残されたような気分になる。
この子たちこそ、水屋ではなく半東をやるべきだったのではないか。そんな彼女達の努力すら、泡にするようなことを考えてしまった自分は最低だ。負の連鎖がぐるぐると回りだすと、止まらない。断ち切りたくても、断ち切れない。
「ごめん。ちょっと、手洗ってくる」
「あいよ。行ってきな」
水道は室内にあるというのに、なんて下手な言い訳だろう。
ツッコミを入れること無く了承した理有にだって、そんなのはお見通しだったのだろう。再び自己嫌悪に陥って、廊下の壁に寄りかかる。もう秋も暮れに近づいていて、ひんやりと冷たいそれが、身体中を巡っている血液を冷ましてくれるようだった。それがすごく心地良くて、実佳はもたれ掛かったままズルズルと座り込む。
どの程度そうしていたのだろうか。実佳には分からなかったが、ぼんやりとした意識の中、足音が聞こえてきた。
パタリ、パタリ。着実に近づいてきている。
(動かなくちゃ……)
意識の中ではそうわかっていても、身体が言うことを聞いてくれない。自分で思っていたよりも疲れていたのだと、今更ながらに悟った。
目の前に陰ができ、スリッパ特有の足音が止まる。足下だけ見えるが、どうやら男子生徒のようだ。制服のズボンはちょうど良い丈で、裾がすり切れていない。
「……あんた、大丈夫か?」
「ダイジョバナイ、かも」
「マジで、ヤバそうなんだけど……」
実佳が曖昧に応えると、引きつったような声が聞こえた。ほら、と手が差し出される。どうして良いか分からずにいたが、その場の流れで手を掴んだ。
「よっ、と……」
ぐいっと引っ張り上げられ、驚いて意識が覚醒した。自分が話していた相手は誰だろう、ようやく疑問に思って実佳は顔を上げる。
「し、四条くん?」
「様子がおかしいのが見えたから、こっちに来て良かった。死んでんのかと思った」
真顔で言うから、笑えない。四条のつり目は全く緩んでおらず、実佳は反応に困った。きょとん、と首を傾げて話題を転換する。
「なんで四条くん、ここにいるの?」
「だから、言ったろ? 様子がおかしかったから来てみた、って」
クエスチョンマークを浮かべる実佳だったが、詳しく説明する気はない模様。四条は「ちょっと来て」と告げると、歩き出してしまう。
「ま、待ってよ」
慌てて四条を追いかける。廊下の窓から差し込んだ光が、二人分の陰を作り出した。どうしてか、歩いても決して重ならない。
四条の歩く速度は実佳に気を使っているためか、特別速いものではない。簡単に隣に並ぶと、彼の横顔を眺める。キリっとした目元に似合うようなシャープな顎の線。何故か分からないけれど、どきりとした。
「どうした?」
「どこに行くのかな、って」
「来りゃわかる」
動揺したのがバレたのか、振り返った四条。誤摩化すために尋ねるが、素っ気なく返されてそれ以上何も言えなくなった。渡り廊下を渡って、クラブハウスの方へと進んでいく。活動場所である作法室は特別棟にあり、クラブハウスまで行く必要がない実佳にとっては、未知の領域だ。
クラブハウスは、他の校舎と作りが特別違う訳ではない。確かに、部屋の大きさは他よりも小さくなってくるし、ドアの数やら配置も違う。しかしそれよりも、そこに漂う空気が、やはり他とは決定的に違うのだ。
何かへ誘うような音が何処からか聞こえてくるような気さえする。同時に、自分はよそ者なのだとなんとなく思った。慣れない者をそっと誘惑するような……。
「ほれ、ここだ」
ぼんやりと考えていると、そう告げられて思考が中断させられる。クラブ名の書いてある場所には『美術部』とゴシック体で書いてあった。実佳は、慣れた手つきで鍵を開ける四条の背中をじっと見つめる。
「どーぞ。何も無いけどな」
内開きの扉が開いた瞬間、むっとした空気とともに絵の具の匂いが辺りに広がった。
「悪いな。さっきまで水彩やってたもんだから」
狭い室内には机やイーゼル、キャンパスに石膏、そして画材を収納する棚、細々とした画材など、美術に関する物がごちゃごちゃと並んでいた。それぞれ数は多くないが、部屋のスペースから考えると充分すぎる量だろう。
「ま、俺の部屋だな」
「ええっ!」
「いや、美術部の部室ってことになるんだろうが、美術部って俺一人しかいないから。沢山いても部室が使いづらくなるだけだから、構わないけど」
そう言いながら、実佳に椅子を勧める。実佳が座ると、四条は窓の方に近寄って向こうの校舎、特別棟の方を見つめた。西日が差し込んでくるせいで、彼は夕焼け色に染まる。妙な神秘性に、何故だか張りつめた空気を感じる。位置と夕日のせいで顔色も読めなくて、更に緊張を助長させている。
「こっから、作法室が見えるんだ」
ぼそり、と四条が呟く。実佳は何も言わない。
「んで、あんたがさ、調子良くない感じなのが見えて、なんか不安になって」
それで行ってみたら、あんなことになってた、と四条は続ける。呆れも含んだ調子で、実佳は何とも言えない気持ちになった。外を見ていた四条が、不意にこちらを向いた。目を合わせるのが、なんとなく気恥ずかしい。
「だ、大丈夫だったもん。あ、ねぇ、四条くんの絵とか見せてもらっても良い?」
「話を逸らすな、と言いたいとこだけど、構わないよ。俺もあんたには借りがあるからね」
ほら、と指を指された先のイーゼルに立てかけられた水張り。学校の授業で普段使用する机の三倍ほどはあろうかという大きさで、そこには和風の女性が水彩の絵が大きく描かれていた。描かれて時間が経っていないらしく、まだ濡れていた。
「仕上げはまた明日からだけど、とりあえずそんな感じ。あんたにお茶を貰ったときに、和装っていうのも良いんじゃないかと思ってさ。普段は石膏デッサンばっかりやってたんだけど」
「すごいな……」
実佳が思わずそう漏らすと、四条は顔をしかめて首を振った。どうやら思う所があるらしい。
「だめだよ、それは。時間が足りなくて、すっげー乱雑。ほとんど色で誤摩化してる感あるし。まあ、久しぶりに描いてて楽しかったから、いいんだ」
「……うん。なんか、楽しそうだなって思った」
やっぱりすごいな、そう思ったのが見透かされたのか、四条に額を小突かれる。
「あんたのおかげだっつーの。ちょっとは、自覚しろよな」
「え?」
「あんたがうまく気分を切り替えてくれたから、それも描けたし、前々から描いてたやつもちゃんと完成出来たし」
自分でも、役に立てた。そう言われている気がして、酷く励まされた。四条の飾り気の無い、まっすぐな言葉が弱っている心にすっと溶け込む。
思わず、熱い物がこみ上げてくる。堪えようと思っても堪え切れない。瞬きをした拍子にこぼれ落ちた大粒の雫を、乱暴に拭って誤摩化した。
「ありがと……四条くん」
「別に…礼を言われるようなこと、言ってねぇし。つーか、連れて来といてなんだけど、早く帰らなきゃ心配されんじゃないのか」
「あっ」
そういえば、手を洗ってくると言って、作法室を出てきたのだ。それを信じているとは到底思えないが、あまり遅すぎるのは良くないだろう。
立ち上がって帰ろうと思ったら、「ちょっと待て」と引き止められる。差し出されるハンドタオル。訳の分からないうちに押し付けられて、四条は先に部室の外へ向かっていた。
「ね、ねぇ……これ」
「やる」
ぶっきらぼうにそれだけを言われ、実佳は戸惑う。比較的、真新しく見えるし、やっぱり何でも無いのに貰うのは気が引けるのだ。
「で、でも……」
「いらないなら、捨てとけ。けど、顔はちゃんと拭いておいた方が良いと思うぞ。んで、悪いと思うなら、文化祭にうちの展示見に来てくれれば、それでチャラにしてやる」
何を言っても聞かなさそうだ。これ以上拒否するのもなんだか悪い気がして、すごすごと受け取った。おとなしく、言われた通りに涙の跡を擦る。
「あんまし擦りすぎると、今度は赤くなるから気をつけろよ」
作法室に帰る道すがら、そう言われて慌てて擦るのを止める。すると、四条はふっと微笑んだ。
「ま、あんたは心配しなくても、充分可愛いって」
「かわっ……!」
突然放たれた言葉に、実佳は反応が出来ない。その場に縫い付けられたように固まっているうちに、四条はとっとと歩き出してしまう。鞄を肩から引っさげ、一度振り返って手を振る。
「んじゃ、俺は帰るから。ほどほどに頑張れよ」
実佳は、依然として動けないままである。中途半端に持ち上げられた手を、お情け程度にヒラヒラと振りはしたが、相手に見えていたかどうかは定かではない。
と、そこへ声がかかる。
「……心配して見に来たんだけど、おたくナニ固まってんの」
「え、ええっと……あの、四条くんが、えっと、あの……うん」
「ああ、あいつか。良い奴だろ?」
声を掛けた瞬間は呆れたような顔をしていた理有だったが、納得したように頷いた。頭が回ってない実佳はそのことすら気付いていない。
「そう、だね……」
不意打ちの一言を残していったとはいえ、心配して実佳の様子を見に来てくれたことは確かだ。頷いて、実佳はふにゃりと微笑んだ。
「ふむ……おたくはもう大丈夫そうやね」
「え?」
「失敗したってな、問題ないんだよ。次に活かせるなら、それで」
それだけ言うと、理有は作法室の方へ歩き出す。なんだか、デジャビュだ。先ほどの四条とどことなく被っていた。だがしかし、四条と理有は違う。
「ほら。早く行くよ、実佳。もう一回くらいなら、お手前通せるだろ」
結局の所、自分が劣等感を抱いていようがそうでなかろうが、理有は仲間なのだ。実佳が改めてそう実感しても、口には出さない。
「待ってよ、理有ちゃん」
代わりにそれだけを言って、立ち止まってくれている理有の側に駆け寄った。
二人、並んで作法室へと歩んでいく。窓から差し込んできた夕日が二人分の陰を作り出して、それはやんわりと重なった。
もうちょっとだけ続きます。