新茶と季節の練りきりをすこしずつ2
九月も半ばとなった。週に一度木曜日だけの部活動では、半東の練習なんてまだまだ出来ていないに等しいけれど、台詞だけは紙にメモしてある。
相変わらずの早朝登校。いつもと気分を変えて廊下の窓へ寄りかかりながら、メモを読む。
「本日は、ようこそおいで下さいまして……」
「何、なんかの練習?」
突然掛けられた声にビクッとなりながら、実佳はそっと振り返った。聞いたことのあるようなないような……と思っていたが、顔を見て思い出す。
(あ。えーと……)
「四条くんだっけ?」
「そうだけど。で、それは?」
よほど気になるのか、それとも単なる暇つぶしか、どちらにせよ質問に答えるまでは目の前から立ち去る気はないらしい。特に隠すことでも無いので、実佳は素直に説明する。
「私、茶道部なんだけど、挨拶とか説明とかを覚えなきゃいけなくて……四条くんはどうしたの?」
「ん、俺? ただのスランプ」
伸びをしながら、なんでも無いことのように言うけれど、実際はそうではないのかもしれない。なんとなくだけど、焦りも滲み出ているような気がした。
なんせ、文化祭は十月末だし、当然のことながら美術部だって展示をするはずだ。
美術に関してはてんでド素人の自分に出来ることなんて無いだろう、と思いながらも実佳はチラリと時計を見て考える。今日は少々早かったのか、学校に来てから少し経つのに、授業開始の八時四十分までは五十分ほど残っている。ふと妙案を思いついて、実佳はパチンと手を叩いた。
「そうだ! 四条くん、気分転換にお抹茶でも飲もうよ! なんにも変わらないかもしれないけど、リラックス出来るよ」
「……そういうの、いいの?」
不安そうに聞き返す四条に対して、実佳はケロリと返事をする。非常に楽観的な表情だ。
「……あんまし良くないとは思うけど、まあ今回は特別ってことで!」
「マジで?」
「マジで!」
言い切った実佳が面白かったのか、四条は吹き出した。先ほどまで背負っていた暗い陰が少し和らいだ気がする。実佳はホッとして、息をついた。
「んじゃ、吉川さんのありがたいお言葉に甘えるか」
「よし、任せて!」
言葉と一緒に親指を立てると、四条はまたも吹き出す。それに関しては少々不満だったようで、実佳は頬を膨らませた。
◇
ちょうど五日振りの作法室に入ると、むっとした空気が身体にまとわりつく。閉め切っていたからだろう。電気を付けると、窓を全開にしていった。その窓からは部室ばかりが集まったクラブハウスが見えている。
作法室はそのクラブハウスと本館とのちょうど真ん中、特別教室ばかりが収容されている特別棟の二階にある。クラブハウスで風が遮られているから窓を開けてもそれほど涼しくない、というのが茶道部内での定説であった。その上、方角的な面から朝は太陽の光がもろに差し込む。
実佳の後に続いて入って来た四条は、物珍しそうに室内を見回す。床は畳で、区切られた空間があるかと思えば、そこには水道やら用具やらがある。当然のようにコンロも設置済み。
「へぇ、こんなになってたのか……」
「あ、四条くんは入るの初めてなんだね」
「まあ…入るのはね」
含みのある言い方だったが、実佳はその違和感に気が付かず、適当な所に座ってもらうように促した。
お湯をいつもより少量沸かして、抹茶を冷凍庫から取り出し、お棗と呼ばれる手のひらに収まる程度の入れ物へ入れる。いつも通り準備をしていて、ふと思った。別に、お手前をしなくてもいいんじゃないのか、と。
「お手前から見たかったりする?」
「んー、出来れば。でも、時間は大丈夫か?」
キョロキョロと室内を見回しながらの四条の言葉に、実佳はホッとした。なんて素敵な言い訳だろう。実は、先生がいないところでお手前をするには、少々自信が足りなかったのだ。
「時間がないから、今回は止めとくね」
「ん。なら、次に期待してる」
「文化祭のお手前は、私じゃなくて理有ちゃん……えっと、有野さんだよ」
「え、マジで? なら、あんたは何をするんだ?」
「だから、私は……挨拶とか、用具の説明とか、そんなの」
自信が無い所為で、弱々しい口調になってしまったのは仕方が無い。誤摩化すように、沸いてきたお湯をヤカンごと持って四条の前に座った。そして、それで茶筅とお茶碗を温める。これを怠ると、茶筅が割れたり、お茶が温くなったりして上手く点てられない。
そんな動作をじっと見つめられて、実佳はなんだか妙な気分になった。こうやって一対一で見つめられるなんてことは、今までに無かったからだろう。温めるために入れたお湯を捨て、茶巾で水気を綺麗に拭き取る。
慣れていない人には、薄めのお茶を。自分が仮入部の時にそうしてもらったように、実佳はいつもよりも少なめに抹茶をすくって、お茶碗に入れる。そっと柄杓でお湯を入れると、茶筅を手に取りお茶を点てた。腕を動かすのではなく、手首のスナップをきかせて素早く、それでいて丁寧に。泡がある程度見えてくると、クルリと「の」の字を描いて、茶筅をお茶碗から抜き取った。
お茶碗を手に取って九十度を二回まわし、自分の方に向いていた正面を相手の方に向けて、コトリと差し出す。
「お茶菓子は無いんだけど、許してね」
「いえいえ、お構いなく」
真面目ぶって言う四条の様子がおかしくて、実佳はクスリと笑いを零した。四条は居住まいを正した後、茶碗に手を伸ばす。
「ん。こういうのって作法あんの?」
「あるけど……まあ、時間がないから今日の所はお好きにどうぞ?」
「んじゃ、遠慮なく」
両手で受け取ったお茶を口へ運ぶ四条。この瞬間は、いつもドキドキする。自分の点てたお茶を誰かが口にする、というそれだけのことなのに、妙に神聖に感じてしまうのだ。
周囲の空気もシン、として静まり返っている。普段なら聞こえてくるはずの吹奏楽部の練習や、どこかの部活の朝練の声なども、どうしてか耳へ届かない。
じっと、四条を見つめる。ゴクリ、と白い喉が動いて、ドキリと心臓が跳ねた。顔はお茶碗で覆われており、ほとんど見えない。不安に思いながらも実佳は彼から目を離せなかった。
「ん…いいな、これ」
お茶碗から顔を外した四条の第一声に、実佳は安堵した。そろり、と喉から顔へと視線を動かす。表情も悪い物ではない。
「……よかった」
ふにゃり、と顔を緩ませて実佳は思わずそう言った。だが時計を見た瞬間、そのホッとした気持ちは全て吹き飛んだ。時計の長針は、もう五の数字を指している。
「ちょ、か、片付けないと! 授業始まっちゃう! 慌ただしくてごめんね。もっとゆっくりしていってもらえれば、よかったんだけど……」
「いや、全然。無理させたの俺だから。それに、なんか絵が描きたくなってきた……さんきゅ」
最後の言葉は、片付けをしていた実佳の耳には届かない。お茶碗を洗うための水音に、完全にかき消されてしまった。