新茶と季節の練りきりをすこしずつ1
早朝の冷たい空気が肌を撫でる。ブラウスの上にベストを来た制服姿の少女は、音楽を聞きながら自転車を飛ばしていた。ゆるゆるとした癖のある色素の薄い髪は、二つ括りにされている。それが風を受けてヒラヒラと泳ぐ。
イヤホンから流れてくる音が眠気を吹き飛ばしテンションをハイにする。いつもなら捕まるはずの信号すらスムーズに通り抜けられて、何だかとてもラッキーな気分が助長される。
(今日、朝の占いでもソコソコだったもんね)
絶好調のときは何もかも上手くいくものだがひやりと時折、不安が走る。何もかも上手くいきすぎて、逆に何かを忘れているような気分になるのだ。
今回も学校までの道のりの中程、筆箱をきちんと鞄の中に入れたか、ふと不安になった。少女は片手をハンドルから離し、自転車の前カゴに手を伸ばし、チャックを開けてスクール鞄をゴソゴソと漁る。見えはしなかったが、どうやらそれっぽい物が指先に当たる。ほっと安心して意識を自転車に戻した。片手運転はどうしてもフラフラとなってしまって好きにはなれない。
大通り沿いの舗装された道路を突き進む。特別狭いとは言わないが、それほど広くもないその道。フラリと自転車が傾けば、前を歩いていた人にぶつかりかけてしまう。少女は慌ててバランスを取った。
(おっとっと……。あっ、まただ)
衝突しかけたのは、自分と同じ学校の制服を来た男子生徒であった。制服を緩やかに着こなし、耳には小さなヘッドフォン。通学時にちょくちょく見かける気がする。
「ちょ、ちょっと! おい、これ……」
後ろから、誰かを呼び止めるような声が聞こえた。さっきの男子の声かな、とまるで人ごとのようにそう思ったが、少女はすぐにイヤホンから流れる音楽に気を取られてしまう。男子生徒の存在など、その頃にはもうすっかり忘れしまっていた。
◇
履き替えたばかりのスリッパをパタパタといわせながら、三階まで階段を上った。登校時間の八時半まで、まだ四十五分ばかり残っている。しん、と静まりかえった校内がすごく好きだ。毎日この時間帯には心が浮き立つ。新学期が始まってもそれに違いは無いらしい。
ガラリ、と教室の扉を開ける。誰もいない空間を横切り、窓際最前列の自分の席に鞄を置いて、窓を開け放していく。淀んだ空気が朝の清々しい空気と入れ替わって気持ち良い。
ずっと外を眺めていると、廊下の方から何やら足音が聞こえた。
(今日は、誰か早く来たのかな?)
中央階段を上って左側は理系や国公立、難関私立大を目指すクラスで比較的朝早くに来る人が多いけれど、右側——つまり、少女が今いる方にある教室の生徒は、みんなギリギリに登校することが多い。時計をチラリと見ても、まだ八時くらい。普段なら自分の貸し切り状態なのに、と軽く口を尖らせてみた。
足音は教室の前で止まる。ドアへ視線を走らせて視界に飛び込んで来たのは、見覚えのある男子生徒の姿。
(あっ。本日、二度目の……)
朝の登校時に良く見かける彼だった。しっかりと見たことは無いが、きっと違いない。身長は男子生徒にしては低めで、色白。少々キツそうな目元で少したじろいだ。けれど、それは特に意図したものではなく、元々の顔つきらしいと、すぐに気が付く。柔らかそうな髪の毛は若干乱れていた。
どうしたんだろうか、と疑問に思いつつ、ぼんやりと眺める。そんなに凝視されるとは思わなかったのだろう、少し怯んだ様子で彼は口を開いた。
「……吉川実佳さん?」
「え……う、うん。そうだけど」
急にフルネームで呼ばれて驚いたが、確かに自分の名前である。目を丸くしながらも、彼女は頷いて肯定した。
「ほら、さっき生徒手帳落としただろ? 悪いとは思ったけど、勝手に中身見たから」
ポケットの中から取り出された生徒手帳。実佳は、慌てて彼に近寄って受け取った。中身を見ると、言われたように確かに自分の物である。
「あ、ありがとう。えっと……」
名前が分からなくて言いよどんだが、相手はその空白の意味を読み取ってはくれなかったらしい。用は済んだとばかりに、立ち去ってしまう。あまりにも当然のように動くものだから、呼び止めることすら阻まれる。廊下に出て彼の背中を目で追うだけで、何も出来なかった。すぐに、彼は隣の教室へと消えていく。
(隣のクラスだったんだ……)
廊下のつやつやとしたワックスで反射する日光に目を細めながら、実佳はそう思った。
あんなに毎朝会うのに。少しおかしく思えて実佳は、ふふっと笑いを零した。そこに、ひんやりとした声が水を差す。
「……何、笑ってんの? 不気味だから、止めときなさい」
「え? あ、おはよう。理有ちゃん」
振り返ると、そこには実佳の友人がいた。茶道部の部活仲間である有野理有だ。実佳や他の女子の平均身長よりも少々高め、スラリとした体型のいわゆる美人である。赤いフレームの角眼鏡が、彼女の冷たい印象を助長している。また漆黒の髪の毛は下の方でキュッと括っており、それが朝日を浴びて艶めいた。
「ああ、おはよう。んで、おたくって四条と関わりあったっけ?」
「四条?」
「さっき話してたろ、四条 壱と」
「えっと……さっきの子のこと?」
最初はなんのことか分からなかった実佳も、何となく把握して聞き返す。それに対して「ああ」と短く肯定した理有は、眠たそうにあくびをかみ殺した。浮かんで来た生理的な涙をほっそりとした指先で拭き取る。
四条壱。初めて聞く名前だと実佳は思った。同時に、どうして理有が彼のことを知っているのか、疑問に思う。理有は交友関係が狭いという訳ではないが、特別に顔が広いという訳でもない。
「生徒手帳落としたのを届けてくれて……理有ちゃんの友達?」
「いんや。去年、文化委員で一緒だっただけ。美術部なんだとさ。絵がうまくて、ポスター作りのときには助かったね」
なるほど。納得して、四条という男子を少しだけ尊敬する。理有はそんな簡単に人を褒めるような人間ではないからだ。
そこへ、呆れたように理有が言う。
「つーか、おたく気をつけな。ただでさえ、ぽやーっとしてるんだから。拾ったのが四条みたいな良い奴で良かったな」
「べ、べつにぽやーっとなんてしてないもん。ていうか、理有ちゃんはどうしたの? なにか用事?」
同じクラスでもないのに、わざわざやってきて声をかける。理有は、こういうベタベタした付き合いを好まない。そうすると、必然的に何か用事があったのだろう、と実佳は考えた。
それは間違っていなかったようで、理有は頷くと用件を切り出す。
「ああ、そうだった。文化祭なんだけど、おたく半東やってな。私、お手前やるから」
「えっ、ちょ、なんで?」
突然そう言い切られて、実佳は動揺する。
半東というのは、ここではお手前をしている亭主の後ろに控え、忙しい亭主の代わりにお客様のお相手を務めたり、水屋と呼ばれる裏方との連携を図る役割である。
部活内では、後見と呼ばれる役目とも混同されている。どちらも、高校の部活動内で正式なものをしっかりと学ぶ訳ではないので混ざりがちだが、半東というのは後見よりも若干、補助的な役目が強い気がする。
しかし、半東にしろ後見にしろ、お手前をする人と同じくらい、下手したらそれ以上に、大切なポジションであったりする。お客様をもてなし、心地よくなってもらうのが、お茶会の本来の目的だからだ。
「おたく、副部長でしょ。で、私が部長。半東が嫌なら、おたくがお手前でも」
「そっちの方が嫌!」
「なら、決定。それで先生にも連絡しとくから。今日の部活からその練習に入るんで、覚悟しときな」
用件を言い終わると、せかせかと中央階段で隔てられた向こう側へ帰ってしまう。
「はぁ……私が半東で大丈夫なのかな?」
頼りなくて、ほやほやとしていることについては、若干の自覚がある。
それに、先輩達の出た研鑽会という茶道の大会のような物で細かい道具名やら何やらまで突っ込んでいたのを見ているから、酷く不安になる。ああいう人たちの質問を上手く処理なんて、出来る訳が無い。
ため息を零すとともに、廊下の窓から空を見る。雲行きが少々怪しい感じだ。
「天気予報、雨って言ってなかったのにな……」
不安を抱えながらも、実佳は自分の席へと戻っていった。
大学の文芸部に少しだけ所属していたときに提出した作品です。
どうぞ、お付き合い下さいまし。