ぱあと4 ヒダリミギのミギに用はない
相手が鼻をかみ終わったところを見計らい、俺はありきたりな質問をぶつけてみた。
「……おたく、名前は」
テスト終了間際、変な悪魔術かなんかで召喚されて(予想)、保健室ベッドに落下したと思ったら、張り倒されて言い逃げされて、捕まえたと思ったら、これだ。
けれど、俺を張っ倒したこの相手は ティッシュが必要なほど鼻声だったわけで――追いかけてみたはいいが、泣いてたってわけで……
このまま放ってハイサヨナラというわけにもいかなかった。
「返します」
「は? 賀永志…なんだって??」
そこで気が付く。相手がポケットティッシュの残りを差し出していた。元はといえば、世界史Bのテスト前に佐々木に貸してもらって、そのままズボンに突っ込んでいた代物だ。
受け取ると、女子生徒は此方と目線を合わせないまま、呟くように言った。
「……それに 名乗る価値なんて、私にはないんです」
名前を聞いただけで、そんなセンチメンタルになられても困る。
…これはツッコミを募集しているのだろうか。それとも何かの比喩か?
「あのさあ、おたく――」
「――そこ、まだSHR前だぞ。なに勝手に出てるんだ」
生徒玄関前の廊下に声が響き渡って、俺は振り返った。
言うことは厳しいが、何処となく温かみのあるテノールだ。
振り返ると、長身の黒影が向こうに立っているのが目に入る。
誰何は階段を下りて曲がってきたらしい……目を細めて逆光が解けるのを待つと、穏やかな物腰が 俺の顔を見て驚いているのが分かった。
「左垣ちゃん」
馴染みの顔に、何故かほっとした。
「市原じゃないか。どうしたんだ、そんなところで……」
俺だと知って此方側に歩いてくる。そして向こうからもぱたぱたと駆けてくる足音が――
ん? 駆けてくる足音?
「ややっ!? そこに居るのはイチハラかっ!!?」
「………」
途端テンションが下がった。向こう側の階段を下りて曲がってやって来るのは、もう一人居た。
この見るからに暑苦しいマッチョでホリ深い不快な奴は……
「しっしかも隣で女子が泣いている! な、なにをやったんだイチハラぁ!?」
「あーハイハイ (見苦しい)右堂センセイもご一緒で……」
学校名物、ヒダリミギの凸凹コンビに遭遇するとは、ついているんだかいないんだか分からなかった。
解説すると、ヒダリが左垣ちゃん。俺の一年次のクラス担任だった和み系国語教師だ。
長身ではあるが まったく威圧感を感じさせない穏やかな物腰。30過ぎなのに まだ20代半ばの顔立ちが受けて、女子の密かな目の保養となっている。
「んんっ? 名前のマエに1秒間があいたようだが気のせいかっ」
「気のせいです気のせいですんでハイハイ」
で、通称ミギこと 右堂が、マッチョで色黒なのに何故か数学が担当の暑っ苦しい教師だ。何故左垣ちゃんが女子の「密かな」目の保養なのかといえば、それはこいつが居ることに由来する。この二人は、同期からか気が合うからか、ことあるごとに一緒に居るのだ。ヒダリと話せばミギもオマケについてくるせいで、いつしかヒダリミギコンビの名が学校内で定着するようになった。
さらに厄介なのは、右堂が自意識過剰なことだ。奴は、左垣ちゃん目当ての生徒は全部自分の所に来ていると勘違いしてるから始末に負えない。左垣ちゃんに 我慢できず声を掛けて、右堂に我慢できず倒れる女子が何人いたことか。
かくして、左垣ちゃんに話掛けられる生徒は、俺みたいに 暑っ苦しい奴に対処できる奴ぐらいしかいないのだった。
「で、どうしてイチハラはこんな場所に居るんだっ? まさかイタイケな女子にはれんちなことをっ…」
「そうだぞ、テストはまだ終わってないんだ、何があった……」
今の肯定が「はれんち」に掛かってたら思いっきり弁明したいところだが、会話の途中で左垣ちゃんは止めてしまった。
「……和谷?」
顔を背けている女子に気が付き、左垣ちゃんが洩らした名前。
つられて視線を合わせると、「和谷」と呼ばれた相手が、びくりと震えた。
…こいつ、左垣ちゃんがクラス担任か何かか?
「どうしてこんな所に……」
「具合が悪かったんです。保健室に居ました。すみません」
左垣ちゃんが言い終わるより早く、和谷と呼ばれた女子生徒は簡潔に答える。簡素、とも言えるものだったかもしれない。進んで目を合わせようとしない態度に、左垣ちゃんの目つきが、キッと鋭くなった。
「……和谷。謝られても、問題は解決しない」
……さ、左垣ちゃんが怒ってる!?
温和な左垣ちゃんらしからぬ声のトーンにビビったのは俺だ。
いつも通り落ち着いているが、棘がある。
「部のことにしたってそうだ。あれから皆と話し合ったのか」
――もっとも、その諭す目線はあさっての方向に向いていた。
言いあぐねながら 自身の猫っ毛を手で弄っていることもあり、悲しいかな左垣ちゃんの言い分は、ただの独り言っぽくなっていた。
ほわほわした柔らかい髪の毛が、長身ゆえ高い位置にある。
蛍光灯の下で天使の輪っかが出来てるくらいの 素晴らしいキューティクル。
台詞さえ聞いてれば、教師が生徒を諭してる名文になるのに……
「いったい何が不満なんだ。理由もなければ皆が困惑するだけだろう」
左垣ちゃんがため息をつく。生徒の意志を掴めきれない若手教師の図、ってとこだ。
とはいえ、実年齢30ちょいで、皆の信頼だってある左垣ちゃんが、生徒を前に悩んでるところを露呈するなんて、余程のことなんじゃないだろうか。
「部長だけじゃない、磯辺や九茂たちや、私だって心配して……」
いや、だから左垣ちゃん、三十度右に目線を向けて喋っても俺と目が合うだけだって…
……しょうがねぇなあ、ここは俺が止めるしか。
部外者が口を出すのもと思ったが、せめて左垣ちゃんの目線を女子生徒と合わせたかった。
「なあ左垣ちゃ…」
「左垣っ! みなまで女子に言わせるなっ、ワタシはすべて分かった!」
出遅れた……
一時でも奴に飛び出す猶予を与えてしまった……
「やっぱりイチハラに何かされたのだなっ か弱き女生徒よ!」
ぬっと現れた巨木は、俯いている女子生徒に手を伸ばす。
「案ずることはない、ワタシが来たからにはもう大丈夫だ! かくなる上はワタシがこの男子生徒に怒りの鉄槌を下してやるっ!」
なんかすっげー横暴なこと言われてるような気がする。
確実に私怨も混じってる気がする。
「あー、ストーップ 左垣ちゃんに(脳味噌まで筋肉の)右堂」
ぱんぱんと手を叩いて、俺は前に躍り出た(右堂じゃあるまいし実際には踊らない)。
「市原」
「左垣ちゃんらしくないと思うけど。ニコニコしてくれてないと調子狂う」
「……」
「俺が一度聞いとくから。そんでいいだろ?」
何か言いたそうな左垣ちゃんの隣で、ずずいっとのめり込んできたのはやっぱり奴だ。
「イチハラ、今ワタシの名を呼ぶ前にまた間があいたような気がしたがっ」
「へ? やだなあ気のせいすよ〜〜」
あ、こいつ呼び捨てにしたことまだ分かってない。
「ほっほ〜〜う、ならば話してもらおうか、お前が何故テスト中ここに居るのかをなっ!」
ズバーーンっ!とでも擬音出来そうな勢いで、人差し指を向けられた。
七面倒臭いことに気が付きやがった。少なくともこいつの追及からは逃れられたと思ったのだが。
「えー……実はかくかくしかじかで」
「そうか、そういうことがあったんだな! ……って、そんな便利な一昔前の用語が現代社会で通用するかぁーっ!!」
「あ、やっぱり?」
と笑って返しながら、俺はその場を駆け出す。
とっとと此処は退散すべし。言わずもがな、逃げるが「善し」!
ねちっこいミギにうだうだ言われちゃ解放時間がいつになることやら分からない。
「左垣ちゃん、悪い!とりあえずそいつ止めといてくれよ!」
傍を通り過ぎながら一気に喋る。そいつ、とはもちろんマッチョでホリ深い大木のことだ。
「オイ イチハラ! 話はまだ終わっとらんーーっ!」
短い悲鳴がまた上がるが、説明する時間が惜しいので 走れと促す。
張り上げるミギの声もなんのその、複雑な表情をしている左垣ちゃんへの罪悪感もなんのその、逃亡犯の細い手首を引っ張りながら その場を後にしていた。
<ぱあとふぉお 終了>