ぱあと41 GBGB!あすなろ抱きは危険です
「あ、あとどれくらいで着く……?」
車が赤信号で止まった。車内にウィンカーの音がカチカチ鳴って響いている。
野草原を駆け巡る駿馬の手綱を引けない同乗者は、ぜいぜい息を吐くしかなかった。
シートベルトを作った人は天才だ。本当に馬だったら俺はとっくに振り下ろされていた。
運転すると人が変わるという人間は少なからずいる。
うちのおふくろは典型的なスピード狂で、土日にしか運転しない週末ドライバーだ。 なのに、なぜか高級車乗り並みの神業テク(間一髪で事故を起こさない的な意味で)を持つ。きっと前世がF1ドライバーだったか暴れ馬乗りだったに違いない。
そんなおふくろの実態を忘れ、とっさに運搬の要請をしてしまった人物が、つまり俺だった。
「……おふくろ?」
先に訊いた質問の返答がなかった。気になって呼んでみる。
どうしたものかと首を曲げて運転席を見やると、おふくろは妙ににこにこして俺を見ていた。
この状況下でのはにかみ笑いは、ちょっと構えてしまう。
「な…なんだよ」
「あ、ううん、重ちゃんも大きくなったなあって。哀愁漂わせながらひとりごと言うくらいになるんだもの……そうよねぇ、もう出会った時から7年は経ってるんだから、当たり前よね」
どんなところで子供の成長を感じるのか、謎だ。
「しみじみすることか……?」
「ふふ~、だって重ちゃん、やっぱり貴さんの若い頃に似てるんだもの」
ビーーーンッ!
信号が青になって車が発進したのと同時に、俺の体はつんのめった。
何を言うかと思ったら、親父に似てるだあ?
冗談きつい。ていうか、なんでおふくろ息子相手にそんな照れてるんだよ。
「わたしは貴さんの若い頃って、写真でしか見たことないから。メガネを外したら昔はこんな感じだったのかな、学生の時に会ってたらどうだったのかな、って思っちゃったのよ」
「はあ……そっすか」
「なぁにその気のない返事はー! 夫にまだ恋してる妻でいちゃ悪い? まーったく、黙って楚々としてれば重ちゃんだってなんとか十人ちょい超の容姿になるかもならないかも……… はっ、気を落とさないでね重ちゃん! 確かニーチェだって言ってたもの、『若い頃からモテてきた男の想像力は犬以下だ』って!」
「非モテ男子のひがみにしか聞こえねぇよニーチェぇ!」
と、突っ込みどころ満載のおふくろ台詞を割愛し一喝したところではっとなる。
やいのやいのと騒いでいたが、今の急発進と度重なるハイスピードランナウェイで、後ろの一名は無事なんだろうか。横たえた体にシートベルトをしているとはいえ、さっきフロントミラーで後ろを確認した時は突っ伏して寝ているようだったが……ひょっとしたらつんのめって目を回して倒れてるんではなかろうか。
そろりと後ろを確認する。後頭部と背中が見えて、肩が上下に揺れていた。奴はいつの間にやら反転させて体勢を変えていたようだ。
……まだ死んではないってことか?
「ほーんと、重ちゃんは、性格が貴さんと真逆なんだから」
よく確かめようと身体を浮かした矢先、おふくろの声が飛んできた。
「面白いわよねぇー、貴さんは寡黙で勤勉、切れ者な人なのに。ああ、そういう意味では澄くんが貴さんと似てるかも知れないわ。外見が未環さん似かなとは、会った時から思ってたけど」
「母さんに?」
ふいに聞き覚えのある名前を出され、おふくろに視線を戻してしまう。
今ではごく当たり前に会話に出されるようになった名前。良いだけの思い出になり始めた記憶。
あいつが頑なに拒否し続ける由縁でもあり、覆ることのない、事実。
「……まあ、あいつはどっちかっていうと女顔だから。でも母さんは、あんな思考回路不明な奴じゃなかっただろ」
笑い飛ばしてみせたが、おふくろは答えなかった。目線はフロントガラスのさらに奥へ延びている。
少ない対向車が来るたびに、前を見続ける表情が暗闇で浮かび上がる。街路の蛍光灯の白さが、やけに際立って俺の視界に入る。
「ねぇ重ちゃん。澄くんと話してるとね、未環さんを思い出すの。澄くんはあんまり喜怒哀楽を顔に出さないでしょう? なのに、こちらの目は真正面から見てくる。だから自然に目が行くの。ああ未環さんと同じ色の瞳をしてるな、目線を逸らさないのは何故かな、わたしを見る目がいつも、」
「俺だって」
おふくろの科白を遮る意図はなかった。最後まで聞いてはいけない気がしただけだ。
車内がしんと静まり返る。速度を落とした車は、街燈がぽつぽつと点く住宅街を走っていく。
「俺だって、志珠は、おふくろの若い頃を見てる気がするぞ」
間が空いた。
ぷっと吹き出す声が聞こえる。「やだ、重ちゃんわたしの若い頃にでも会ったの?」と、おふくろはやっといつもの調子に戻って笑った。きっと出張の長旅でナイーブになっているんだろうと思った。だったら俺は、笑い飛ばしてやるまでだ。
「会わなくても分かるって。能天気なところなんかそっくりだもんな」
「もうー! 重ちゃんにだけは言われたくないっ」
ぺちっと平手が飛んでくる。前を向いているのに、何故にこんな的確に相手の腿まで届くのだろう。
「そういうもんだよ。……それだけだろ。遺伝子レベルなんて」
似てるとか、似てないとか、どうでもいい。 切り離せなくても、一生まとわり付いても、どうでもいい。
俺は、三人兄妹で、五人家族で、平凡な家庭で、日常を何不自由なく暮らしている。
こないだからちょっとばかし非日常が始まった以外を除けば、呑気にやってるだけなのだ。
『あのね、おねがいしてたの。おうちがもっとあったかくなったらいいなって。
そしたらみんながきてくれた。すっごく、すっごく、うれしかった!』
ふと、そんな台詞が頭に浮かんだ。
まだ舌っ足らずだった頃の、妹が言った言葉だ。突然兄ふたりができてどんなにか不安だっただろうに、妹は嬉しいと答えた。語彙も豊富でない年齢ゆえにシンプルな言葉。それだけに、あの時の妹の言葉は俺の中で大きく広がった。
お願い。ああ、前にもそんな文言を聞いた気がする。
『おれは百パーセント相手に理解してもらおうなんて、思ってないよ。人が人の真意を知って行動したら、それは結局同情にしかならない。けれどこれは――そう、お願いってことになるかな。師匠とも取引したから、父さんとちとせさんは問題ないだろうけど……志珠だけはきっと納得しないだろ? おれはあの押しに弱いからさ、口裏合わせて欲しいんだ』
妹のそれとは対照的に、弟の科白はひどく世の中を見透かしている言い分だった。
百パーセント相手に理解してもらえるなんて、まずありえない。
同感だ。それは俺もどっかの慇懃無礼な下級生に諭すくらい理解している。
だが真意?同情? 言うだけ言って、それで俺が納得するとも思うのか。
肝心なことは何一つ喋ろうとしないくせに、被害者面か?
ふざけんな、お前。
いつもいつも自分が言いたいことだけ言って勝手に消えて、妹とおふくろと親父がどんなに心配しているか知ってても無視しやがって、そのくせ自己憐憫で諦めきった面見せやがって、だから俺は連鎖で――こんなことまで――どうでもいいことまで―――
「――それだけ、か。すごいこと簡単に言い切っちゃうんだから、このコは、もう」
おふくろのしなやかな声音を聞いて、やっと俺は元に戻れる。
横顔を見ようとしたのに、おふくろは此方を向いていた。ちょうど向かいの車がライトを照らしながら通り過ぎる時で、おふくろの顔をほんのり照らして去っていく。その間、俺は 眩しそうに、どこか懐かしそうに若干目を細めて笑っている姿を、始終見ることになった。
実際に目が合ったのは二秒もかからない僅かな時間だ。だが、よその年上の女の人に見つめられているような気がしてしまい、胸がざわついた。
「前にトマさんが言ってた重ちゃんの『強み』っていうのが、分かった気がするわ。そうねぇ。わたしも少し、視野を広くしてみようかしら。重ちゃんみたいに物事を素通りしてれば、前向きになれるわよねー」
「………」
前言撤回。おふくろはどこまでも軽口を叩ける母親だった。
よく分からんが、これは褒められたのか貶されたのか。
「さぁ、もうお店に着くわよ。ナビなしで来れちゃうんだから、わたしって天才かしら」
「……要は設定めんどくさかっただけだろ」
「あらなーに? 誤解云々で悩むくらい発展してない間柄のくせして~」
「だからな、和谷とは別にそんなんじゃ……」
「わたしの息子は、人に不快な思いをさせたら 何か行動を起こしてくれるはずなんだけどなあ?」
人を花に例えることがある。
俺の母さんは記憶の中でいつも微笑んでいた。トマいわく、水仙のような凛とした人物だったらしい。性格を表すと、俺の能天気さを明るさにして人望を足して二で割ったような人だったという。昔は素直にふーんと頷いたものだが、今考えると何気にこれはひどい。
「それともどこかの誰かさんは、誤解なんて時が解決する~なんて甘っちょろいことでも思ってるのかしら?」
そしてまたこのおふくろも、いたずらする前の子供のように笑っている。
つまるところ、俺の母親はふたりとも、笑顔だということ。
「……思ってねぇよ」
昔のトマがおふくろも花に例えていたことを思い出した。
夏に大きく開く、艶やかで確固たる一輪。
ちとせさんは――向日葵だな、と。
「うん。それでこそわたしの自慢の息子ね」
そうしてデミヲ車は、以前来た 瓦屋根の店の前――おふくろの行きつけでもあり、和谷の下宿先の和菓子屋でもある『夕凪』に到着した。
<ぱあとふぉおてぃわん 終了>