ぱあと39 市原家の(実質)最高幹部
「さが…き…先生……」
咄嗟に手を離していた。
――左垣先生?
見知った名前を聞いて驚いた。
演劇部顧問、通称ヒダリミギコンビのヒダリこと左垣ちゃんの名前を……こいつは今うわごとで呟かなかったか?
俺の疑問に答えるかのように、和谷の口が動く。
「お願いだから……、 せんせい……」
誰に、何を懇願している?
お願いだから、どうしろと?
『――“あの”後、大丈夫だったか』
唐突に また昨日の左垣ちゃんがリフレインした。
テスト前に背後から呼びかけられた一言。声を掛けたのはそっちなのに、左垣ちゃんは俺の顔を見て、一瞬たじろいだのだ。
まるで俺に訊いたことが、自分自身でも予想外、とでもいう表情で――
「『面白い奴だよ』って、誰が?」
絶妙なタイミングで、ぽむと肩を軽く叩かれた。
「ぎゃあああああああああっ」
あああっああっあぁっと夜の通りにエコーが響く。そのまま飛翔するかの如く俺の心臓は高く跳ね上がった。
「な、ななななななな……」
……どうしてだ!? 気配がまったく感じられなかった!
ドッドッドッと凄まじく鳴る鼓動を押さえつけながら、俺は振り返る。
そこにはシンプルなカーディガンに茶色のチノパン、いかにもな部屋着の女性が、かんらかんらと笑っていた。
ああ、こーんな登場の仕方をしてくるのは、もちろん……
「ご挨拶ねぇ、重ちゃん。呼び寄せたのはそっちでしょ?」
市原家の実質最高幹部。もとい、俺がおふくろと呼ぶ人物だった。
でびるにお願いっ! ぱあとさあてぃないん
「おおおお おふくろ……」
鳴り止まない鼓動を抑えつつ、かろうじて第三者の呼称を口にする。
ベンチに腰掛ける俺と和谷を覗き見、しゃがみ込む妙齢の女性。
喫茶店のトマ以外にも玄人はいた。
女だてらにロハス雑誌の副編集長に登りつめた割には、アウトドアに興味がない御年〓この数字はログアウトしました〓才。
後ろ姿ハタチみたいと言われてあら前姿もでしょ?とさらりと返すツワモノだ。
……そそそそれにしても いったい何処から!
まったく気配が感じ取れなかった俺は、内心の科白さえどもってしまった。
というか、よく考えてみろ。おふくろはいつからそこに居たんだ。ケータイで呼び出したのは俺だが、和谷を降ろした時は、あたりに誰も居なかったはず。
とすると、俺がホホを染めてたとかぶんぶん手を振り回して否定してたとか、和谷が寝言言ってたとか俺が指を伸ばしていたとか――
いやいやいや 即座に指を離したからその現場まで見られてはいまい!
「一応道路の反対側から声を掛けたんだけど。気付かなかったみたいだから、車降りてベンチの裏側に回ってみたの」
「なーんだそっかあー」
「なのに重ちゃんはふっと微笑みながらモノローグ?」
「………」
しっかり見られていた。
「それに知り合いの後輩っていうから車飛ばして来てみれば……よそ様のお嬢さんよね、このコ?」
ああ心なしか言葉が棘々しているような糾弾されているような。
「制服にもそんな鍵裂き作って……この状況は一体どういうことかしら?」
恐ろしいことに、俺の制服の肩口に作った傷もあざとく見つけて疑惑対象としている。
にっこり笑顔が怖い。おふくろが疑問符をつけて話す時は、冷徹な怒りを含んでいるというサインだ。
咳払いをした俺は、なんとかして説明しようとする。
「おふくろ、あのな、これにはチャレンジャー海淵よりも深いワケが」
「ふぅ~ん? 世界最深よりも深い理由があるっていうのね?」
……俺の艱難辛苦をイチからすべて報告して差し上げたい。
正直に報告したところで ますます俺の立場が悪くなりそうなのはわかっている。
なのでああとかうんとか濁した一言で返す他ないのだが、「へーぇ、そうなの」と微笑みを絶やさず黙られたままなので、何故か後ろめたくなって顔が引きつってしまった。
この静かな咎め方が物凄く怖い。ぶっちゃけ、目が笑ってない仕様のおふくろは、親父よりも恐ろしい。
「はいどうぞ、重ちゃん?」
「……その。具合悪いの気付けなくて、色々連れまわしてたらぶっ倒れた」
で、すぐにおふくろの追求凝視&自白促しに負けてしまった俺がいた。
出張帰りの疲れた体で来てくれたのだ。嘘はつけないし、出迎えてくれてほっとした。
それ以上突っ込まれたら何をどう話そうか――気合で目は逸らすまいと頑張った結果、顔を引きつらせる息子の様子を見て、どういう風に解釈してくれたのか。
おふくろはベンチに近寄ると、おもむろに和谷と俺の荷物を持ち上げる。
「重ちゃん、そのコの家は分かるのよね?」
思考回路がうまく働かず、瞬きを数回繰り返してしまう。氷雨を降らさんばかりの笑みはどこにもない。
「ココで尋問しても始まらないでしょ。すぐに送り届けるんだから、後ろに乗せなさい。で、ドコに行けばいいの?」
相変わらずうちのおふくろはサバサバしていた。
「あ、ああ」
脳内を一瞬、「テヘッ☆」とピースサインのゴスロリッ子の姿が掠めていったが、すぐに追い出す。
ここで和谷を家に連れて行けば、当事者のルイアントーゼと会わせることが出来るかもしれない。が、よくよく考えてみれば、不法侵入に突撃訪問やらかしていたら、おふくろが何か言ってきてるんじゃないだろうか。聞いて深く突っ込まれるのは避けたい。
第一、おふくろの言う通り、ここは和谷を送り届けた方がいいんだろうし。
「とりあえず、隣駅の商店街まで走ってくれ」
後は勘で進むつもりだ、との弁は留めておいた。
和谷の家へは昼間の道を一度通っただけだが、商店街を進んだ先からはそんな複雑じゃなかったはずだ。車のナビもあることだし、公園を通って、住宅街を抜ければ分かる、と思う。
――もし迷ったら叩き起こして聞くと決めた。
「ふふふ、了解~♪」
にまにま笑っていたと思うのは気のせいだろうか。
道路向かい側の車に向かって歩き出すおふくろ。なぜだか弁解したい気持ちに駆られたが、指示され、眠る和谷をひとまず車に移動した。
愛車はマツドのデミヲ、1498cc排気量の赤色ミニバンだ。後部座席に寝かす作業を終えて補助席に乗り込む。おふくろも 持ってきたタオルで和谷の顔を軽く拭くと、遅れて運転席に乗ってきた。
「ちょっと微熱があるみたいね。睡眠不足とか立ちくらみとかも関係してるのかも知れないわ」
「ああ、やっぱり」
こいつの手を握った時、疑問に思ったのは間違いじゃなかった。
すべての女子がぬくい体温でいるわけではない。遭遇した初日、和谷の手はひんやりと冷たかった。それが喫茶店を出る際、連れ出したこいつの手は温かくて、妙だなと思っていたのだ。
俺の言い分が能天気に映ったのか。シートベルトを締めつつ、おふくろは「あのねぇ重ちゃん」と釘を刺した。
「なんで体調の悪いコを連れまわしたの? それに、わたしを待ってる間に制服の一枚や二枚、掛けておけたでしょう」
「……あー… それはポーカーフェイスにやられたというかなんというか……」
「気付いてあげなきゃダメじゃない。このコ、女のコなんだから」
「………へっ?」
指摘されて戸惑う。女の子……誰が。俺が。いや和谷が。
ふと自分の手のひらが目に入る。開いて眺めてみると、奴を負ぶっていた感覚が戻ってきた。さっきまでさっきまで背中や手に当たっていた柔い感触が、妙に生々しい。
「重ちゃん?」
「…女の子……」
いまさらながら気づいた。
後ろの座席で寝ている奴は――紛れもなく『女子』だ。
「……あ、いや、わかってた、うん。わかってたんだけど、わかっちゃいけないっつーか、気付いたら元も子もないっつーかやりにくいっつーか……」
自分の体温が上昇していく気がして、抑止力とするべくぶつぶつ呟いてしまう。
女子だと解った、と言うには語弊がある。女子だと理解していたが、下僕だなんだの始まりで、もっと違う次元の生き物という感覚で接していたからだ。目からウロコだと言うべきか。
第一、初対面があんなような状態で、女子だとすっぱり離して考えていた。負ぶった時には思わなかったのに、おふくろに言われた後で悟るのもおかしな話だ。
「どうしたの 重ちゃん、顔赤くして余裕のない顔しちゃって」
「赤……っ なんでもねえよ! 早く出してくれっ」
見透かされてる気がして促した。俺の態度が面白かったのか、キーを差し込み、おふくろはまたもやニヤニヤ笑う。「ふぅ~~~ん?」と、明らかにからかう口調だ。「でもまさか、重ちゃんが女の子と一緒に居るとは考えなかったわぁ。やっぱりね、ときめきメモれる思春期だものねぇ…… ――はっ!?」
キーを景気良く右方向に捻る。連動して、ズギャン!とエンジンが勢いよく掛かった。
「お、おふくろっ!?」
唸る愛車。おふくろを制止するより先に、俺はシートベルトをがっちり締めていた。
なぜなら、この愛車のキーを回したとき、おふくろは……
「まさかストーカーやらかして こんなになるまで追い回したとかじゃないわよね!?」
「いやそれはありえねえ」
「誰かから奪ってきたんなら逃げ切りなさい!重ちゃんガチの経験ないんだから!」
「あーすいませんねガチンコ対決もしたことないひ弱な息子で!」
「そうと決まればクルマ転がすわね!」
「逃亡決定!?」
……文字通り 暴走する危険性を秘めていた!
「おふくろ! 前!前!」
「しっかりつかまってなさい! エンジン全開フルスロットルで駆け抜けるわー♪」
のっけからアクセル全開、湾岸道路もとい国道を駆けていく赤い弾丸の如き愛車。
トラック野郎が突っ走る広道を、一台の国産車がズンギュンギュンと追い抜いていく。
「おふくろ! スピード!スピード!」
「わたしのドラフトテクに ついてきやがりなさ~いっ」
「つーかこれ AT限定車だろおおおおーーー!!?」
俺の叫びは彼方へ消えた。
<ぱあとさあてぃないん 終了>