ぱあと38 黙っていればの和谷さんに
……厄日だ。どう考えても厄日だ。
四丁目の近隣センターが奥に見えている、夜の歩道。
眠った人間かついで、心身ともにヘロヘロになっている俺がいた。
どかーんぐわしゃあっという擬音がしたと思ったら、断末魔は聞こえてくるわ住民の怒りを買ってこっちだけ怒られるわで、さっきは散々な目に遭った。
元凶は ですわを連発するベリーショート《おかっぱ》和風小娘と、ありえないを連発するポニテ小娘。
丁寧に謝ってくると見せかけ、ふたり揃って逃亡ときたもんだ。
「お、俺のほうがありえねぇよ……」
ひとりごちるが、聞いてくれる存在は背中の人間を含め、皆無だった。
夜の小道は点いた街灯がちろちろと揺れている。
さっき中学生が乱入してきた住宅街は、おかしなことに家の生活音が全くなく、車でさえ一台も通らなかったのだが――ここの小道は時折サラリーマンが通り、車が横切ってヘッドライトを浴びせてきた。住宅街も時間帯によるのだろうか。
正確な時刻を知りたかったが、生憎ケータイは俺の鞄の中だ。負ぶっているので手の自由が利かない。
さてどうしたものかと歩きながら思っていると、背中で寝ている和谷がもぞりと動いた。カチャリと金属音――眼鏡の金具が揺れる音がして、微かな苦痛の声が届く。
「……ぅ、あ……っ」
気絶の状態から寝入っただけだと思っていたが。まさか容態が悪化してしまったか?
「おい、和谷?」
足を止め、一応首を曲げて和谷に問いかける。
すると、奴は悪夢にうなされた際の寝言の如く、呟いた。
「…汗くさい……」
「………」
……あー悪かったな男はみんな汗臭い生き物なんだよ!!
でびるにお願いっ! ぱあとさあてぃえいと
「ぅよっこらせ……っ」
適当に見つけたベンチの前で腰を屈め、後ろ手を解いた。
ひとまず様子を見ようとして、和谷を降ろす。手を離した途端、腕がじんと痺れた。
ずっと和谷を負ぶっていたからか、手の感覚が麻痺していたらしい。
あの大変な状況から逃れるのに必死になっていたせいで、感覚を失くしていたことに気付かなかった。
手のひらを握っては開くと、腕の中に血液が流れていくのが分かる。
図らずもそれは、あのポニーテールの少女が別れ際に繰り返していた行為。思い返すと、言わずにはいられなかった。
「……あれ現実、だよな…」
やかましい 女子中学生らしきセーラー服の二人組。
女性の悲鳴が響いたあの暗闇で、二人は何をやっていたのか。出てきて俺に何を投げつけてきたのか。
――詳細な答えは分からずとも、現実に起こったのだと、この切れた肩の制服と、頬で乾いた血の跡が物語っている。
なんにせよ、和谷に異常は見られない。
目の前でぶっ倒れた時は驚いたが、ここまで波乱万丈な目に遭ってきても背中ですうすう寝てたし、伝わってくる体温がやや熱かっただけで、素人目だがそこまで大事には至っていないだろう。
……ん? 伝わってくる体温……?
そこで気付く。
そういえば俺は和谷を負ぶってここまで来たのだった。
言葉で書くとさらりと流せるが、具体的には、安定定感を保つために 背中に和谷の体重が掛かるようにして密着した。脚を開かせて腕の間に通した。歩くためには和谷の身体を支える必要があって、つまりスカートの上から脚の付け根に手を回して重みを一身に受けるしかない。
これが人を背負う時の正しいやり方だ。
間違ったことはしていない、が。
そうすると和谷の感触が全部俺の背中に当たってきたということになる。
俺の耳のすぐそばで和谷の寝息が聞こえてきたこともあったし、手でスカートごと持ち上げたということは、要するに……
「ぎゃーーーーーーーッ!!」
思いっきりベンチを立ち上がる。夜の公園に響くは俺の発声。歩いていたサラリーマンがビクッとしながら目の前を通り過ぎた。
……いやいやいや 何いまさら赤くなってんだよ俺は。ただ人間ひとり抱えてきただけだろ?
今までだって縁日の帰りに妹を負ぶったり、道端のばーさん負ぶったりしてきたじゃんか。
こーんな火種発言をぶちかましていく危険度高の毒舌一年生に動揺するわけが……
「う……うぅん……」
ベンチに身を預けている和谷が寝言を呟く。
小さく口を開けて、穏やかに目を瞑っているその表情は、さすがまあマキシ先輩が演劇の主役に抜擢しただけあるなと思った。眼鏡を取ればそれなりに舞台映りがよくなるんだろう。ひょっとして舞台に上がるときは眼鏡を外すんだろうか。寝ているだけならこんなに危険度低いのに、まったくこいつは――
……はぅあッ!?
と、半開きになっている唇を凝視していた自分に気付いて――俺は一人で唸った。
「だからなんで俺が赤面しなきゃなんねんだよ、こんちくしょーっ!」
手を振り回し再度否定。通り掛かった車の運転手が、恐る恐るこちらを見て去っていった。
「そんなこと…言わないで……」
「ほわっ!?」
予期せぬ声に動作を止める。大声を出していたということに今気付いた。起こしてしまっただろうか。咄嗟に見やったが、和谷は動かない。
「……笑わないで… 決め付けないで……」
そのかわり、きゅっと目を閉じて、眉根を寄せていた。寝言にしては、苦しげな声だ。
悪夢でも見てるのか。言いたくないが、俺の汗の匂いが引き金でとか。
だが、和谷の呟きはなおも続いていた。
「優しく…しないで… お願いだか…ら…」
優しくしてほしい、ほんとうは解って欲しい。……そう聞こえたのは、俺だけだろうか。
『い、市原重さん!』
今日の午後、保健室を出て行こうとした時のことを思い出す。
部員の九茂に連行されてマキシ先輩と磯辺が居ない部屋。
「和谷トキ☆奪大作戦第二弾」決行を託された俺を呼び止めたのは 保健委員で演劇部書記でマキシマム会長兼生徒会長の織枝さんだった。
『あの……っ、あの、わたし、磯辺さんに聞きましたからっ!』
で、目をギュッと瞑って一代決心!ってな様子で俺に宣言。
『和谷さんとそんな過去があったなんて……』と沈痛な面持ちで、かつ『おふたりのわだかまりがなくなるよう祈ってますね!』とか極上の笑みを向けられた。
どんな説明を施したのか、後日、磯辺を問い詰めなければ。
『その……わたしたち、きっと和谷さんを追い詰めてたんだと思います』
その笑みが翳った。織枝さんは言いよどみ、二呼吸置いて先を綴る。
『だって、和谷さんが本当にやりたかったことは……演劇と別物の、音響なんですから』
『……音響?』
予想しなかった言葉を聞いて、鸚鵡返ししてしまった。
織枝さんはまとめて話してくれた。和谷が元々地元の近隣センターの児童館に入っていたこと。幼稚園児から大人の方がボランティアでチャリティー劇をしていたということ。その児童館は名が知られていて、無償にもかかわらず近くの県から子役のオーディション志望者が集まるということ。
『3月はじめの話です。市の公民館で、その児童館のチャリティー劇があったんですよ』
かねてから興味のあった織枝さんは、マキシ部長も含めた演劇部数人で、公演を見に行ったらしい。そこで目の当たりにしたのが、和谷の演技だった。
『和谷さんは主役として出ていました。伸びやかで、声も溌剌としていて、わたしもユーくんも磯辺さんも、すごく印象に残ったんです。あんな子が部に入ってくれたらいいね、って話してて……。だから4月の演劇部オリエンテーションで和谷さんの姿を見たとき、ほんとうに嬉しかった。和谷さんも演劇をやりたくて入ってくれたんだ、って。――…でも、実際は違いました』
磯辺脚本の主役とイメージがぴったりで、和谷は今回の主役に大抜擢された。
だが、今回の主役を部内で発表したとき、和谷は複雑な表情を見せた。
判明したのが、織枝さんたちが見に行った回だけ、和谷が代役で主役を演じていたということ。
和谷は元々劇では音響を担当していて、高校の演劇部に入ったのも、舞台裏をサポートする音響をやりたくて入った。
新入生が主役をやるという決定に、部内に変な空気が流れたのも否めないだろう。
『代役として一回出ていた和谷さんを、わたしたちが、むやみに担ぎ上げてしまったんです』
織枝さんが自らを叱責するように俯いた。
何か言わないと、とあたふたする俺に、顔を上げて、ふっと微笑んでくれた。口元は緩やかなカーブを描いているのに、眼差しは誰かを慈しむ笑い方だった。
『それでもわたしは、もう一度、彼女の演技を見てみたい。そう思うのは……エゴでしょうか』
『和谷。謝られても問題は解決しない。あれから、皆と話し合ったのか』
初日、保健室を飛び出て行った和谷を追った時。出会った左垣ちゃんが、和谷にそんな苦言を呈していたのを思い出す。
『いったい何が不満なんだ。理由もなければ皆が困惑するだけだろう?』
今にして考えれば、和谷は演劇部内の変な空気や重圧を感じ取っていたのだろう。
恐らく唐突に『主役を降板させてください』とでも言いに行ったか、『部活辞めます』とでも直談判しに行ったか。
マキシ先輩や織枝さんは勘付いていたが、顧問の左垣ちゃんに話が回っていたと考えにくい。
だからあの時の左垣ちゃんは理由が分からなくてイライラしていて、和谷も進んで目を合わせようとしなかったわけだ。
俺には『あの! やめてもらえませんか、第一印象で物事決めるの!』なんて玄人が獣を仕留めるべく掌で打つ拳を打ってきて、『迷惑してるんです。こっちだって好きでこんな大人しそうな容姿に生まれてきたんじゃありません!』とキレたくせに、部員や顧問に腹を割って話そうとしない。
――いや。
そこまで思考回路を繋げていって、俺は否定した。
……それこそなに言ってんだ、俺。こいつ、ちゃんと…行動してたじゃんか。
数々の所業にどんな理由があったのか、俺は今日一日で知っていた。
熱を出して早退しても、懸命にメールを打って送っていた。
俺になんやかんや挑発されても、体調悪いくせに無理してきっちり話をつけそうとした。
自分家の煎餅を部活の奴らに持って行こうとしていたのは明らかで、早退しなければ、今日こいつは話をしようとしていた。
――結果、メールは大変素っ気無い短文として織枝さんの元に届き、挑発した俺についてきたせいでこの有様になり、部員と話すこともままならない放課後に終わったが。
「……ったく…… 誤解解こうとして空回ってんじゃ、意味ねぇっての」
人の苦しげな表情を見ているのに、苦笑いが起こるのは不思議だった。
大人しい外見で敬語口調かと思えば、肝っ玉の据わった持ち主で。
皮肉屋で毒舌家で、かと思えば家では自然体でハキハキしていて。
どんな奴なんだよと店の帰り道に混乱したこともあったが、今なら解る。
それがこいつなのだ。
変な敬語中坊につきまとわれても動じなかったり、コーヒーにむせる俺を気遣ったり、菓子折りを言及すれば慌てふためいてしまったりするのも含めて、疑問に思うことはない、こいつはそんな一面も見せる奴だったのだ。
今日一日の珍道中っぷりが妙に笑えた。……こんな風にぶっ倒れたのは、俺のせいでもあるのだが。
相手の頬が、電灯の青白い灯の下に晒されている。
「……ホント、面白い奴だよ、おたく」
思わず指を伸ばす。指先が、反して 温かく柔らかい肌に触れた。
<ぱあとさあてぃえいと 終了>