ぱあと8 試験は期末とワンセット
「どうした市原? もうすぐ点呼が始まるぞ」
教室の戸をよろよろと開けて入ってきた俺を見かねて、声を掛けてきたのは 左垣ちゃんだった。
今日も自前キューティクルが長身の髪に輝いている。黒板にタイムスケジュールを書き終え、チョークを置いた。
1 古典 2 物理 3 地学 4 数学B ……見事に理数に偏っている日程だ。
俺の学校では、テスト日程の場合、一時間目の試験監督が朝のSHRを執り行う。一時間目の試験監督は、どうやら左垣ちゃんらしい。
「あー……おはよう左垣ちゃん」
対する俺は、騒然とする場から即逃げて、二学年の廊下にやっとのことで帰ってきたところだ。精神と肉体が今から疲れ果ててしまい、さぞかし哀愁が漂っていたことだろう。
気付けばSHRまであと一、二分を切った時間だった。さらば俺の朝勉強タイム。
「一夜漬けで疲れたんじゃねーの? 市原ァ」
試験用に出席番号順になった一番前の席からも 声が掛かった。このからかい口調は……やっぱり森本か。
コンビ二で出会った時とは一転、金髪をピンで留めてデコを出し、眼鏡を掛けている。数人のクラスメイトが取り囲み、一緒に要点を話し合っていた。
この……俺がどんな目に遭ってきたかも知らずに、暢気にヤマ話し合いやがって…!
だが ぜーはーと息を切らしているせいで、言い返すことも出来なかった。
「一夜漬けじゃなくて、朝漬けってとこだったりしてね」
「おっ、佐々木、いいこと言うなァ」
「だーってイチハラ見てれば分かるでしょ? 真面目にやってるとこ想像つかない」
「言えてる!」
くそう、横からテニス部を筆頭に 女子もイジリ会話に参加しやがって。
「あのなあお前ら、俺が今どんな目に遭ってたか分からないだ……」
「……あ、眞喜志部長の唇に頬を擦り付けたケダモノだ…」
「ろ……」
やっぱり どこから話を聞いてたのか、ジミーな九茂が通り抜けざまに頓珍漢なことを呟く。すかさず俺は「根も葉もない噂は却下だから」と返した。…ずいぶん捻じ曲がってはいるが、事実だ。一体何処から話が来たのか、噂が回るのは早い。
とりあえず神出鬼没な奴は後回しにしよう。そして口止めをしておこう。
「…なんだ、市原は一夜漬けで疲れたのか?」
密かに決意した俺の様子を、そんなように解釈した左垣ちゃんは、アドバイスをしてくれた。
「意気自如、Never mind、つまり分かりやすく言えばドンマイだよ市原。試験は期末もあるんだ」
……明日もあるのに今から期末で挽回しろなんて言わないでくれ。
「それに人間、生きてく上で試験は付き物だぞ? 学校、就職、資格で試験がわんさか続く」
……気鬱になるようなこと言わないでくれ。
にこやかに助言する この国語教師は正直者だった。
と、からんからーんと間抜けな鐘音がスピーカーから鳴る。自席に着こうと教壇を離れた矢先、後ろから声が掛かった。
「あの後――大丈夫だったか」
短い一言でも 俺に話しかけているのは分かった。あの後? 質問を鸚鵡返しにせずとも振り返る。
声を掛けたのはそっちなのに、当の話しかけてきた相手は、俺の顔を見て一瞬、たじろぐ。
「あ、いや、たいしたことじゃないんだ。……やっぱりちょっと、気になってな」
今のは 話しかけたんじゃなく、独り言だったのだろうか。
左垣ちゃんがいつもの柔和な笑みに戻った。出席簿を手に取ると、自席に着くよう俺を促す。
「さて、皆も知ってると思う。昨日、部外者が試験中に放送室に入り込み、放送ジャックを行っていた。幸い、中断する等の大きな混乱はなかったが――」
SHRが始まる。出席確認の前に、左垣ちゃんが昨日の一件について簡単に話し始めた。話すところを見る限り、左垣ちゃんは至ってフツーだ。教壇に立ち、生徒全員を見渡しながら抑揚を付けて進めていく。
「――学校側は 壊された保健室のレールとも関連性を調べて、警察に報告する予定だ。詳しい説明は帰りのSHRでプリントを配るから、親御さんに必ず見せるように」
けれど、うろたえてぽろっとこぼした、『あの後』という言葉。何を言わんとしているのか分かった。
左垣ちゃんは、演劇部の顧問だ。昨日 俺の主人になったとかいう奴は――演劇部の生徒だ。
「じゃ、出欠取るぞ。相沢 弓枝。赤坂 正弥……」
あ行から始まり、いで始まる俺の名前も早々に呼ばれる。
出欠のやり取りを聞きながら考えていた。あの二人のやりとり。少なくとも左垣ちゃんは、あの女子生徒、和谷のことを心配しているんじゃないか。対し、和谷は自分のことで精一杯の様子だった。事情は分からないが、このままだと平行線をたどる一方だ。
「――関 周那」
その名前を聞いたところで、誰も返事をしないことに気付いた。
斜め後ろの席には、いつも居るはずのクラスメイトが居なかった。
「これからテスト用紙を配る。机の上にあるものは筆記用具以外鞄に入れて、机から手を離して」
左垣ちゃんのこの鶴の一言で、クラス中がいよいよという雰囲気になった。
一時間目は古典と漢文。しんと静まり返った中、左垣ちゃんが一枚一枚テスト用紙を机で置いておく音だけ聞こえてくる。
目を瞑りながら、俺は今朝のマキシ先輩のことを考えた。元はといえば、先輩のおかげで 俺は貴重な朝時間を潰され、テスト勉強らしいことも出来ないままぶっつけ本番になったのだ。
たったったっ……
……くそう、森本も一夜漬けとか言いやがって。佐々木も朝漬けとはイジリもいいとこだ。
まあ、どっちにしろ付け焼刃に変わりない勉強量だから淋しい。
たったったった……
……ん? なんだこの音?
空しい思考と場の静寂は、廊下で軽快に鳴る靴音と 扉の音によって破られた。
「――すみません遅れました!」
驚いた一同が目を開けて出迎える。教室の扉を勢いよく開けて飛び込んできたのは、陸上部の関だった。
通りでリズムカルな音が聞こえてきたわけだ。
「関。わけは後で聞くから、とりあえず座って準備しなさい」
長距離の選手だからだろうか。関は息切れひとつしていなかった。
左垣ちゃんの指示を受け、一礼してから席に向かう。
俺もわりとギリで教室に着いたが、その上のギリが居るとは思わなかった。
間に合ってよかったな。
関が机の隣を通る時、目配せで軽く合図してやった。相手は苦笑いを浮かべて通り過ぎる。 何か違和感があったが、それに気付く前に、関は左斜め後ろの席に着いた。
鞄から筆記用具を取り出す音。ただ一人の固有音が聞こえ、それから教室はまた静かになる。
かららーん……かららーん…
電子音の鐘が鳴った。武芸の試合の時のような 左垣ちゃんの言い放つ声が、それに被さる。
「――はじめ!」
<ぱあとえいと 終了>