悪魔襲来ーー虚飾の悪魔【ベリト】①
二話目から主人公サイドの登場ゼロってどないなっとんねん。
微かな照明が薄暗く照らす部屋の中に四人の男が向かい合って座っている。彼らの視線は金盤の上を円を描きながら巡回する白い玉に注がれていた。
男の一人、フレデリック・サウザーは蓄えた顎髭を撫でるように口元を隠して、金盤の16という数字を睨む。それは彼が最も賭けたした数字であり、彼の長年の直感が、ここにくると並々ならぬ予感を感じている運命的な数字だった。
博打に運命などと非科学的なことを言うフレデリックをせせら笑う輩はどこにいても一定数存在した。 だが、彼が今日までその馬鹿馬鹿しいポリシーを貫いてこれたのは、彼自身の証明と、冷笑した科学的な民衆の末路を知っているからだった。
自分はラッキーマンだ。運命に導かれている――勝ち上がってきた矜持が、積み上げてきた経験が、そんな根拠のない自信と最良の選択を導き出していた。
ルーレットの回転が緩まり、白い玉が音もなく赤のポケットに収まる。その瞬間、フレデリックは机の下で小さくこぶしを握り締めた。玉はフレデリックの狙い通り、16の数字に収まった。ずっと見続けていたんだ。見間違いようがない。
未だ回るルーレットを見ながら、フレデリックは勝利の余韻に浸っていた。掛け金も配当もない、仲間内のお遊びだが、それでも賭けに勝つというのは気持ちがいいものだと悦に浸る。しかし、次の瞬間、その相貌が崩れた。ルーレットが止まった時、ポケットに収まっていたのは赤の18であった。
「イカサマだ」
フレデリックの荒げた声に、一瞬、賭場は凍り付いた。
それは、頭の片隅に押し込めた正論が突然外部から振りかざされた時の、臆病になりながら後に続く心の準備をしている沈黙だった。
この時ルーレットを囲んでいた参加者は、フレデリックの「イカサマ」という抗議がイタズラでも負け惜しみでもないと理解していた。
「……ああ、フレデリックの言う通りだ。これは間違いなく赤の16にあった。俺はずっと18の隣の19を見ていたんだ。そこから三つ離れたポケットにハマったんだから間違いない」
「俺も同意見だ。玉は間違いなく赤の16のポケットに入っていた。俺の目の良さは知っているだろ?」
神妙な表情を浮かべていた二人の同席者はそう言って、フレデリックに同調する言葉をかけた。
三人の視線は残ったただ一人に注がれており、それを嘲笑うように、ダリル・メイスンは不遜な表情を貼り付けて、くつくつと押し殺した笑い声を漏らしていた。
「おやおや、どうしたんだい御三方揃って俺を見つめて。まるで俺がイカサマをしたと決めつけているようではないか」
「そう言ったつもりだが、口でハッキリ言わなければわからなかったか? マヌケ?」
挑発するように、フレデリックは顎でダリルを指しながら言う。不敵な笑みで包まれた彼の表情が、微かに怒りの色を孕んだ。
「……口の利き方には気を付けてもらおうか、フレデリック・サウザー。それほど疑うなら、証拠の一つでも出してもらおうじゃないか?」
そう言って、ダリルはフレデリックを指で指し、挑発し返した。
フレデリックはダリルの人差し指で妖し気に光る金の指輪を睨みながら席を立ちあがり、卓上にある一口も飲まれていないチェイサーの水で手のひらを濡らした。
それから彼はルーレットに近寄り、濡れた指で赤の18のスポットをこすると、まるでオブラートが溶けるようにふやけて剥がれ落ち「16」という数字が浮かび上がった。
「――このグラスには、聖水を半分に薄めたものを淹れてある。聖の気を纏った俺の指が溶かした『コレ』が悪魔の魔術でない理由を、ぜひとも説明してほしいものだな」
そう言うと、フレデリックはスーツの胸ポケットから出したハンカチで濡れた手を拭きながら、ダリルをにらみつけた。彼はねめつけるフレデリックの視線を前に
「ああ、使ったさ。俺はこの回で『虚飾の悪魔』の力を使った」
と、言い放った。まるで、それが何事でもないような涼しい表情で。
「ふざけるな!!」と叫んだのは、ルーレットに同席していた男の一人だった。切羽詰まった表情で顔を青くさせる彼の右の人差し指には、ダリルと同じ形状の指輪がはめられていた。
「ダリル! 貴様、何をしたかわかっているのか!? 『虚飾の悪魔』との契約条件は並列契約を行った十人、つまり指輪この指輪をはめている人間以外を騙すことが条件だったハズだ! お前は悪魔の契約を、よりにもよってこんなお遊びで破ったんだ! どう責任を取るつもりなんだ!?」
ガタガタと男は指を震わせながらダリルを問い詰める。震えた指先にある『虚飾の悪魔』のシジルが刻まれた黄金色の輪がシャンデリアの照明を乱反射していた。
古来より、悪魔の契約とは『服従の契約』と呼ばれる。
欲望の代償として自身の魂を差し出すそれは、契約者に莫大な成功を約束する引き換えに、生殺与奪の一切を文字通り『悪魔』に委ねる禁忌の契約。
それはすなわち、人並みの安心を捨て、一生悪魔の気まぐれな脅威にさらされ続けることを意味する。騙し、うそぶき、たぶらかし、蹴落とした末に私欲を満たすことは悪魔の本懐。突発的な悪意に潰されないよう、契約者は通常、多人数の儀式を利用した並列の契約を行う、魂の担保という契約条件を緩和するための『リスクヘッジ』
それは同時に、悪魔の庇護下へと墜ちる誓約を連帯責任で負うという意味でもあった。悪魔の契約によって命を落とす確率は二つ。
一.魂を預けた契約者が、悪魔のいたずらに弄ばれた結果、飽きられて潰される。
二.悪魔との契約を違反した時。この時、並列契約者の内、違反者が一人の場合でも、全員が罰則を受ける。
――つまり、悪魔の契約を違約するということは、一蓮托生のパートナーである他の契約者もろとも、全員の命を亡きものにする最も回避すべき行動であり、粉砕覚悟の裏切り行為でもあった。
「おい、今の言葉は本当なのか? ダリル」
男の叫びを受けて、それまで別のゲームに興じていた契約者たちが集まってきた。皆一様に指輪をきらめかせながら、悲痛の表情を浮かべている。
ダリルは彼らの表情をなめまわすように眺めると、くつくつと先ほどと同じような不気味な笑みを浮かべると
「ああ、そうだ。つい使っちまった。……悪いな兄弟、俺のせいで、皆死んじまうよう――」
そう言いかけて、ダリルはこらえきれないといった様子で吹き出した。次の瞬間、我慢の限界が来たのか、同胞の一人が彼を思い切り殴りつけた。細身のダリルは殴られた衝撃で椅子から転げ落ち、鼻から血を流しながら、数メートル吹き飛んだ。
「……ふざけるのも大概にしやがれ! この裏切り者が!!」
「テメエのせいで俺たちの人生おしまいだろうが! 何嗤ってやがんだ!? ああ!?」
指輪の男たちはそう叫ぶと、各々武器を持ち、よろめきながら起き上がろうとするダリルを取り囲み、袋叩きにした。ダリルは頭を抑えてうずくまったまま、集団リンチに耐えていると、
「落ち着けお前ら! 今こんなことしてる場合じゃねえだろ!」
そう言って、フレデリックはダリルをかばうように彼らの前に立ちはだかった。十余名の怒気を孕んだ視線が、一斉に彼に突き刺さった。
「……アンタらの気持ちはよくわかる。金と命がかかっているんだからな、こんな道半ばで自害されちゃあ誰だって困る。俺もこいつをこのままのしてやっても、それは一向に構わん。だが、それだと俺たちの中で疑問が残る。俺は指輪はないからな、アンタ等の交わした契約についてはよくわからないが、契約違反のペナルティを負うのはコイツも同じなのだろう? だったら、こんなカネも命もかからないお遊びで違反を犯す理由はなんだ?」
そう言って、フレデリックはダリルに冷酷な視線を向けて見下ろした。
血の塊を吐き捨てながら、ダリルは先ほどの狂ったような笑顔とは打って変わった緊迫した表情で、フレデリックを見上げた。反抗する視線を押しつぶすように、フレデリックは這いつくばるダリルの右の手のひらを思い切り踏みつけた。「があっ……!」とうめき声がしたところで、フレデリックは履いている革靴のかかとの全体重を乗せた。
「うっかりなんて、つまらない冗談言うなよ? お前がきな臭いことを考えて、俺たち全員を出し抜こうと思っていたことなんざバレバレなんだからよ」
フレデリックはそう吐き捨てると、胸元から一丁の拳銃を取り出して、ダリルの脳天に突き出した。彼は突きつけられた拳銃に目を見開いた。どうやら彼はフレデリックがここまですることは想定外だったようだ。視線を泳がせながら、起死回生の一手を深考していた。
「……どうせ裏で、一人悪魔と何かしらの契約を交わしていたんだろ? 悪いことは言わないからさっさと白状した方がいいぜ」
思考の退路を断つように、フレデリックはダリルの顎を持ち上げ、彼のこめかみに銃口をピタリとつけた。ダリルは目の前の男が今この瞬間にでも引き金を引けば自分の命がなくなってしまうことを理解し、思考が凍り付いた。それと同時に、彼の脳内に駆け巡ったのは走馬灯ではなく『どうすればここを切り抜けられるか』と言う生存戦略だった。バクバクと体に悪い血液を心臓が流すのを感じながら、彼はにやりと、妖しげで強がりな笑みを浮かべた。時計の長針と短針が十二の数字に重なるまで、後数分、それまでに時間を稼げれば、俺の勝ちだと彼はほくそ笑んだ。
「……ああ、その通りだ。悪いな、兄弟。俺はお前らに黙って、虚飾の悪魔と個別の契約を交わした。そしてその条件が、魂を売ることと、お前らを裏切ることだった」
背中を反り、上体を上げながらダリルはそう言い放つと、左手で無理やりシャツを剥いで、左胸に刻まれた虚飾の悪魔のシジルを見せた。それは悪魔と一対一で契約したものに刻まれる紋章であり、ダリルが『悪魔』に魂を売ったことの証明であった。
「これから数分後、虚飾の悪魔が俺との契約によって顕現する。奴の力でお前らは死に絶え、この町も地図から消えるだろう。俺はこれまでの稼ぎを持って『東の大陸』に行く。誰にも邪魔はさせない。俺は俺の望みのために、テメエらも悪魔も利用してみせる……!!」
そう言って、ケタケタと高笑いを上げるダリルに、その場にいた男たちは慄き、恐れていた。それは、同じ望みで命を賭けた共同体すら騙し、私欲を満たそうとするダリルの姿に「悪魔」を見ていたからであった。
「……なら、ここでお前を生かすわけにはいかないな」
そんな中でも、フレデリック・サウザーは冷静だった。彼は踏みつけていたダリルの右手から足をどかすとともに、思い切りうなじを踏んだ。照準はこめかみから頭頂部に移り、いつでも脳天を貫ける体勢になっていた。
「お前の死後、悪魔の所在がどうなるかは知らんが、までの稼ぎをネコババされるのは好かん。今日これまでの命だとしても、博打屋の端くれとして、貴様だけはここで引導を渡してくれる……!」
フレデリックが目を細め、引き金に手がかかる。数秒後の未来が潰えることとなったこの瞬間、ダリルの心中を埋めつくしたのは恐怖でも、後悔でもなく、ただひたすらの喜びだった。
頭を垂れる彼の視線は、部屋にただ一つ置かれた時計の針に注がれていた。長針と短針が十二に重なるその光景に、彼は何よりも代えがたい、愉悦を感じた。
「『勝った』……!!」
土壇場の中からまろび出た、噛みしめるような言葉。そのセリフと、彼の純粋な笑顔から、フレデリックはこの後の展開を予見し、恐怖した。
――悪魔が来る……!!
次の瞬間、ダリルのシジルが発光し、紫色の濃霧が部屋を包み込み、男たちはパニックに陥った。
五里霧中の最中、フレデリックは半ばやけくそになり、引き金を引いた。
ドン!! という銃声だけが鳴り響き、肉をえぐる着弾音も、ダリルの悲鳴も聞こえなかった。逃げられた。と彼は舌打ちした。
弾丸は、運よく突っ伏したダリルの真ん前の床に着弾し、カーペットに穴をあけただけであった。フレデリックが反動にのけぞったことにより踏みつけの拘束が解かれた。ダリルは立ち上がると、喉仏を抑えながら叫んだ。
「憎き悪魔よ、我が声に応え、我が敵を追い払いたまえ!!」
――次の瞬間、紫の霧が両断されたかと思うと、それまで喚いていた男たちの悲鳴が一つ残らず聞こえなくなり、代わりにどさどさと人が地面に倒れるような音と、何か重い球体のようなものが転がる音がした。
フレデリックはその二種類の音の意味を理解した時、それまで自分の体に流れていた温かい血液が急激に冷えてくるのを感じた。
霧が晴れ、終末を告げるような、荒々しい獣の咆哮が響き渡る。濃霧を切り裂いた先にいたのは、仲間の死屍累々積み重なった光景。そして、そんな光景を何事もないように静観する人の生き血を注いで固めたような赤黒い甲冑に身を包んだ巨人兵と、その巨体を支える紅い目をした獰猛な馬――
『虚飾の悪魔』、神殺しの王ソロモンが従えし七十二の悪魔の内の一人。嘘と暴力を操るその御姿に、フレデリックに限りない死の匂いを感じさせた。
「…………は、はは、ははは、はははははははははははははははははははは!!!!!!!」
突如として高らかに響く笑い声。それは、かつての同胞で築かれた死体の山を前にしたダリル・メイスンから発せられたものだった。
ボロボロの布切れを纏い、焦点の合わない瞳で死を嗤うその姿は、もはや人間ではなく『悪魔』そのものだった。
『悪魔と踊れば悪魔に染まる』――子どもの頃に聞いた御伽噺を、フレデリックは思い出していた。




