神速の将:耶律休哥⑧
〇雁門関の残響
979年、乾亨元年の激戦から一年。北の大地は、再び戦雲――戦争の気配――に覆われようとしていた。高梁河で宋の大軍を退けた遼であったが、宋の皇帝・太宗の野望は潰えていなかった。彼は、前回の敗北を糧――ここでは、経験や教訓――とし、新たな戦力を投入して遼への再侵攻を計画していた。
その新たな戦力の中核を担っていたのは、かつて北漢の猛将として遼と対峙し、今は気が進まないまま宋に転属した楊業と、彼の七人の息子たちであった。特に、楊業の六男、楊六郎の武勇は、宋軍の中でも際立っていた。彼の槍は、風のように舞い、嵐のように敵を打ち砕いた。
この年、宋軍は、遼の支配する雁門関へと進軍を開始した。雁門関は、河北省と山西省の境に位置する、険しい山々に囲まれた要衝――交通や軍事上の重要な地点――である。この関を巡る戦いは、遼と宋の、そして楊業と遼の将軍たちの、宿命的な対決の舞台となった。
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楊家の獅子、牙を剥く
雁門関の戦いは、緒戦――戦いの最初の段階――から激しいものとなった。宋軍は、楊業の巧みな采配――指揮を執ること――と、楊六郎をはじめとする息子たちの獅子奮迅――獅子が奮い立つように、ものすごい勢いで活動すること――の活躍により、遼軍を圧倒した。楊業の部隊は、まるで岩をも砕く激流のように、遼軍の堅固な防衛線を突破していった。
楊業は、雁門関の地形を熟知しており、その知識を最大限に活用した。彼は、兵力を巧みに分散させ、遼軍の裏をかくような奇襲を繰り返した。特に、狭い山道でのゲリラ戦では、楊業の指揮は冴え渡った。遼軍の兵士たちは、どこから敵が現れるのか予測できず、混乱に陥った。
そして、その戦場の中心には、常に楊六郎の姿があった。彼の槍は、稲妻のように閃き、その一撃は、まるで鋼鉄を叩き割るかのようであった。遼軍の精鋭部隊が、何十人、何百人と彼に挑みかかったが、楊六郎は怯むことなく、次々と敵を打ち倒していった。彼の周りには、常に倒れた遼兵の山が築かれ、その武勇は、宋軍の兵士たちに圧倒的な士気――物事を行う意欲や精神力――を与えた。楊業の七人の息子たちは、それぞれが父の教えを受け継ぎ、互いに連携を取りながら、遼軍に大きな損害を与えていった。
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雁門関の惨敗、そして「楊無敵」
遼軍は、楊業とその息子たちの猛攻の前に、次第に劣勢に立たされた。彼らは、高梁河の勝利で得た自信を打ち砕かれるかのように、次々と後退を余儀なくされた。遼の将軍たちも奮戦したが、楊業の用兵は、彼らの予測を遥かに超えるものであった。楊業は、敵の弱点を的確に見抜き、そこへ集中攻撃を仕掛けることで、遼軍の陣形を崩壊させていった。
高梁河での勝利に沸き立っていた遼軍にとって、雁門関での敗北は、まさしく痛恨の一撃であった。遼軍は、この戦いで大破され、甚大な損害を被った。甚大とは、非常に大きいという意味だ。
この雁門関の戦いでの圧倒的な勝利により、楊業の名は、宋軍だけでなく、遼軍の間にも轟いた。彼の武勇は、もはや人間の域を超えているとまで言われ、敵味方から「楊無敵」と畏れられるようになる。無敵とは、誰にも負けないほど強いことを意味する。
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休哥の思惑と、新たな試練
この雁門関での敗北は、遼の将軍たちに大きな衝撃を与えた。特に、耶律休哥の胸には、複雑な思いが渦巻いていた。彼は、かつて楊業を遼に誘ったことがある。もしあの時、楊業が遼に来ていれば、このような惨敗は避けられたかもしれない。しかし、同時に、楊業の揺るぎない忠誠心と、その武勇を改めて目の当たりにし、休哥は、彼がどれほど手強い敵であるかを痛感した。
耶律休哥は、雁門関の戦いでの敗北を深く分析した。宋軍の戦術、楊業の用兵、そして、遼軍の課題。彼は、この敗北を無駄にはしないと心に誓った。宋との戦いは、まだ始まったばかりである。そして、楊業という強敵を相手に、いかにして勝利を掴むか、それが耶律休哥に課せられた新たな試練であった。
彼の疾走するような人生は、これからも続く。雁門関での苦い経験は、耶律休哥をさらに強くし、彼を遼の未来を担う真の将軍へと成長させていくことになるだろう。
〇瓦橋関の嵐
980年、北の大地には、再び戦の雷鳴が轟いていた。前年の高梁河での激戦からわずか一年。宋との間に張り詰める緊張は、いまだ解けることなく、今や肌を刺すような冬の寒さとなって、遼の兵士たちの頬を叩いていた。この年、遼の皇帝、景宗は、自ら軍を率いて親征――皇帝が直接軍を率いること――に臨み、宋軍と瓦橋関で対峙することになった。瓦橋関は現在の河北省に位置し、その地はまるで北方の喉元――重要な場所――に突きつけられた剣のように、軍事上の極めて重要な地点であった。
景宗の親征軍の中には、遼の未来を担う若き将星、耶律休哥の姿があった。彼の瞳には、常に鋭い光が宿り、その全身からは、研ぎ澄まされた刃のような緊張感が漂っていた。瓦橋関を挟んで宋軍と睨み合いが続く中、戦況は膠着――行き詰まって動かない状態――していた。しかし、その静寂は、次の嵐の前の予兆に過ぎなかった。遠くから聞こえる地響きが、宋からの援軍の到着を告げたのだ。その援軍と共に、宋の守将である張師が、まるで自らの武勇を誇示するかのように、城門から突出して遼軍へと襲いかかってきた。
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疾風の如き先陣、閃光の指揮
耶律休哥は、その瞬間を逃さなかった。敵将の突出は、まさしく彼が待ち望んだ好機であった。彼は迷わず、自ら先陣に立って兵士たちを督戦――指揮して士気を高めること――した。彼の号令は、戦場の喧騒――やかましい音、騒がしいこと――を切り裂き、兵士たちの心に稲妻のように響き渡った。
「続け! 一気呵成に押し込め!」
休哥の目は、鋭く、状況を瞬時に、そして正確に見極めていた。張師の突出は、一見すると大胆不敵に見えたが、その背後には、宋軍の陣形にわずかながらも隙が生じていることを、彼は看破――見破ること――していたのだ。彼は、その隙を突くべく、まるで獣のように獲物へと襲いかかった。
彼の騎馬隊は、怒涛の如く張師の部隊へと突進した。休哥の剣は、閃光のように舞い、張師の部隊を切り裂いていく。張師自身も奮戦したが、休哥の神速の剣技は、彼が想像していた以上に速く、そして重かった。一閃、また一閃。休哥の剣が、張師の身体を捉えた。宋の守将は、自らの剣が届かぬ間もなく、その場で命を落とした。敵将を討ち取られた宋軍は、瞬く間に混乱に陥り、総崩れとなって城内へと敗走していった。
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変幻自在の戦術、電撃の追撃
この戦いにおいて、耶律休哥は、単なる武勇だけでなく、並外れた機転と周到な戦略を見せつけた。彼は敵に自らの姿を特定されるのを避けるため、皇帝から賜った高貴な白銀色の鎧から、目立たぬ黒い鎧へと瞬時に着替えた。そして、自らが愛用する白馬から、別の馬に乗り換えていた。これは、敵に警戒されることなく、意表を突く攻撃を仕掛けるための彼の計算し尽くされた策略であった。
休哥は、敗走する宋軍を追撃するべく、精鋭の騎兵を率いて河を渡った。彼の部隊は、まるで水を得た魚のように、地形を最大限に活用して宋軍をさらに奥へと深く追い詰めていった。その進撃は、まさに電撃的であり、宋軍は休哥の部隊がどこから現れるのか、全く予測することができなかった。彼らの動きは、風よりも速く、影よりも捉えにくい。宋軍は、瓦橋関の城壁に追い込まれ、徹底的に撃破されていった。
彼の神速の用兵と、状況に応じた変幻自在な戦術は、宋軍を完膚なきまで――完全に、徹底的に――打ち砕いた。瓦橋関の戦いは、耶律休哥の武名を天下に轟かせ、彼の名を遼の歴史に深く刻み込むことになったのである。彼の疾走するような人生は、これからも北の大地を駆け巡り、遼の繁栄のためにその身を捧げていくことになる。
〇莫州への疾走、勝利の轟き
980年、乾亨二年。瓦橋関での激戦は、遼の若き将星、耶律休哥の神速の用兵によって、宋軍の大敗という形で幕を閉じた。しかし、休哥の戦いは終わらなかった。瓦橋関での勝利の余韻に浸る間もなく、彼の部隊は、敗走する宋軍を追撃すべく、北の大地をさらに深く駆け抜けていった。
追撃の先頭に立つのは、やはり耶律休哥その人であった。彼の騎馬隊は、まるで獲物を追う狼の群れのように、瓦橋関から北東へ向かって疾走した。目指すは、現在の河北省に位置する莫州。そこまで宋軍を追い詰め、完全に叩き潰すのが、休哥の狙いであった。
草原を駆け抜ける馬の蹄の音は、まるで雷鳴のようであった。休哥の指揮は、常に的確で、迅速であった。彼は、敗走する宋軍のわずかな隙も見逃さず、次々とその背後を襲った。彼の剣は、閃光のように舞い、その一振りごとに、宋兵の悲鳴が上がる。遼の騎馬隊は、一糸乱れぬ(いっしみだれぬ)動きで敵を包囲し、その逃げ道を断っていった。一糸乱れぬとは、少しも乱れない、統制がとれている様子を指す。
宋軍は、瓦橋関での敗北から立ち直る間もなく、休哥の猛追に晒された。彼らの抵抗は弱く、次々と遼軍の捕虜となっていった。休哥の部隊は、莫州の地で、多数の敵兵を討ち取り、多くの捕虜を獲得した。そして、それらを遼の皇帝、景宗に献上した。この勝利は、高梁河の勝利に続く、遼にとっての大きな戦果となった。
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景宗の称賛、将軍の栄光
瓦橋関から凱旋した耶律休哥を、景宗皇帝は、満面の笑みで出迎えた。休哥の勇猛さ、つまり勇ましく強いことと、その輝かしい戦功に、景宗は大いに感動し、心から休哥を称賛した。皇帝は、休哥に惜しみない褒美を与えた。皇帝が乗る馬、あるいはそれに匹敵する優れた馬を意味する御馬が下賜され、さらに、黄金でできた最高の栄誉と富を象徴する賜物である金孟が休哥に贈られた。
景宗は、自ら休哥の手を取り、深く労いの言葉をかけた。その言葉は、休哥の心に深く響いた。
「お前の勇名は名に過ぎず、もし皆がお前のようなら、どうして憂いがあろうか」
この言葉は、耶律休哥の並外れた武勇が、遼にとってどれほど大きな支えとなっているかを端的に表していた。景宗は、休哥のような優れた将軍が遼にいる限り、何も心配することはないと、彼の存在を高く評価したのだ。この言葉は、休哥にとって、何よりも勝る褒美であった。それは、彼のこれまでの努力と、遼への忠誠が認められた証であった。
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于越の拝命、未来への扉
瓦橋関からの凱旋後、耶律休哥はさらなる栄誉に浴した。彼は、遼の民族名である契丹において、最も貴い官職とされる于越を拝命した。于越は、非常に高い地位を示す官職であり、その権限は広範に及んだ。これは、耶律休哥が遼の国家において、単なる軍事の指揮官としてだけでなく、政治においても極めて重要な役割を担うことになったことを意味していた。彼の采配――指揮を執ること――は、戦場だけでなく、宮廷においても振るわれることになったのだ。
瓦橋関での勝利は、耶律休哥の軍人としての評価を決定づけるものであった。彼の疾走するような戦いぶり、その慧眼――物事の本質を見抜く優れた洞察力――、そして皇帝からの絶大な信頼は、彼を遼の未来を背負う真の柱として確立した。彼の名は、北方の大地に、ますます深く、そして鮮やかに刻まれていくのであった。
耶律休哥の疾走するような人生は、これからも続く。彼の前には、宋との終わりの見えない戦いが待ち受けている。しかし、彼は決して怯むことはないだろう。彼の心には、遼への忠誠と、その国を守り抜くという揺るぎない決意が宿っているのだから。