神速の将:耶律休哥⑦
〇高梁河の嵐
979年、乾亨元年。遼の副都、南京――現在の北京を指す――が宋の大軍に包囲され、遼の将軍たちは次々と敗退を喫していた。重苦しい空気が遼軍全体を覆い、誰もがこのままでは都が陥落――敵の攻撃によって城が落ちること――するのではないかと、胸騒ぎを覚えていた。そんな絶望的な戦況の中、一人の若き将星が、その名の如く輝きを放つ。彼の名は、耶律休哥。彼は、精鋭の騎兵を率いて、戦場へと疾走した。その動きは、まさに疾風の如く、敵の予測を遥かに超えるものであった。
遼の未来を背負うかのように、耶律休哥の部隊は、雷鳴のような蹄の音を響かせ、高梁河のほとりへと急ぐ。そこには、遼の命運を賭けた、宋軍との決戦が待ち受けていた。宋軍の陣形は厚く、その勢いは、まるで巨大な壁のように遼軍の前に立ちはだかっていた。しかし、耶律休哥の瞳には、一切の迷いがなかった。
________________________________
神速の挟み撃ち
耶律休哥は、盟友である耶律斜軫と共に、大胆不敵な奇襲戦法を仕掛けた。奇襲戦法とは、敵の意表を突いて突然攻撃を仕掛ける戦術のことだ。通常では考えられない、左右の翼に分かれて宋軍を挟み撃ちにするという奇策である。彼の部隊は、一瞬の躊躇もなく、まるで稲妻が大地を走るかのように、宋軍の側面へと突っ込んだ。
休哥の剣は、閃光のように舞った。彼の騎馬隊は、精密に計算された動きで敵陣を切り裂き、宋軍は瞬く間に混乱の渦に飲み込まれた。宋の兵士たちは、何が起こったのか理解する間もなく、次々と倒れていった。休哥の動きは、人間業とは思えないほどに速く、正確であった。彼の剣の一閃――刀剣を一振りすること――ごとに、宋兵の悲鳴が上がり、戦場の空気が凍り付いた。宋軍は壊滅的な打撃を受け、その戦力は見る見るうちに削られていった。
________________________________
追撃、そして勝利の光
休哥たちの追撃は、まさに容赦がなかった。彼らは、敗走する宋軍を、30余里(約15キロメートル)にもわたって追い詰めた。疲労困憊――疲れ果てて力尽きること――した宋兵は、遼軍の疾風のような追撃に為す術もなく、次々と斬り伏せられていった。宋兵の斬首は1万余に及んだと伝えられるほど、宋軍は高梁河の地で惨敗を喫したのである。
この激戦の中、耶律休哥自身も3箇所に傷を負った。しかし、その表情には、苦痛の影は微塵もなかった。そこにあったのは、勝利への確信と、遼の未来を切り拓いた者だけが持つ、誇り高き光であった。宋の皇帝・太宗は、遼軍の猛追を恐れ、夜陰に乗じて辛くも逃亡した。この夜の闇の中、太宗の脳裏には、耶律休哥の鬼神のような戦いぶりが焼き付いていたに違いない。
高梁河の戦いは、耶律休哥の武名を天下に轟かせることとなった。彼の神速の用兵と、並外れた武勇が、遼に決定的な勝利をもたらしたのだ。この勝利は、遼軍に再び士気――物事を行う意欲や精神力――をもたらし、宋の侵攻を一時的に退けることに成功した。若き将星、耶律休哥の疾走は、遼の歴史に、新たな光明を刻み込んだのである。
〇楊家の七星
979年、乾亨元年――遼の元号で、その始まりの年を指す――。北の大地は、高梁河の戦いの余韻に包まれていた。遼の副都、南京――現在の北京を指す――を包囲した宋の大軍は、若き将星、耶律休哥と盟友耶律斜軫による神速の挟み撃ち戦法によって大敗を喫し、宋の皇帝・太宗――その本名は趙匡義である――自身も夜陰に乗じて辛くも逃亡を余儀なくされた。遼軍は、この勝利に沸き立ったが、休哥の胸中には、新たな嵐の予感があった。宋の野望は、決して潰えたわけではない。
太宗は、高梁河での惨敗に激しく打ちのめされた。しかし、彼は諦めなかった。全中国の統一を掲げる宋にとって、北の遼は、どうしても打ち破らねばならぬ壁であった。太宗の脳裏には、起死回生――絶望的な状況から一気に盛り返すこと――の策が巡っていた。その策とは、かつて北漢の武将として遼と対峙し、その武名を轟かせた男、楊業の力を借りることだった。楊業は、北漢滅亡の際、不承不承ながら宋に転属したばかりであったが、その武勇は宋の朝廷でも高く評価されていた。
________________________________
楊家の七星、戦場へ
太宗は、楊業を呼び出し、彼の持つ並外れた軍才に期待を寄せた。
「楊将軍、貴殿の武勇は、天下に知れ渡っております。今こそ、その力を宋のために振るっていただきたい。遼の北伐――北方へ軍を進めて敵を討つこと――において、貴殿こそが我が軍の要となるでしょう。」
楊業は、複雑な思いを胸に命を受けた。かつての同盟国である遼と戦うことに葛藤――心の中で互いに矛盾する感情がぶつかり合うこと――はあったが、彼は武人である。命じられた任務を拒むことはできなかった。そして、彼と共に、その血を受け継ぐ七人の息子たちもまた、戦場へと赴くことになった。
楊業には、七人の息子がいた。それぞれが父譲りの武勇と、独自の才能を秘めていたが、中でも際立っていたのは、六男の楊六郎であった。彼は、父にも劣らぬ剣の腕と、騎馬の技術を持ち合わせ、その名はすでに宋軍の若手将校の間で轟いていた。楊六郎の活躍は凄まじく、彼の率いる部隊は、まるで嵐が吹き荒れるように敵陣を駆け抜け、宋軍に新たな希望の光をもたらした。
宋軍は、楊業とその息子たちを先鋒――軍の最前線に立って戦う部隊――に据え、再び遼との戦いの火蓋を切った。彼らの進軍は、高梁河での敗北を忘れさせるかのような勢いであった。
________________________________
疾風と神速の衝突
しかし、遼には、耶律休哥がいた。彼は、宋軍の再度の侵攻を正確に予測し、睿智蕭皇后の命を受け、迎撃の準備を整えていた。休哥の指揮の下、遼の精鋭騎馬隊は、いつでも出撃できる態勢にあった。
宋軍と遼軍の激突は、再び高梁河の地で起こった。楊業率いる宋軍の先鋒隊は、猛烈な勢いで遼軍に迫った。楊六郎の活躍は目覚ましく、彼の槍は、次々と遼兵を薙ぎ倒していった。宋軍の士気は高く、このまま遼軍を打ち破るかと思われた。
その時、耶律休哥が動いた。彼の目は、戦場の全てを捉えていた。宋軍の陣形のわずかな綻び(ほころび)――隙間、弱点――、楊業の部隊の得意とする戦術、そして、彼らの次の行動までをも見通しているかのように。休哥は、一瞬の躊躇もなく、その指揮を執る。彼の部隊は、まるで幽霊のように敵の視界から消え去り、次の瞬間には、宋軍の側面、最も脆弱――もろい、弱いこと――な箇所へと音もなく回り込んでいた。その速さは、風よりも速く、影よりも薄い。そして、盟友の耶律斜軫もまた、別の方向から宋軍を襲った。それは、高梁河の戦いで宋軍を壊滅させた、あの挟み撃ち戦法に他ならなかった。
耶律休哥の騎馬隊は、まるで怒涛の波が押し寄せるかのように、宋軍の陣形に突入した。彼の剣は、閃光のように舞い、その一振りごとに宋兵の悲鳴が上がり、戦場の空気が凍り付いた。宋軍の兵士たちは、自分たちがどこから攻撃されているのか、何が起こっているのか理解する間もなく、次々と倒れていった。彼の騎馬隊は、縦横無尽――自由自在に動き回ること――に駆け巡り、宋軍の隊列を分断し、混乱の渦へと突き落とした。楊業は、その展開に驚愕した。彼は、これまで数々の戦場を経験してきたが、これほどまでに素早く、そして正確な敵の動きを見たことがなかった。楊六郎もまた、父の隣で奮戦していたが、耶律休哥と耶律斜軫の神速の用兵の前には、如何ともしがたかった。如何ともしがたいとは、どうしようもないという意味だ。遼軍の騎馬隊は、宋軍を四方から包囲し、その陣形を乱していった。
宋軍は、再び混乱に陥った。楊業は、兵士たちの士気が崩壊していくのを感じた。このままでは、全滅する。彼は、苦渋の決断を下した。
________________________________
撤退、そして残された宿題
「撤退だ! 総員、撤退せよ!」
楊業の号令が、戦場に響き渡った。宋軍は、遼軍の猛攻から逃れるべく、我先にと退却を始めた。楊業とその息子たちは、自ら殿――退却する軍の最後尾で敵の追撃を防ぐ役割――を務め、決死の覚悟で遼軍の追撃を防いだ。楊六郎の活躍は、撤退戦においても光り輝き、多くの宋兵の命を救った。
耶律休哥は、敗走する宋軍を追撃した。しかし、楊業の殿の奮戦により、決定的な打撃を与えるまでには至らなかった。休哥は、楊業の武勇に感嘆しつつも、彼の巧みな撤退戦術に、警戒の念を抱いた。彼は、楊業という将軍が、決して侮れない相手であることを改めて認識した。
戦いは終わったが、遼と宋の間の火種は、消えることなくくすぶり続けていた。耶律休哥は、勝利の喜びに浸る間もなく、次の戦いへと意識を向けた。そして、楊業もまた、新たな戦場へと向かう自身の運命を噛み締めていた。二人の将の、疾走するような人生は、これからも北の大地を舞台に、激しく交錯していくのである。
〇高梁河の余韻と、新たな戦場
979年、乾亨元年――遼の元号で、その始まりの年を指す――。高梁河の戦いで宋の大軍を打ち破り、遼の副都、南京――現在の北京を指す――の危機を救った耶律休哥。遼軍全体は勝利の歓喜に沸き立っていたが、休哥の胸中には、依然として緊張感が漂っていた。彼は知っていた。宋の野望は、決して潰えてなどいないことを。
その予感は、すぐに現実となる。この年の冬、遼軍は宋の満城を攻撃すべく、再び兵を進めた。遼の将軍である韓匡嗣や耶律沙らが指揮を執る中、休哥もまた、その一翼を担っていた。満城の宋軍は、遼軍の攻撃に対し、降伏を請うてきた。その報せに、多くの将兵が安堵――安心すること――の息を漏らした。
しかし、耶律休哥の瞳は、その言葉の裏に潜む罠を見抜いていた。彼は、宋軍の降伏の申し出を鵜呑み(うのみ)――内容をよく考えずに信じること――にしなかった。彼の慧眼――物事の本質を見抜く優れた洞察力――は、敵の巧妙な策であると告げていた。敵は偽りの降伏で遼軍を油断させ、その隙を突くつもりだと、休哥は確信していたのだ。
________________________________
慧眼の閃きと、将軍の愚行
休哥は、すぐさま韓匡嗣に進言した。
「将軍、お待ちください! 宋軍の降伏は、偽りかと存じます。兵を厳しく待機させ、警戒を怠るべきではありません。彼らは、我らを罠にかけるつもりです!」
しかし、高梁河での大敗から立ち直りつつあった宋軍の降伏という言葉は、韓匡嗣にとって甘美――甘く美しいこと、ここでは魅力的なこと――な響きであった。彼は、休哥の忠告に耳を傾けず、その進言を一蹴――相手の意見をはねつけること――した。
「何を言うか! 敵が降伏を請うておるのだぞ。この好機を逃す手はないわ!」
韓匡嗣は、遼軍に攻撃を緩め、油断した隙に宋軍が反撃に出るという、休哥の予測した通りの展開となった。宋軍は、隠し持っていた兵力を一気に展開させ、油断しきっていた遼軍に襲いかかった。遼軍は、不意を衝かれ、瞬く間に混乱に陥った。満城の戦いは、遼軍にとって、まさに悪夢のような大敗を喫することになったのである。
________________________________
疾風の立て直しと、光芒の一閃
再び戦況が不利に傾く中、遼軍全体に、重苦しい敗北の空気が漂い始めていた。散乱する兵士たち、狼狽――うろたえること――する将校たち。しかし、その混乱の渦中で、耶律休哥は動じなかった。彼の表情は、嵐の中の岩のように微動だにせず、その瞳には、冷静な光が宿っていた。
「兵を整えよ! 決して退くでない!」
彼の声は、戦場の喧騒――やかましい音、騒がしいこと――の中に、一筋の光明――希望の光――を灯した。休哥は、散乱した兵を素早く束ね、その並外れた統率力――人々をまとめ、指揮する力――を発揮した。彼は、自ら先頭に立ち、冷静に指揮を執って進撃を開始した。彼の騎馬隊は、再び疾風の如く敵陣に突入し、その剣は、閃光のように舞った。
彼の神速の用兵は再び冴え渡った。彼は、宋軍の勢いを寸断――途中で断ち切ること――し、その攻撃の矛先を巧みにかわしながら、次々と敵を打ち破っていった。休哥の部隊は、まるで生き物のように連携し、宋軍の陣形を切り裂いていく。宋軍は、まさか敗走する遼軍の中に、これほどまでに強靭――強くしなやかであること――な部隊が残っているとは思わず、再び混乱に陥った。休哥は、この機を逃さず、敵の勢いを押し返し、見事に満城からの撤退を成功させたのである。
________________________________
揺るぎない功績と、未来への疾走
この一連の戦い、特に満城での窮地――苦しい状況――を救った功績により、耶律休哥の軍才は揺るぎないものとなった。遼の皇帝と、睿智蕭皇后は、彼の慧眼と武勇を高く評価した。彼は南面戌主――遼の辺境防衛の責任者、つまり南側の国境を守る重要な役職――に任じられ、さらにその後、北院大王という高位の官職を兼任することになった。北院大王は、遼の北方における軍事と行政を司る最高責任者であり、彼の地位は確固たるものとなった。
乾亨元年(979年)は、耶律休哥にとってまさに飛躍の年であった。彼は、高梁河での大勝利に続き、満城での窮地を救い、遼の未来を背負う将として、その名を歴史に刻み込んだのである。彼の疾走するような人生は、これからも北の大地を駆け巡り、遼の繁栄のためにその身を捧げていくことになる。