神速の将:耶律休哥②
〇遼の2代目皇帝:耶律徳光
第二代皇帝:太宗 耶律徳光(たいそう やりつ とっこう)の拡大と野望
阿保機が926年に急逝した時、遼の皇位は宙に浮いた。遊牧民の伝統では、血筋だけでなく、実力のある者がリーダーとなることが多かった。そして、阿保機の死後、その後継者をめぐって、激しい争いが勃発した。阿保機の長男である耶律倍も候補だったが、次男の徳光には、比類なき強さを持つ後ろ盾がいた。彼の母、述律皇后、通称ユリドだ。
ユリドは、ただの皇后ではなかった。彼女は夫である阿保機の統一事業を支え、自らも武術に長け、決断力に富んだ女傑だった。彼女は息子の徳光こそが、遼の未来を背負うにふさわしいと信じていた。内乱のさなか、ユリドは冷静かつ迅速に行動し、徳光を支持する勢力をまとめ上げ、反対勢力を力強く排除していく。その疾走は、まるで荒れ狂う嵐のようだった。結果、徳光は血の争いを制し、927年、遼の第二代皇帝、太宗として即位する。彼の即位は、母ユリドの絶大な影響力と、その戦略的思考がもたらしたものだった。
皇帝となった徳光は、父阿保機の二重統治体制をさらに発展させ、国力の強化に努めた。二重統治体制とは、遊牧民には昔からの部族のしきたりや、馬を駆って移動する生活に合わせた方法で治め、南の中国から支配下に加わった農耕民には、彼らが慣れ親しんだ中国式の役所や法律を適用するという、当時としては非常に革新的な統治方法だ。
彼の視線は、常に南の豊かな土地、中国へと向けられていた。936年、中国では五代十国時代という、王朝がめまぐるしく入れ替わる混乱期にあった。後唐という王朝が滅びかけ、石敬瑭という男が新たな王朝、後晋を建てようとしていた。石敬瑭は、自らの即位と後唐打倒のため、遼に助けを求めてきたのだ。
徳光は、この機会を逃さなかった。彼は迅速な決断を下し、大軍を率いて中国へ侵攻した。遼の騎馬隊は、まさに疾風のごとく中国大陸を駆け抜け、石敬瑭を助けて後唐を滅ぼした。その見返りとして、徳光は石敬瑭に、ある重大な要求を突きつける。それが「燕雲十六州」という領土の割譲だ。
燕雲十六州とは、現在の北京から大同を含む万里の長城の内側に広がる肥沃な土地(農耕に適した豊かな土地のことだ)のこと。この地域は、戦略的にも非常に重要で、中国の防衛線として機能していた。この地を獲得したことで、遼は万里の長城を越えて、中国本土に本格的な足がかりを得たことになる。これは、遼の歴史、そして中国の歴史をも大きく変える、画期的な出来事だった。
燕雲十六州を獲得し、遼は中国の正統王朝として君臨しようと、947年には国号を「大遼国」と改称し、さらに開封という中国の中心都市に入城した。しかし、中国の豊かな土地と文化は、遼の兵士たちに略奪を許し、漢人の民心を失わせる結果となった。拡大の代償は大きかった。947年、徳光は開封からの帰途、陣中で病に倒れ、55歳で急逝した。彼の死は、遼のさらなる南進を一時的に停滞させることとなる。
〇第三代皇帝:世宗 耶律阮の苦悩と改革
太宗の突然の死後、遼は再び激しい皇位継承争いの渦中へと放り込まれた。太宗の弟である李胡を擁立しようとする勢力に対し、太祖(阿保機)の孫である耶律阮が兵を挙げて対抗した。血縁の争いは熾烈を極めたが、内乱を制し、世宗として即位したのが耶律阮である。彼は、太宗の時代に整えられた統治制度の改革を進め、より中央集権的な体制(権力が中心に集中している体制のことだ)を築こうと尽力した。
世宗は、父阿保機の息子である皇太子耶律倍の長男として、本来ならば帝位に最も近い存在だった。彼は学問を好み、漢文化にも精通していた。しかし、彼の治世は波乱に満ちていた。彼は、酒色に溺れ、狩猟を好んだため、臣下の不満を買い、さらに皇族内の対立も絶えなかった。これは、遊牧民の伝統的な部族の自由さと、漢文化の集権的な統治理念の間の摩擦でもあったのかもしれない。
天禄5年(951年)、世宗は北漢という中国の国を支援して後周という別の国を攻撃した帰途、祥古山(しょうこざん、現在のフフホト付近)において、太祖の弟の安端の子である察割によって暗殺されるという悲劇的な最期を遂げた。彼の治世はわずか5年と短く、内乱の影が色濃く残る時代だった。
遼王朝は、太宗の時代に大きく版図を広げ、強大な国としての地位を確立したが、その裏では常に権力闘争と不安定な要素を抱え続けていた。世宗の死は、その後の穆宗の治世へと繋がり、遼の混乱は続くことになる。しかし、これらの激動の時代を経て、遼は独自の国家体制を確立し、北の雄として存在感を増していくのである。
〇北風を裂く疾走:遼を支えた貴族、耶律綰思の影
北の荒野を、冷たい風が吹き抜ける。その風は、騎馬民族である契丹族の魂を揺さぶり、彼らの歴史を紡いできた。馬の蹄の音が轟き、風を切る弓の音が響く中、国家の礎を築き、次世代へとその流れを繋いだ男たちがいた。その名は歴史の表舞台に立つことは稀でも、その存在なくして遼という巨大な帝国は成り立たなかっただろう。これは、耶律休哥という名将の父にして、南院夷離菫という重職を務めた、耶律綰思の物語だ。
古き血脈と、統一の夜明け
耶律綰思は、遼王朝の創設者である耶律阿保機の弟、耶律釈魯の孫にあたる。つまり、彼は皇帝の直系ではないものの、遼の皇族に近い、由緒正しき家柄に生まれた。その血筋は、遼の建国以前から続く、契丹族の有力な貴族の系譜に連なっていた。阿保機がまだバラバラだった契丹の部族を一つにまとめ上げ、916年に遼王朝を建国する、あの疾風怒濤の時代を、綰思は幼い頃から肌で感じていたはずだ。祖父の釈魯が阿保機の右腕として活躍する姿を見て、彼は国家を支える貴族としての誇りと責任感を育んでいったに違いない。
遼が建国され、二重統治体制という独自の統治システムが確立されていく中で、綰思は重要な役割を担うことになる。二重統治体制とは、遊牧民である契丹族には彼らの伝統的な方法で、新しく支配下に加わった漢人と呼ばれる農耕民には中国式のやり方で、それぞれに合った方法で治めるという、当時としては画期的なシステムだ。この複雑な国家運営の中で、彼のような貴族の存在は不可欠だった。
南院夷離菫としての重責
耶律綰思は、「南院夷離菫」という役職に就いた。これは、遼王朝における南面官の重要な官職の一つだ。南面官とは、主に中国から支配下に入った農耕民たちを治める行政機関のことで、彼らの生活や税金、法律などを管理していた。夷離菫は、契丹族の伝統的な役職名で、部族の長や軍の指揮官を意味することもあった。南院夷離菫は、この南面官の中でも特に高い地位にあり、軍事と行政の両面において大きな権限を持っていたとされている。
この職務は、遼の安定にとって極めて重要だった。遊牧民と農耕民という異なる文化を持つ人々を、摩擦なく、そして効率的に統治するためには、優れた洞察力と実行力が求められた。史書に彼の個別の功績が詳細に記されることは少ないが、彼がこの重責を長きにわたり務め上げたことは、その能力と忠誠心が皇帝から高く評価されていた証拠だろう。
子孫へと繋がる血脈
耶律綰思の名が後世に強く記憶されるのは、彼の息子たちの活躍によるものが大きい。特に、彼の息子である耶律休哥は、穆宗の時代から頭角を現し、景宗、聖宗の時代にかけて、北宋との戦いで遼屈指の名将として名を馳せることになる。休哥の疾風のような騎馬戦術や、その優れた人柄は、父である綰思から受け継がれた資質であった可能性も高い。
また、別の息子に耶律窪がいる。耶律窪もまた、太宗の時代に「惕隠」という重要な職に就き、936年には太宗が中国の太原を救援する際に先鋒を務め、敵軍を撃破する功績を挙げた。彼はその後、「北院大王」、さらには「于越」という最高位の官職にまで昇り詰めている。
耶律綰思は、遼王朝の拡大と安定期において、貴族として、そして南院夷離菫という官職を通じて、その根幹を支えた人物だった。彼の生涯は、激しい戦乱の表舞台よりも、むしろ国家運営という裏側で、静かに、しかし確実に、その役割を果たした。彼の血脈は、遼の未来を背負う名将たちへと受け継がれ、その功績は、北の風に乗って、今も遠い時代へと語り継がれているのだ。