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神速の将:耶律休哥⑭

〇最後の戦い


北風が、乾いた砂塵を巻き上げてりょうの荒野を駆け抜ける。その風は、耶律休哥やりつきゅうかの頬を容赦なく叩いた。徐河じょがの戦いでの敗北以来、彼の体は病に蝕まれ、一歩踏み出すたびに鉛のように重い。しかし、そう軍の動きは、彼の疲弊を許さない。


宋軍は、徐河じょがでの勝利に味を占め、再び遼への侵攻を始めたという報せが届いた。彼らは、あの楊門女将ようもんじょしょう――女性だけで編成された騎馬部隊の活躍が、遼の将軍を打ち破ったと信じ込んでいるのだろう。その自信が、彼らをここまで押し上げたのだ。


陛下へいか、私が参ります」


耶律休哥は、承天皇太后しょうてんこうたいごうの前で、静かに頭を下げた。彼の声はかすれてはいたが、その瞳には、武人としての最後の輝きが宿っていた。承天皇太后は、彼の病状を案じていたが、彼の揺るぎない決意に、押し黙るしかなかった。


「これが、自分の最期の戦いになるだろう」


馬に跨り、広がる大地を見渡す。全身を包む冷気は、もはや病によるものか、それとも死の予兆か。しかし、耶律休哥の心は、不思議と澄み切っていた。最期を飾るならば、やはりこの戦場だ。


号令一下、遼の騎兵が砂塵を上げて突進する。耶律休哥は、先頭に立って馬を駆った。その姿は、かつての「りょうの飛将軍」と呼ばれた頃の面影を宿している。飛将軍とは、まるで空を飛ぶかのように素早い動きで敵を翻弄する、伝説的な武将に例えられた言葉だ。彼の指揮は、病魔に冒された体を感じさせない、まさに疾風怒濤しっぷうどとう――激しい風と荒れ狂う波のように勢いのある、すさまじい勢い――の用兵だった。


宋軍は、耶律休哥の猛攻に戸惑いを隠せない。彼らは、病に倒れたはずの耶律休哥が、まさかこれほどの勢いで攻め込んでくるとは予想だにしていなかったのだ。遼の騎兵たちは、砂漠の嵐のように宋軍の陣形を打ち崩し、混乱の渦へと突き落としていく。宋軍は為す術もなく、敗走を始めた。


「よし、このまま追い払え!」


遼軍の将兵たちは、歓喜の声を上げる。まさか、病に冒された将軍が、これほどの戦果を上げるとは。彼らの瞳には、かつての栄光が蘇ったかのような希望が灯っていた。


しかし、耶律休哥の表情は変わらなかった。彼の瞳は、敗走する宋軍の遙か彼方を見据えている。


「これだけではない……」


彼の低い声が、隣に立つ副将の耳に届いた。


「どういうことでございますか、将軍?」


「奴らは、陽動ようどうを使ったのだ」


陽動とは、相手の注意をそらすために、わざと別の場所で攻撃を仕掛けること。本命の目的を隠すための策略だ。


耶律休哥は、己の経験と直感が告げる、もう一つの戦場の存在を確信していた。彼は、この猛攻が、宋軍の狙いを隠すための偽装であることを見抜いていたのだ。


その瞬間、遠くの地平線に、新たな砂塵の柱が立ち上った。その中に、見慣れた旗が翻る。あの、女性たちが率いる部隊の旗だ。


「やはり来たな…狙いは私の首か?」


楊門女将軍ようもんじょしょうぐん


彼らは、耶律休哥の軍勢が宋軍を追い払うことに夢中になっているきょを突いて――相手の油断や隙を狙って――、まさに耶律休哥軍の眼前に突入していたのだ。


背筋に、冷たいものが走る。病に冒された体で、果たして彼女らと渡り合えるのか。しかし、耶律休哥の目に、恐怖の色はなかった。むしろ、武人としての血が、再びたぎるのを感じていた。


戦いは、まだ終わらない。彼の最期の舞台は、今、始まったばかりだ。



〇弧を描く槍


轟音が響き渡る。地平線から現れたのは、まさしくあの楊門女将ようもんじょしょう軍だった。彼らが陽動ようどう――敵の注意をそらすための見せかけの攻撃――に釣られ、そう軍本隊を追撃している間に、楊門女将はまるで嵐のように、耶律休哥やりつきゅうかの本陣へと迫っていたのだ。


先頭を駆けるのは、三人の女傑。先陣を切るのは、徐河じょが天門陣てんもんじんを破った穆桂英ぼくけいけい。その左右を固めるのは、楊業ようぎょうの娘たち、楊八姐ようはっけつ楊九妹ようきゅうまいだ。彼女たちは軽装の騎馬に乗り、風を切り裂いて迫ってくる。


曲者くせものめが!」


耶律休哥の護衛が叫び、剣を構える。だが、彼らが間に合うよりも早く、楊八姐と楊九妹が馬上から弓を構えた。彼女たちの弓術は、まさに神業かみわざ。一瞬の間に矢が放たれ、美しい弧を描いて耶律休哥の護衛の胸を次々と射抜いた。次々と倒れる兵士たち。その隙を突き、穆桂英が耶律休哥めがけて一直線に駆け寄る。


耶律休哥の心臓が、かつてないほど激しく脈打った。病に蝕まれ、老いを感じていたこの体が、まるで若き日のように血沸き肉踊る。目の前の穆桂英の姿は、彼自身の武人としての本能を呼び覚ました。


「見事……ならば、受けて立つ!」


耶律休哥は、穆桂英と一騎打ちで決着をつけるべく、自らの愛馬を駆り出した。全身を駆け巡る血潮が、まるで病を一時的に忘れさせたかのように、彼を奮い立たせる。馬蹄が大地を打ち、砂塵が舞い上がる。二人の間隔が、ぐんぐんと縮まっていく。


その時だった。


突如、愛馬のいななきが響き渡ったかと思うと、馬の体が大きく傾いだ。愛馬の前足が、信じられない角度に折れ曲がっている。老いた馬もまた、この激戦の連続の中で限界を迎えていたのだ。


「ぐっ……!」


耶律休哥は、抗う間もなく馬から投げ出された。激しい衝撃が全身を襲い、鈍い痛みが駆け抜ける。体を起こそうとするが、右足の骨が折れて動けないことに気づいた。その瞬間、彼の脳裏に、かつてないほどの絶望がよぎった。


その隙を逃さず、穆桂英は愛馬を駆る。楊九妹ようきゅうまいから素早く手渡された金槍きんそうを耶律休哥めがけて投擲とうてきした。投擲とは、物を投げつけることである。


投げ槍は、まるで意志を持っているかのように、吸い込まれるような美しい弧を描いて飛んでいく。


そして、その切っ先は、寸分違わず耶律休哥の胸を深く貫いた。


「耶律休哥どの……楊家将ようかしょうかたきを取らせていただきます」


穆桂英のつぶやきが、風に乗って耶律休哥の耳に届く。その声には、長年の恨みが込められていた。楊家将とは、宋を守るために戦い続けた楊一族の将軍たちのこと。彼らは耶律休哥やりつきゅうかが率いる遼軍との戦いで多くの犠牲を払ってきたのだ。


胸に突き刺さる槍の痛みよりも、彼の心を満たしたのは、不思議と清々しい感覚だった。


「見事だ……女戦士よ。」


血に染まりゆく意識の中で、耶律休哥はかすかに微笑んだ。


「あの世で、楊業ようぎょうが褒めているだろう……」


彼の意識が遠のいていく中、遠くから新たな馬蹄の音が近づいてくるのが聞こえた。


「休哥ーっ!」


叫び声とともに、駆けつけてきたのは、親友の耶律斜軫やりつしゃしん率いる遼軍の援軍だった。斜軫は、血まみれで倒れる耶律休哥の姿を見て、怒りに顔を歪めた。


宋軍は、遼の援軍の到着を知るや、一斉に撤退を開始した。敵軍を追い払った事で、遼軍は最終的に勝利を収めた。しかし、それはあまりにも大きな犠牲を伴う勝利だった。


遼の誇る名将、耶律休哥の死。


戦場に横たわる彼の亡骸を見下ろす耶律斜軫の目には、深く、そして拭いきれない悲しみが宿っていた。



〇神速の名将


冷たい風が、乾いた砂塵を巻き上げて吹き荒れる。その風は、りょうの地を覆う悲しみと、喪失の深さを物語っているかのようだった。徐河じょがの戦い、そうとの激しい攻防の末、遼は勝利を収めた。しかし、その代償はあまりにも大きかった。


本陣に運び込まれた耶律休哥やりつきゅうかの亡骸を前に、駆け付けた、承天皇太后しょうてんこうたいごうは膝から崩れ落ちた。彼の胸には、穆桂英ぼくけいけいが投げ放った槍が深く突き刺さっていた。まるで、彼の武人としての生涯を象徴するかのように。


「休哥殿……!」


彼女の口から漏れたのは、悲痛な叫びだった。それは、一国の主としての威厳を捨て去り、ただ一人の男を失った女の、純粋な慟哭どうこくだった。慟哭とは、声を上げて激しく泣き叫ぶこと。彼女の頬を伝う涙は、化粧を洗い流し、その顔に深い悲しみの痕を残した。


「せめてこの槍を……」


彼女は胸の槍を引き抜く。


つい先日、私室で交わした言葉が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。「私もあなた様をお慕いしていました」「残された時間がないのなら、せめて戦場で死にたい」。あの時、彼の覚悟を前に、ただ祈ることしかできなかった。しかし、本当にこんな形で彼と別れることになるとは。


「ああ、休哥……!」


承天皇太后は、彼の冷たくなった手に触れる。そこには、かつての力強い温もりはなかった。ただ、硬く、冷たい感触が、彼の死を容赦なく突きつけてくる。彼女の慟哭は、野営地の遼兵たちにも届き、多くの者が静かに涙を流した。彼らにとって、耶律休哥はただの将軍ではなかった。遼の未来を背負い、常に先頭で道を切り開いてきた、まさに生ける伝説だったのだ。


その傍らには、耶律斜軫やりつしゃしんが、呆然と立ち尽くしていた。彼の顔は、絶望に打ちひしがれている。親友であり、長年の戦友。共に幾多の戦場を駆け抜け、互いの背中を預け合ってきた絆は、何よりも固いものだった。


「休哥……馬鹿な、なぜだ……!」


耶律斜軫の声は、震えていた。怒り、悲しみ、そして何よりも深い喪失感。全身から力が抜け、彼はその場にへたり込んだ。彼の目に映るのは、若き日に共に夢を語り合った頃の友の姿。そして、天門陣てんもんじんを共に編み出し、無敵を誇った日々の記憶。それが、まるで遠い幻のように感じられた。


「お前は、まだ死ぬべきではなかった……!」


彼は拳を握り締め、地面を叩く。しかし、どんなに叫んでも、どんなに嘆いても、友が再び目を開くことはない。彼の死は、遼の歴史に深く刻み込まれるであろう、あまりにも大きな代償だった。


だが、耶律休哥の死は、決して無駄ではなかった。彼の身を賭した最後の戦い、あの疾風怒濤しっぷうどとうの用兵――激しい風と荒れ狂う波のように勢いのある、すさまじい勢いの戦術――が、宋軍の再度の侵攻を食い止め、燕雲十六州えんうんじゅうろくしゅうを宋の攻撃から守り抜いたのだ。燕雲十六州とは、万里の長城の内側に広がる、軍事的に非常に重要な地域のことを指す。ここを守り抜くことは、遼の国土と安全を守る上で不可欠だった。


彼の命と引き換えに、遼は確かな成果を手に入れた。彼の死は、遼の将兵たちの心に、決して消えることのない英雄像を刻み込んだ。


その後、耶律休哥の名は、遼の歴史において、神速しんそくの用兵の名将として、長く長く語り継がれることとなる。彼の戦術、その武勇、そして自らの命を顧みず国のために尽くしたその精神は、後世の将軍たちの手本となり、伝説として語り継がれていくことだろう。たとえその命が尽きようとも、彼の魂は、遼の広大な大地に、永遠に生き続けるのだ。

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