神速の将:耶律休哥⑬
〇天門陣の神髄
風が唸り、大地が震える。遼の名将、耶律休哥は、数万の精鋭騎兵を率いて疾駆していた。彼の目は、宋の兵糧輸送部隊を捉えていた。宋軍は真定や定州の兵一万余りを動員し、物資を威虜軍へ運んでいるという。
「奴らに食糧を届けさせてはならぬ。速やかに迎え撃て!」
耶律休哥の命令が響き渡ると、遼の騎兵たちは砂塵を巻き上げ、獲物へと向かう狼の群れのように突き進んだ。統和七年、西暦九八九年の秋、徐河の地で、歴史に残る戦いが始まろうとしていた。
だが、宋軍には異質な存在がいた。楊業の死によって傷つき、楊六郎というわずかな血筋しか残っていなかった楊家の者たち。その窮地を救うべく立ち上がったのが、「楊門女将」と呼ばれる女性たちだった。
彼女たちは軽装の騎馬兵で構成された、まさに女性だけの部隊だった。厳しい訓練によって、小型のボウガン、つまり小さな弓のような武器を馬上で巧みに操り、敵を射抜く戦術を確立していた。彼女たちはこの武器を「降竜木の神弓」と呼んでいる。
そのメンバーは、楊業の未亡人であり、楊一族の精神的な支柱である佘太君。高齢でありながらも、その眼光は鋭く、一族を率いて戦場に赴くことを躊躇しない。そして、楊業の七男、楊七郎の妻である楊七娘。彼女は勇猛果敢で、副先行将軍を務めることもあるという。さらに、楊業の娘である楊八姐と楊九妹、そして楊宗保の母、柴郡主らが、その名を連ねていた。
徐河で、遼軍は宋の将軍、尹継倫率いる軍と激突した。激しい鍔迫り合いの中、尹継倫軍の配下にいた楊門女将軍が、耶律休哥の遼軍に襲いかかった。
耶律休哥は一瞬、その光景に目を奪われた。まさか、女性の部隊が最前線に立つとは。しかし、彼の思考はすぐに切り替わった。
「面白い。ならば、我らが天門陣の真髄を見せてやろう!」
天門陣とは、遼が誇る必殺の陣形である。複雑に配置された部隊が、まるで巨大な門のように敵を包囲し、閉じ込める。敵は一度この陣に囚われると、まるで迷路に迷い込んだかのように方向感覚を失い、次々と各個撃破されていくのだ。耶律休哥は、この陣形を駆使して楊門女将軍を翻弄しようとした。
天門陣が展開されると、楊門女将の部隊は確かに苦戦を強いられた。縦横無尽に動き回る遼の騎兵に、彼女たちは徐々に包囲されていく。だが、その中にあって、一人の女性が光り輝いていた。穆桂英である。
彼女は楊宗保の妻であり、楊家に新しく加わった存在だった。穆桂英は、ただの女性ではない。かつて遼の大軍の包囲を打ち破った伝説を持つ、まさに武の才に恵まれた女傑だった。
「慌てるな! 私たちは、天門陣を破る術を知っている!降竜木の神弓を使うのだ!」
穆桂英の声が響き渡る。彼女は楊門女将たちをまとめ上げ、破天門陣という独自の戦術を編み出した。それは、天門陣の弱点を見抜き、それに逆らうような動きで、陣形を内側から崩していくものだった。
楊門女将たちは、穆桂英の指示に従い、小型ボウガンで遼兵を次々と射倒していく。彼女たちの動きは、まるで風のようだった。天門陣の複雑な動きに対し、楊門女将は流れるように、しかし確実に敵の陣形を切り裂いていく。
耶律休哥は驚愕した。これまで無敵を誇った天門陣が、あっという間に崩壊していく。彼の指揮下にある騎兵たちは混乱し、その隊列は乱れていった。
「まさか、この天門陣を破る者が現れるとは……!」
遼軍は、宋軍の猛攻と楊門女将の戦術によって大破された。耶律休哥もまた、この戦いの混乱の中で深い傷を負った。彼の誇り高き顔に、一筋の血が流れる。
戦場に、宋軍の勝利を告げる雄叫びが響き渡る。楊門女将たちは、この勝利によって「巾幗英雄」、つまり女性でありながらも男性に劣らぬ勇気と功績を挙げた英雄として、後世に名を残すこととなった。耶律休哥の脳裏には、颯爽と馬を駆る穆桂英の姿が焼き付いていた。これは単なる敗北ではない。新たな時代の幕開けを告げる、鮮烈な出来事であった。
〇翳りゆく神速の将
風が吹き荒れる。だが、その風はもはや、かつてのように耶律休哥の心を高揚させるものではなかった。徐河の戦いでの敗北以来、身体の奥底に巣食う異変が、彼の全身を蝕んでいた。あの戦いで、まさか宋の楊門女将――女性だけで構成された部隊――に、長年培ってきた天門陣を破られるとは。屈辱が、疲労を何倍にも増幅させる。
「老いたか……」
つぶやく声は、砂漠の砂のように乾いていた。以前なら、敗北の痛みは次への糧となったはずだ。だが今は、深手を負った体と、言いようのない倦怠感が彼を支配していた。日を追うごとに、体は鉛のように重くなる。胸の奥に感じていた違和感は、確かな「死病」としてその姿を現し始めていた。
そんな耶律休哥の元を訪れたのは、長年の戦友であり、親友の耶律斜軫だった。彼の目に、かつての輝きを失った友の姿は痛々しく映ったに違いない。
「休哥、どうした? 顔色が優れぬぞ」
斜軫は、心配そうに耶律休哥の顔を覗き込んだ。そのまっすぐな瞳に、耶律休哥は僅かに苦笑する。
「斜軫か……いや、大したことはない」
虚勢を張ってみても、長年の付き合いだ。斜軫はすぐに悟っただろう。無理に言葉を重ねることはしなかった。ただ、傍らに座り、静かに目を閉じた。しばしの沈黙の後、斜軫はゆっくりと語り始めた。
「覚えているか? あの日のことを」
斜軫が語り出したのは、若き日の二人が共に駆け抜けた戦場での記憶だった。
「初めて共に敵陣へ突っ込んだ時、お前はまるで稲妻のようだった。あの騎馬隊の先頭に立ち、あっという間に敵を切り裂いていく姿は、まさに『遼の飛将軍』と呼ぶにふさわしかったぞ」
飛将軍とは、かつて中国にいたとされる、並外れた武勇を持つ将軍のこと。まるで空を飛ぶかのように素早い動きで敵を翻弄する、伝説的な武将に例えられた言葉だ。
耶律休哥の脳裏にも、かつての光景が鮮やかに蘇る。あの頃は、敵の数がどれほど多かろうと、恐れなど微塵もなかった。ただ、ひたすらに勝利を求め、馬を駆り、剣を振るった。全身に満ちる血潮が、熱く脈打っていた。
「あの頃は、我々こそが天下最強と信じて疑わなかったな。どんな敵も、我らの前では塵芥に等しいと」
耶律休哥の声には、懐かしさと、そして微かな寂しさが混じっていた。
「ああ。お前が考案した天門陣も、その強さは誰もが認めていた。あの複雑な陣形は、敵を翻弄し、多くの勝利をもたらした」
斜軫の言葉に、耶律休哥は思わず顔をしかめる。天門陣。そう、あの誇り高き陣形が、あの楊門女将に破られたのだ。穆桂英という一人の女性が、女戦士たちを率い、破天門陣という対抗策を編み出し、見事に打ち破った。あの時の衝撃は、未だ癒えない傷となって心に突き刺さっている。
「だが、時代は変わるのだな。女兵士の部隊に、あれほどまで翻弄されるとは……」
耶律休哥は、苦笑ともため息ともつかぬ息を漏らした。だが、その言葉には、楊門女将への侮りよりも、むしろ畏敬の念が込められていた。彼女たちの武勇は、確かに遼の誇りを打ち砕いたが、その才能は認めざるを得なかった。特に穆桂英の才能は、自身の老いと重なり、時代の移り変わりを痛感させた。
斜軫は、友の言葉を聞きながら、その視線の先に深い悲しみを見た。耶律休哥の体が、蝕まれていることを知っているからだ。
「休哥、無理をするな。もう十分に戦った」
斜軫の優しい言葉に、耶律休哥はゆっくりと首を横に振った。
「いや……残された時間がないのなら、せめて戦場で死にたい」
彼の瞳に、再びかすかな光が宿る。それは、武人としての最後の輝きだった。戦場こそが、耶律休哥の生きた証。そこで散ることが、彼にとって最高の栄誉なのだ。斜軫は何も言わず、ただ静かに友の言葉を聞いていた。その言葉の重みが、深く、胸に響いた。遼の飛将軍は、最期の地を求めていた。
〇道ならぬふたり
夕闇が迫る頃、耶律休哥は主君である承天皇太后の私室へと呼び出された。徐河の戦いでの敗北以来、耶律休哥の心は晴れなかった。あの屈辱的な敗戦、そして身体を蝕む病の影。彼の心は、まるで荒れた冬の海のように波立っていた。
重い扉が静かに開かれ、香の匂いがふわりと漂う。承天皇太后は、柔らかな灯りの下に座っていた。彼女の顔はいつもと変わらず気品に満ちていたが、その瞳の奥には、どこか深い憂いが宿っているように見えた。
「休哥殿、お入りなさい」
その声は、優しく、しかし確かな響きを持っていた。耶律休哥は一歩足を踏み入れ、深く頭を下げた。
「陛下……」
承天皇太后は、彼に顔を上げるよう促した。そして、その視線は、耶律休哥の疲弊した顔をじっと見つめていた。
「徐河でのことは、私も聞いている。まさか、あの天門陣が破られるとはな。さぞ、お辛かろう」
天門陣とは、耶律休哥が長年かけて築き上げた、遼軍が誇る最強の陣形のこと。敵を迷路のように閉じ込め、圧倒的な力で打ち破る、彼にとっての切り札だった。それが、宋の楊門女将、特に穆桂英という女性の武将によって打ち破られた。その事実が、耶律休哥の心を深く抉っていた。
「……まことに、不甲斐ない限りです。老いた身には、もはや戦場は厳しく……」
耶律休哥の言葉に、承天皇太后の表情が曇った。
「まさか、引退を考えているのか? 遼には、休哥殿の力がまだ必要なのだぞ」
彼女の声には、焦りの色が混じっていた。耶律休哥は顔を伏せたまま、何も答えない。その沈黙は、彼女の不安を一層掻き立てた。
すると、承天皇太后は、ゆっくりと立ち上がり、耶律休哥の元へと歩み寄った。そして、信じられない言葉が、彼女の口から紡ぎ出された。
「耶律休哥殿……わたくしは、昔からずっと、あなた様をお慕いしていました」
耶律休哥は、はっと顔を上げた。承天皇太后の告白は、彼の凍てついた心を、激しい雷鳴のように打ち砕いた。彼女の瞳は、揺らめく灯りのように、真剣な光を湛えていた。
「わ、私に、ですか……?」
「ああ、そなたの武勇、そしてその清廉な人柄。どれをとっても、わたくしは深く惹かれていた」
彼の心臓が、激しく脈打つ。何と、こんなにも近くに、自分を想う人がいたのか。しかも、それは遼の最高権力者である承天皇太后。身分違いの恋。いや、恋と呼ぶことすら許されない、禁断の想い。しかし、耶律休哥の心にも、ずっと秘めていた感情があった。
「私も……私も、あなた様をお慕いしておりました」
絞り出すような声だった。
「だから、今までずっと独身でいたのです。あなた様以外の女性を、妻としようとは思いませんでした」
その告白は、耶律休哥が長年生きてきた中で、誰にも語らなかった真実だった。遼の勇猛な将軍として名を馳せた彼が、生涯妻を娶らなかったのは、密かに承天皇太后への想いを抱いていたからだった。彼女の崇高な地位、そして自分とのあまりにもかけ離れた身分。その差が、彼の心を常に縛り付けていたのだ。
しかし、同時に、胸の奥に差し込む一筋の光が、現実の壁にぶつかり、瞬く間に消えていくのを感じた。
「しかし……私と貴方は身分違い。それに、もう私は長く生きられない身。この病が、私を蝕んでいるのです」
耶律休哥は、自らの余命が長くないことを、承天皇太后に告げた。彼の言葉に、承天皇太后の顔に悲しみが広がった。
「そうか……」
彼女は、静かに目を伏せた。だが、その悲しみは、すぐに決意の光へと変わった。
「夫婦となれないのは承知しています。ですが、せめてあなたの無事を、せめてあなたの安らかなる最期を、この身に祈らせてください。そして…そして…」
「そして…?」
「今だけ…わたくしを…抱きしめて…」
承天皇太后は、耶律休哥の手を取った。その手は、小さく、しかし温かかった。その温もりが、彼の冷え切った心を少しずつ溶かしていく。
耶律休哥は、人生でただ一度だけ、愛する女性を強く抱きしめた。強く。優しく。
戦場を駆け抜ける中で、決して見せることのなかった彼の弱さ。そして、これまで誰にも理解されることのなかった、彼の密かなる想い。全てが、今、この瞬間、承天皇太后に受け止められた。
窓の外では、月が静かに輝いていた。その光が、二人の間に流れる、深く、そして悲しい愛情を、そっと照らしていた。耶律休哥は、もう一度、彼女の手を強く握りしめた。残された時間がどれほど短くとも、この温もりだけは、決して忘れないだろう。