表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/14

神速の将:耶律休哥⑫

〇南征の決断、御前会議の疾風


988年、統和とうわ6年。りょうの副都、南京なんけい――現在の北京を指す遼の副都――には、冬の厳しい寒さにも負けない、熱気が満ち溢れていた。そうとの間にくすぶる戦の火種を完全に消し去るべく、遼の皇帝、聖宗せいそうと、摂政せっしょうとして国政の実権を握る承天皇太后しょうてんこうたいごうは、ついに大規模な南征なんせい――南方への遠征――を決断したのだ。


御前会議ごぜんかいぎの場は、張り詰めた空気に包まれていた。聖宗はまだ若いが、承天皇太后しょうてんこうたいごうの瞳には、遼の未来を見据える強い意志が宿っていた。彼女は、遼の貴族たち、そして武将たちに語りかけた。


「宋との戦に、今こそ終止符を打つ時。この南征、私が自ら馬に乗り、兵を率いる!」


その言葉は、まるで雷鳴らいめいのように響き渡り、会議室の空気を震わせた。貴族たちは息を呑み、武将たちはその覚悟に胸を打たれた。承天皇太后しょうてんこうたいごうは、かつてないほどの威厳と、神々しいまでの輝きを放っていた。


________________________________


女将の覚悟、将軍の譲れぬ使命


承天皇太后しょうてんこうたいごうの言葉に、遼の将星、耶律休哥やりつきゅうかは、深く感動していた。彼の目に映る承天皇太后しょうてんこうたいごうの姿は、まさしく遼の守護神。彼女の勇気と、国を思う心は、休哥の胸を熱くさせた。


耶律休哥やりつきゅうかよ、後に続け!」


承天皇太后の声が、休哥の耳に直接響いた。女将じょしょう――女性の将軍のことだ――として自ら兵を率いるという彼女の決意は、彼にとって何よりも大きな激励であった。しかし、休哥には、決して譲れない、武人としての誇りと、遼の未来を守るという使命があった。


休哥は、一歩前へ進み出た。その瞳は、承天皇太后の揺るぎない覚悟をしっかりと受け止めながらも、自らの決意を固く示していた。


「承天皇太后様、恐れながら、申し上げます。この南征の先鋒せんぽう――軍の先頭に立って敵陣に突入する部隊のことだ――は、何卒なにとぞ、この休哥にお任せくださいませ!」


彼の声は、静かでありながら、その中に揺るぎないはがねのような意志が込められていた。先鋒とは、最も危険な任務である。敵の最も激しい抵抗に晒され、最初に血を流す覚悟が求められる。だからこそ、彼はこの役割を譲るわけにはいかなかった。


承天皇太后という国のかなめ――最も重要な部分――を、決して危険に晒すわけにはいかない。それが、耶律休哥の武人としての、そして忠臣としての譲れぬ一線であった。


承天皇太后は、静かに頷いた。彼女は、耶律休哥に先鋒の大役を任せることを決めたのだ。休哥は、承天皇太后の期待に応えるべく、その身を奮い立たせた。


「かしこまりました! 必ずや、勝利の道を切り開いてご覧に入れます!」


________________________________


君子館の激戦、天門陣の閃光


休哥の指揮する騎兵隊は、風よりも速く、雷よりも鋭い。彼らは、遼の主力部隊に先駆け、宋の国境へと猛進していった。その進撃は、まるで怒涛どとうの如く、宋軍の防衛線を次々と突破していった。遼の騎兵隊のひづめの音が、大地を揺らし、宋の兵士たちに恐怖を与えた。


そして、遼の先鋒部隊は、君子館くんしかんで宋軍と激突した。君子館は、現在の河北省にあったとされる。この戦いで、耶律休哥やりつきゅうかは、まさに神がかりとしか言いようのない、驚くべき采配さいはい――指揮を執ること――を披露した。


彼は、自らが編み出した天門陣てんもんじんを展開したのだ。天門陣とは、複雑に練り上げられた陣形で、敵を惑わせ、迷わせ、そして最後に殲滅せんめつ――全てを滅ぼすこと――する、まさに奇跡の陣形であった。それは、かつてりょうの仙人・呂洞賓りょ・どうひんが作ったとされる陣形の名と同じだが、休哥が編み出したのは、彼独自の、そしてより洗練された陣形であった。


休哥の指示は、まるで風のように戦場を駆け巡り、遼の兵士たちは、一糸乱れぬ(いっしみだれぬ)動きで陣形を変化させていった。一糸乱れぬとは、少しも乱れない、統制がとれている様子を指す。宋軍は、突然目の前に現れた複雑な陣形に、戸惑いを隠せない。彼らがその意図を測りかねている間に、休哥の騎兵隊は、天門陣の奥から、まるで稲妻のように飛び出した。


休哥の剣は、閃光せんこうのように舞い、次々と宋兵を打ち倒していった。彼の馬は、まるで大地を滑るように駆け抜け、その軌跡きせき――通った跡――には、次々と倒れる宋兵のしかばね――死体――が横たわった。遼の騎兵隊は、一度切り込んだら最後、決して止まらない。彼らは、宋軍の隊列の中を縦横無尽じゅうおうむじん――自由自在に動き回ること――に駆け巡り、まるで羊の群れを狩る狼のように、次々と敵兵をほふっていった。


宋軍は、休哥の電光石火でんこうせっか――動きが非常に速いこと――の突撃に、為すすべもなく、総崩れとなった。彼らの陣形は、まるでもろい砂の城のように、あっという間に崩壊していった。君子館の地は、宋軍の血で染まり、その敗走は、見る者全てに絶望を与えた。


この君子館の戦いでの大勝利は、遼の南征における大きな一歩となった。耶律休哥は、この戦いで再びその武勇と知略を天下に示し、聖宗と承天皇太后の期待に完璧に応えた。彼の功績は、遼軍全体の士気を高め、その後の南征の行方を大きく左右することになった。


________________________________


将軍の使命、未来への疾走


君子館での完勝は、耶律休哥の武名をさらに高めた。彼の名は、遼の歴史に、そして宋との戦いの歴史に、深く、そして鮮やかに刻まれていくことになった。彼は、遼の未来を背負い、その知略と武勇をもって、来るべき困難に立ち向かっていくのである。


聖宗と承天皇太后しょうてんこうたいごうの親征は、まだ始まったばかりであったが、耶律休哥の存在が、その後の戦局を有利に導くであろうことは、誰の目にも明らかであった。彼の疾走する人生は、これからも遼の繁栄のために、止まることを知らないであろう。



〇楊門女将


風が砂を巻き上げ、地平の向こうから悲報が届いた。楊宗保ようそうほの戦死。その知らせは、妻である穆桂英ぼくけいえいの胸を深くえぐった。楊家の男たちは、父である楊業ようぎょうをはじめ、次々と散っていった。残されたのは、義父ぎふ楊六郎ようろくろうただ一人。よう一族は、もはや風前の灯火ふうぜんのともしび――消え入りそうな小さな火のようだ――と囁かれていた。


しかし、穆桂英は嘆き悲しむ暇などなかった。悲しみに浸る時間など、戦場では許されないことを知っていた。


「皆、集まれ!」


彼女の声は、風に乗って屋敷中に響き渡った。集まったのは、楊家の女たち。義祖母ぎそぼである佘太君しゃたいくんをはじめ、義理の叔母おばにあたる楊七娘ようしちじょう楊八姐ようはっけつ楊九妹ようきゅうまい、そして義母ぎぼ柴郡主さいぐんしゅ。皆、悲しみを押し殺し、決意の表情を浮かべていた。


義父ぎふ楊六郎ようろくろう殿も重傷を負われた。楊家の男に指示を出せるものなし!しかし、このまま楊家を滅ぼすわけにはいかない。私たちは、この血を継ぐ者として、戦う!」


穆桂英ぼくけいえいの言葉に、皆の目が燃える。楊門女将ようもんじょしょう。それは、楊家の女たちが、男たちに代わって立ち上がった証だった。彼女たちは、女だけの軍を結成することを決意した。


________________________________


女将軍たちの猛訓練


戦場は、女たちにとっては未知の世界。だが、迷いはなかった。彼女たちは、軽装騎馬兵けいそうきばへいとなることを選んだ。軽装騎馬兵とは、鎧をあまり着けず、馬の速度を最大限に活かす騎兵のことである。速さが、彼女たち唯一の武器となることを穆桂英は理解していた。


そして、彼女たちは過酷な訓練を重ねた。朝から晩まで、馬に乗り、弓を引く。特に力を入れたのは、小型ボウガンを使った馬上弓ばじょうきゅうだった。小型ボウガンとは、片手で扱えるほど小さな弓で、矢を速く、正確に撃ち出せる武器だ。この弓は降竜木こうりゅうぼくという特別な木で作られている。それを、疾走する馬の上から放つ。最初は思うように矢が飛ばず、指先は血だらけになった。だが、誰も諦めなかった。


「もっと速く! もっと正確に!」


穆桂英ぼくけいえいは誰よりも厳しく、そして誰よりも長く訓練を続けた。砂埃が舞う中、彼女たちの放つ矢は、的に吸い込まれるように命中するようになった。馬上からの連続射撃も可能になり、敵の隊列を崩すための戦術が確立された。戦術とは、戦いを有利に進めるための方法のことである。


________________________________


尹継倫いん けいりん軍との合流


ある日、りょうの兵が国境を越えたという報せが入った。遼は、契丹きったん族が建てた国で、当時宋そうと敵対していた強国だ。宋の朝廷は、これを撃退するため、尹継倫いん けいりん率いる軍を派遣した。尹継倫いん けいりんは、遼との戦いで数々の功績を挙げてきた、経験豊富な将軍である。


穆桂英ぼくけいえいは、楊門女将が単独で遼の大軍と戦うのは無謀だと判断した。彼女は冷静に状況を見極め、尹継倫いん けいりんの軍との連携こそが、勝利への鍵だと確信した。


「出陣する! 尹継倫いん けいりん将軍の軍と合流する!」


穆桂英ぼくけいえいの号令に、楊門女将たちは一斉に馬に飛び乗る。馬蹄ばていの音が大地を揺らし、女たちの魂を鼓舞する。疾走する馬の上、風が髪をなびかせる。この風が、彼女たちに力を与えてくれるかのように思われた。


数日の行軍を経て、楊門女将は尹継倫いん けいりんの軍と合流を果たした。当初、女たちの軍の登場に、宋の兵士たちは戸惑いを隠せなかった。しかし、穆桂英は臆することなく、尹継倫の前に進み出た。


穆桂英ぼくけいえいと申します。我ら楊門女将は、遼を打ち破るため、尹継倫いん けいりん将軍の配下として戦わせていただきたく参りました」


穆桂英ぼくけいえいの凛とした態度と、楊門女将たちの訓練された様子を見た尹継倫いん けいりんは、その覚悟を理解した。彼は深く頷き、彼女たちの合流を受け入れた。


「ようこそ、楊門女将よ。遼を打ち破るため、共に戦おう!」


尹継倫いん けいりんの言葉に、穆桂英ぼくけいえいの目には強い光が宿った。戦場は、もはや男だけの場所ではない。女もまた、戦場を駆けることができる。彼女たちの心には、夫や父、そして楊家の誇りが燃え盛っていた。新たな戦いの幕が、今、上がろうとしていた。



〇女たちの戦い


吹き荒れる砂塵の向こう、りょうの地平には、常にそうとの終わりなき戦いの影が落ちていた。その中で、われら契丹きったん族の将、耶律休哥やりつきゅうかは、風を斬る疾駆しっくをこそ至上の喜びとした。馬上の身には、故郷の風が吹き抜け、この血潮をたぎらせる。


「休哥様、宋のよう一族に新たな動きが」


斥候せっこうの声が、たった今勝ち取ったばかりの戦の余韻を破った。宋の楊業ようぎょうは、先の戦で我らの手にかかり果てたはず。その楊一族が、今や風前の灯火ふうぜんのともしびだと聞いていた。まさか、まだ戦意を燃やす者がいるというのか。


「新たな動きとは?」


問いかけると、斥候はわずかにひるんだ様子を見せた。


「それが……楊一族の女たちが、軍を結成したと。楊門女将ようもんじょしょうと名乗っております」


楊門女将? 女が軍を? 私は思わず鼻で笑った。戦場は男の領域。弓馬の道は、筋骨たくましい男たちが血と汗で築き上げてきたもの。女がそこに足を踏み入れ、何ができるというのか。


「笑っている場合ではございません、休哥様。彼女たちの軍は、軽装騎馬兵けいそうきばへいで構成され、小型の弓を巧みに操るとか」


軽装騎馬兵。それは鎧をあまり着けず、馬の速度を最大限に活かす騎兵のことだ。そして小型弓とは、片手で扱えるほど小さな弓で、矢を速く、正確にボウガンのように撃ち出せる武器だ。それを馬上で使うというのか。想像すると、絵面は奇妙だが、戦術としては厄介かもしれない。


「そうだな。戦場の女を笑っては、承天皇太后しょうてんこうたいごう様に怒られそうだ。反省すべきだ。して、その女たちの頭は誰だ?」


「楊業の未亡人、佘太君しゃたいくんよわいは老女と言われておりますが、その気迫は並々ならぬとか」

老女が軍を率いる? ますます奇妙な話だ。だが、侮ることはできない。百戦錬磨ひゃくせんれんまの将として、私はどんな敵をも軽視しない。


「他には?」


「楊業の七男、楊七郎ようしちろうの妻、楊七娘ようしちじょう。そして楊業の娘である楊八姐ようはっけつ楊九妹ようきゅうまい。さらには楊宗保ようそうほの母、柴郡主さいぐんしゅ楊宗保ようそうほの妻、穆桂英ぼくけいえいといった面々が名を連ねていると」


楊一族の未亡人や娘、嫁たち。つまり、男手が尽きた楊家が、女たちを戦場に送り出したということか。それは楊家の窮状きゅうじょうを物語っている。窮状とは、とても困った状況のことだ。だが、追い詰められた者がどこまで力を出すか、それは油断できない。


「なるほど。つまり、残された楊六郎ようろくろうという男一人では、我々に対抗できないと見て、女たちを表舞台に押し出したというわけか」


耶律休哥やりつきゅうかあごに手をやり、思案した。軽装騎馬兵と小型ボウガンの組み合わせ。これは、我々の軽装騎馬兵の速度に対する、速さと遠距離攻撃で攪乱かくらんを狙う戦術だろう。攪乱とは、敵の隊列や秩序を乱し、混乱させることだ。


「よし、我々も備えをおこたるな。女だからと侮るな。戦場に女が立つ以上、それは相当な覚悟と練度れんどを持っているはずだ。練度とは、訓練によって得られた技術や熟練度のことだ」


私の言葉に、部下の顔に緊張が走る。我々契丹族の誇りにかけて、どんな敵であろうとも、正面から迎え撃つ。


数日後、斥候せっこうから報告が入った。楊門女将の騎馬隊が、我々の前線陣地ぜんせんじんちに迫っているという。陣地とは、軍隊が活動するための拠点のことだ。


「来たか!」


耶律休哥やりつきゅうかは馬に飛び乗る。風を斬る疾走感、ひづめの響きが大地を揺らす。彼方の砂塵の中に、微かに黒い影が見え始めた。それは確かに、軽装の騎馬隊。女たちの放つ矢は、風を切り裂き、我々の兵士たちを襲うだろう。だが、我々契丹の戦士も、幾多の戦場を乗り越えてきた猛者もさばかり。


「かかれ! 遼の誇りにかけて、この地は通さぬ!」


耶律休哥やりつきゅうかは高らかに叫び、長年を共にする愛馬の腹を蹴った。疾風しっぷうのごとく敵陣へと突っ込む。楊門女将。その名が、今、耶律休哥やりつきゅうかの心に深く刻まれた。この戦、単なる勝利では終わらない。宋の女たちが、戦場に何をもたらすのか。この目で確かめてやる。風が耳元を過ぎ、血潮が沸騰する。戦の幕が、再び上がる。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ