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神速の将:耶律休哥⑩

〇穆柯寨の女傑、運命の疾走


北方の空に、りょうそう戦雲せんうん――戦争の気配――が渦巻く時代。宋の軍を率いる将軍、楊六郎ようろくろう――その本名は楊延昭ようえんしょう楊業ようぎょうの六男だ――は、ある大きな課題に直面していた。それは、遼の将軍、耶律休哥やりつきゅうかが得意とする、恐るべき「天門陣てんもんじん」を破ること。天門陣とは、非常に複雑で、敵を惑わせ、迷わせる強力な陣形のことだ。楊六郎は、その陣を破るために、「降竜木こうりゅうぼく」という特別な木を柄にした武器が必要だと知った。降竜木は、龍さえもその力を抑え込むとされる、伝説の木であった。


楊六郎は、その降竜木を手に入れるべく、息子である若き将、楊宗保ようそうほに命を下した。宗保は、楊家の血を受け継ぐ、将来を嘱望しょくぼう――将来に期待すること――された武将であった。彼の顔には、若さゆえの情熱と、父の期待に応えようとする決意が満ちていた。


楊宗保ようそうほは、降竜木があるとされる伝説の地、穆柯寨ぼくかさいへと向かうことになった。穆柯寨は、人里離れた険しい山奥に位置し、その存在を知る者も少なかった。しかし、そこで彼を待ち受けていたのは、彼の人生を大きく変えることになる、予想だにしない人物であった。穆柯寨の首領の娘、穆桂英ぼくけいえい


彼女は、まだ若く、しかしその眼光は鋭く、全身からは武人の気がみなぎっていた。漲るとは、満ち溢れるという意味だ。彼女の姿は、まるで山中に咲く一輪の花のように可憐でありながら、その瞳の奥には、猛々しいまでの武人の光が宿っていた。


楊宗保は、穆桂英ぼくけいえいに降竜木を渡すよう丁重ていちょう――丁寧で礼儀正しいこと――に要求した。


穆桂英ぼくけいえい殿、我らが父は、天門陣を破るため、どうしても降竜木が必要なのです。どうか、お力をお貸しいただけないでしょうか?」


しかし、穆桂英ぼくけいえい毅然きぜん――意思が強く、しっかりしている様子――としてこれを拒絶した。彼女の心には、ある一つの思いが芽生えていたのだ。楊宗保ようそうほの凛々(りり)しい姿、そのまっすぐな瞳に、穆桂英ぼくけいえいは一目惚れしてしまっていたのである。


「降竜木が欲しければ、私と戦い、私に勝て!」


穆桂英ぼくけいえいの言葉は、戦場の空気を一変させた。楊宗保ようそうほは、まさか女性から一対一の勝負を挑まれるとは想像だにせず、一瞬の油断を突かれた。穆桂英ぼくけいえいの剣は、まるで水の流れのようにしなやかでありながら、鋼鉄をも打ち砕くかのような鋭さを持っていた。彼女の動きは、予測不能であり、楊宗保ようそうほは為すすべもなく、打ち負かされた。そして、穆桂英ぼくけいえい楊宗保ようそうほを打ち負かすだけでなく、なんと生け捕りにしてしまう。


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陣前招親、そして父の激怒


捕らえられた楊宗保ようそうほに、穆桂英ぼくけいえいはさらに大胆な要求を突きつけた。


「降竜木が欲しければ、私と結婚することだ!」


穆桂英ぼくけいえいの瞳には、武人としての強さだけでなく、女性としての情熱が燃え盛っていた。降竜木を手に入れなければ、父の楊六郎に顔向けできない。そして、何よりも命を懸けて戦う楊宗保の姿に惹かれていた宗保は、この突拍子もない要求を受け入れることになった。それは、戦場で敵方の女性武人と結婚するという、「陣前招親じんぜんしょうしん」と呼ばれる、劇的な展開であった。


息子がいつまでも帰ってこないことを心配した楊六郎は、自ら精鋭の兵を率いて穆柯寨に乗り込んだ。しかし、そこで彼を待ち受けていたのは、宗保が穆桂英ぼくけいえいと勝手に結婚していたという、衝撃的な事実であった。楊六郎は、軍律違反として楊宗保ようそうほを死罪に処そうと激怒した。彼の怒りは、まるで荒れ狂う嵐のようであった。


「軍規を乱す行為、決して許されぬ! 宗保、死罪に処す!」


その時、穆桂英ぼくけいえいが楊六郎の前に颯爽さっそう――きびきびとして気持ちが良い様子――と現れた。彼女は、圧倒的な武勇をもって、楊六郎の部下たちを次々とねじ伏せ、楊宗保ようそうほを救い出した。穆桂英ぼくけいえいの存在は、楊家にとって、そして宋と遼の戦いの歴史に、新たな波乱をもたらすことになったのである。


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楊家将の一員、新たな疾走


穆桂英ぼくけいえいは、楊六郎の前に進み出た。


義父上ちちうえ――妻の父、ここでは楊六郎のこと――、宗保の命をお許しください。私は、楊家に尽くし、天門陣を破るため、この身を捧げます!」


彼女の言葉には、揺るぎない覚悟と、宋への忠誠が込められていた。楊六郎は、穆桂英ぼくけいえいの武勇と、その心意気に感銘を受けた。そして、彼女が「天書」に予言された救国の女英雄であることを知り、息子を許し、穆桂英を受け入れることを決意した。


こうして、穆桂英ぼくけいえいは、楊六郎の父である楊業ようぎょうが率いる、宋の誇る名門武家、楊家将ようかしょうの一員となった。彼女の登場は、楊家将に新たな息吹を吹き込み、その後の遼との戦いに大きな影響を与えることになる。


穆桂英ぼくけいえいの疾走する人生は、これから、宋の軍を、そして楊家を、予測不能な方向へと導いていくことになる。彼女の剣と知略が、北の大地に、新たな歴史を刻み始めるのである。



〇再燃する戦火、北の地を駆ける


986年、統和とうわ4年。北の大地には、再び戦の足音が、地響きのように近づいてきていた。前年の高梁河こうりょうがでの敗北、そして雁門関がんもんかんでの楊業ようぎょうの活躍にもかかわらず、そうの皇帝・太宗たいそうの野心は、決して潰えていなかった。りょうが支配する燕雲十六州えんうんじゅうろくしゅう――現在の北京を含む、戦略的に重要な地域だ――を奪還する。その揺るぎない決意を胸に、太宗は、再び大規模な北征ほくせい――北方への遠征――を企てたのである。


遼の若き将星、耶律休哥やりつきゅうかは、この動きを肌で感じていた。南京なんけい――現在の北京を指す遼の副都――の留守りゅうしゅとして、南面の軍務を総統そうとう――全てを統括し、指揮すること――する彼の使命は、遼の国を守り抜くこと。その重責が、彼の肩にずしりと乗っていた。


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宋の三路侵攻、遼軍の苦境


宋は、遼を完全に屈服させるべく、かつてない規模の軍勢を投入した。軍は三つのみちに分かれ、まるで三本の巨大な槍のように遼の心臓部を目指して進軍を開始した。


第一の槍は、西から。宋の将軍である范密はんみつ楊継業ようけいぎょう――「楊無敵」と畏れられる楊業その人だ――らが、雲州うんしゅう――現在の山西省だ――から荒々しい勢いで進撃してきた。彼らの目的は、遼の西側を制圧し、本隊の進撃を助けることにあった。


第二、第三の槍は、東から。宋の屈指の将軍である曹彬そうひん米信べいしんらが、雄州ゆうしゅう――現在の河北省にある――と易州えきしゅう――これも現在の河北省だ――から、それぞれ軍を率いて進軍を開始した。彼らは、遼の副都である南京へと直接迫る、主力部隊であった。


宋軍の進軍は、緒戦しょせん――戦いの最初の段階――から勢いを見せた。彼らは、遼の重要な拠点である岐溝関きこうかん――現在の河北省に位置する要衝だ――や涿州たくしゅう――これも現在の河北省にある――を次々と占領し、遼の防衛線を突き破っていった。さらに、固安こあん陥落かんらく――敵の攻撃によって城が落ちること――させ、そこに広大な屯営とんえい――一時的な駐屯地のことだ――を築いた。宋軍の猛攻により、遼の南部辺境は瞬く間に危機に瀕し、その防衛線は今にも崩れ落ちそうであった。


この時、遼の主力部隊である南北院の奚部けいぶの兵は、まだ戦場に到着していなかった。遼の若き将星、耶律休哥は、手元にわずかな兵力しかない、寡兵かへい――少ない兵力のことだ――という絶望的な状況に追い込まれていた。彼の前に広がる戦場は、まるで闇に包まれた奈落ならく――地獄、または底なしの淵のことだ――のようであった。しかし、彼は決して諦めなかった。休哥の瞳には、燃え盛る炎のような決意が宿っていた。この窮地きゅうち――苦しい状況のことだ――を、必ず乗り越える。彼の心は、そう叫んでいた。



〇夜闇を駆ける疾風、混乱の種を蒔く


986年、統和とうわ4年。そうの大軍がりょうの辺境を蹂躙じゅうりん――踏み荒らすこと、ここでは一方的に攻め込むこと――する中、疾風の将星、耶律休哥やりつきゅうかは、絶望的な状況に立たされていた。手元にあるのは、わずかな兵力しかない寡兵かへい――少ない兵力のことだ。宋軍は、数で圧倒し、まるで荒れ狂う津波のように遼の防衛線を押し潰そうとしていた。しかし、休哥は諦めなかった。彼の瞳には、燃え盛る炎のような決意が宿っていた。


休哥は、その知略と武勇を最大限に発揮した。彼は、自らが率いる精鋭の軽騎兵けいきへい――軽装備で素早い動きができる騎兵のことだ――部隊を率いて、夜闇に紛れ、宋軍の間に潜り込む攪乱かくらん――混乱させること――戦術を展開したのである。それは、まさに神出鬼没しんしゅつきぼつ――自由自在に現れたり隠れたりして、所在がはっきりしない様子――の極致きょくち――最高の状態――であった。


夜の闇の中、休哥の騎兵隊は、風のように現れては消え、宋軍の陣営に突如として姿を現した。彼らは、敵兵の隙を突き、矢を放ち、雷鳴らいめいのようなときの声を上げては、すぐに闇へと溶け込むように姿をくらませた。宋軍の兵士たちは、どこから攻撃されているのか分からず、常に神経をすり減らしていた。眠ろうとすれば、遠くでひづめの音が聞こえ、耳を澄ませば、闇の中から矢が飛んでくる。彼らは休息も取れず、精神的に追い詰められていった。


休哥の狙いは、宋軍の疲弊ひへい――疲れ果てて弱ること――であった。彼の神出鬼没な攻撃によって、宋軍の進軍速度は目に見えて鈍り、その士気しき――物事を行う意欲や精神力――も大きく低下していった。宋軍の将軍たちは、どこに耶律休哥の部隊が潜んでいるのか分からず、恐慌きょうこう――ひどく慌てること――状態に陥っていった。


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岐溝関きこうかんの激突、宋の野望砕く


そして、両軍は岐溝関きこうかんで再び激突した。宋軍の疲弊は、休哥の攪乱戦術が功を奏したあかしであった。耶律休哥は、この機を逃さなかった。彼の目に映るのは、疲弊しきった宋の東路軍を率いる曹彬そうひん米信べいしんらの部隊。彼らは、まさに叩き潰すべき標的であった。


「全軍、突撃せよ!」


休哥の号令が、戦場の空気を切り裂いた。彼の騎馬隊は、まさに疾風しっぷうの如く、宋軍の陣形へと突入した。その速さは、宋兵が視認しにん――目で確認すること――する間もなく、彼らの隊列を切り裂いていくほどであった。休哥の剣は閃光せんこうのように舞い、その一振りごとに、宋兵の悲鳴が上がる。彼の馬は、まるで大地を滑るように駆け抜け、その軌跡きせき――通った跡――には、次々と倒れる宋兵のしかばね――死体――が横たわった。


宋軍は、休哥の電光石火でんこうせっか――動きが非常に速いこと――の突撃に、為すすべもなく、総崩れとなった。彼らの陣形は、まるでもろい砂の城のように、あっという間に崩壊していった。休哥の騎兵隊は、一度切り込んだら最後、決して止まらない。彼らは、宋軍の隊列の中を縦横無尽じゅうおうむじん――自由自在に動き回ること――に駆け巡り、まるで羊の群れを狩る狼のように、次々と敵兵をほふっていった。宋軍は、もはや組織的な抵抗は不可能となり、ただ逃げ惑うばかりであった。岐溝関きこうかんの地は、宋軍の血で染まり、その敗走は、見る者全てに絶望を与えた。


この岐溝関きこうかんの戦いは、宋の皇帝・太宗が企てた大規模な北征の意図を完全にくじくものとなった。宋は、この敗北によって、遼に対する大規模な侵攻を一時的に諦めざるを得なくなったのである。耶律休哥の、わずかな兵力で大軍を打ち破ったこの勝利は、遼の歴史に、そして彼の武名に、輝かしい一ページを加えた。彼の名は、北の大地に轟き渡り、宋の将兵たちは、彼の姿を見るたびに恐れおののくようになるだろう。彼の疾走する人生は、遼の未来を背負い、さらにその輝きを増していくのであった。

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