その3 ナイトメア
「わたし、魔術師なの」
そう彼女は言った。
「これは取っておきの秘密。人に話しちゃだめだよ。じゃあ、またね」
そう言い残して、彼女は去って行った。
解らない。
何故彼女は、あんな事を俺に言ったのか。
俺の気を惹く為? いやいや、違うだろう。彼女は、わざわざそんな事をしなくても上手くやれる気がする。じゃあ本当に魔術師なのか? 魔術師といえば、なんか魔法を使う術師という事だろう。そんな魔術師なんて本当に居るのだろうか。少なくとも今まで魔術師なんて存在に出会った事はない。それに本当だとして、何故俺に言う必要がある? その理由が解らない。結論が出ず、思考が堂々巡りして疲れてきた。それに今日は一日中、色々有り過ぎて、頭が整理できていない。帰ったら少し休んで整理しようと思った。
家に帰り着き、母親が用意した夕食を済ませた後、自室に籠もる。夕食中、母親が何やら話し掛けていたような気がしたが、何を話し、俺が何を応えたか思い出せなかった。ずっと考え事をしていた気がする。そして考えていた事を忘れてしまっているのだから始末におけない。頭の中の整理しようとすればするほどに、混乱していく。今日はほんとに、頭が凄く疲れている。何もする気が起きない。このまま起きていてもなんの生産性も無さそうだったので、諦めてそのままベッドの上に寝転がった。
そういえば、今日はまだ日課の由美へのメッセージを送っていなかった。今まで忘れた事など無かったのに。今日は、やっぱり色々と何かがおかしいのだ。起き上がってメッセージをとも思ったが、もうそんな気力も湧かず、直ぐに微睡みの中に落ちてしまった。
「隼人くん、隼人くん、隼人くん」
何処か遠くから聴こえる様な、それでいて耳元で囁かれている様な、そんな矛盾した声がエコーして響き始めた。その声の反響がどんどん大きくなり、全身にまで響き渡ると、突然、こめかみに太いキリをぐりぐりと挿し込まれているような強烈な痛みを味わった。目から火花が散る。本当にそんな感じだった。あまりの痛みに誰か助けてくれと叫んだ。しかし身体が金縛りになっており、声も出せなくなっていた。頭蓋骨が破砕されるような痛みに意識が薄れていく。
「もう少し頑張って、お願いだから」
不意に誰かの声が近くで聴こえた。声の主は俺の手を優しく握っているようだ。その手の暖かさが、不安や恐怖の気持ちを和らげてくれた。相変わらず、こめかみを押してくる痛みは続いていたが、もう少し耐えられそうな気がした。
「いいよ、いいよ、その調子。気をしっかり持ってね」
声の主を見ようとするが、顔も動かせなくなっており、眼の可動範囲では、その姿を捕えられなかった。
「うーん、そろそろ限界そうね。しょうがない。潰すか」
そんな物騒な台詞が聴こえたが、反応する気力は既に無かった。気を許せば意識が闇の中に沈みそうだった。
「出来ればそのまま寝てて欲しい。頑張って」
そう云うや否や、こめかみに刺さったていた何かが強引に引き抜かれる。声が出せたなら相当な悲鳴を上げていただろう。金縛りの状態のまま、切り裂かれる様な痛みに耐え続ける。暴れまわる強烈な痛みを何処へも逃がせないまま悶え苦しむ。もし身体が動いていたなら暴れてあちこちに身体をぶつけていた事だろう。
「よしよし、よく耐えた。いいかい? 起きない様に静かに身体を動かして見て、ゆっくりと呼吸しながらね。もう身体は動く筈だから」
声の主の言う通りに、呼吸を整えて手をにぎにぎする。金縛りはいつの間にか解けていた。身体を動かす事が出来そうだ。
まだ頭がぼやけているが、そのまま身体を静かに起こして声の主を見る。声から予想はしていたが、やはり姫だった。
目の前の彼女は、紺色のゴスのメイド服を着込んでいた。
「ああ、これね。やあ、わたしもね、これ恥ずかしいんだけどさ。マスターが仕事するときは絶対に着ろってうるさくてさあ」
少し顔を赤らめて本当に恥ずかしそうに「あんまりジロジロ見ないでよ」と、もじもじしていた。
そんな反応を姫がするとは思いもよらなかった。凄く新鮮で、もしかして姫は凄く可愛いのではないかとぼんやりとした頭で思った。
ベッドから起き上がって暫くすると、少しずつ頭がハッキリしてきた。そうだ、俺は部屋で寝ていたはずだ。だから、当然の疑問を彼女にぶつけた。
「おまえ、何で此処に居るんだ? どうやって入った?」
「隼人くん、此処を何処だと思う?」
「何処って、此処は俺の部屋だ」
「本当にそう見える? よく見てご覧よ」
「はぁ?」
そう言われて周りを見渡す。
「どう見ても俺の部屋だが。何だって言うんだ。また俺をからかってやがるのか」
「まだ頭がハッキリしてないようね。少し手伝ってあげよう。えいっ」
そう言って彼女は俺の頭に触れてきた。その瞬間、まるで深い水の中から陸に上がった様に、周りを取り囲んでいたものから解放された様な感覚を覚えた。そしてハッキリと解った。此処は俺の部屋じゃない。似ているが、細部色々と異なる。家具の配置も出鱈目だ。そもそも扉の位置も違う。何故さっき自分の部屋だと思ったのか、自分が信じられない。
「此処はね、隼人くんの夢の中だよ。ほら、夢ってさ、全然現実と違う場所なのにさ、そこがいつも住んでいる自分の家だと思ってたりするじゃん。さっきの隼人くんが、そんな感じ。今もまだ、夢の中に居るんだよ」
「ほう? それで、今俺の前にいるお前は、俺が夢で創り出した妄想とでも言うのか?」
「ん? ああ、わたしはわたしだよ。ほら、今日別れ際に言ったじゃん。わたし、魔術師だよって。今、目の前に居るのは、隼人くんの夢に入って来たわたしよ。急に入って来たら驚くと思って、先に言っておいたの」
「いや、充分に驚いたし。それに魔術師って言われただけで解るか、そんな事」
「ごめんごめん、でも、隼人くんもいけないんだよ。わたしの話しちっとも信じようとしてなかったし」
「そんな話ししてなかっただろ」
「待って、今はそれどころじゃないの。詳しい話は後で。隼人くんは、起きない様に注意して。目が覚めたらこの世界が消えてしまうから」
「消えたらどうなるんだ?」
「わたしが追い出される」
「は? なんて?」
「隼人くん。わたしが何しに此処に来たと思ってんの?」
「知らねーよ」
「見て、部屋の片隅。さっき引き剥がした奴よ」
姫が指差す方を見ると、イノシシのような形をした黒い煙が揺らめいていた。
「なんなんだあいつは?」
「あれはナイトメア。人の夢の中で襲ってくる魔物よ。さっきまであいつが隼人くんの身体に被さっていたのよ」
あんな物が被さっていただと。正直ぞっとする。喰われ掛かっていたのだろうか。想像したくもない。こめかみに刺さっていた痛みって、もしやあいつの牙か何かだったのだろうか。
「お前が引き剥がさなかったら、俺は?」
「死んでたか、生きていてもなんか今までと違った者になっていたかもね」
なにそれ怖いじゃないか。感謝した方がよさそうだな。こいつに感謝するのはなんとなく悔しい気もするが。
「じゃあ、あいつを捕まえるまで、しっかり寝ていてね。起きちゃだめよ」
そんな事を言われても何をどうしたらいいのかさっぱりだった。起きない様にするって、どういう事よ。
「来るよ」
黒い煙のイノシシは、姫に向かって飛びかかった。
姫は左手でそれを受け止め様とするが、イノシシの勢いに押されて後ろにふっ飛ばされる。派手に壁にぶつかり、倒れてきた本棚の下敷きになってしまう。
咄嗟に、姫の前に立ち、イノシシの追撃から彼女を守る。イノシシは警戒しているのか、唸りながら近づこうとしない。酷い獣臭を漂わせながら、隙を伺うように体を揺らしている。こいつに飛び掛かられたら、防げる気がしない。姫の様子をチラリと覗う。彼女は本棚を押し上げながら立ち上がって来るところだった。
「無事か?」
姫は無言で頷く。
「思ったより強力な奴だわ。隼人くん、ちょっと盾になってくれる?」
「なんだと? 盾になれだと?」
「なんか知らないけど、貴方には攻撃して来ないみたいだから」
「ホントかよ? いやでも、俺に覆いかぶさっていたんだろ?」
「あれは攻撃じゃないわ。だから大丈夫よ。それじゃあ任せたよ。ちょっとだけ時間を稼いでくれればいいから」
攻撃じゃない? じゃあ一体何だって言うんだ?
此方の戸惑いをガン無視して、姫は背後でなにやら唱え始めた。
「Hatha vel Tzulkam, Haruveg'el, Haludegeth, Elmaronema... Salkor’nas vel Eiden!」
姫が唱え終わると、閃光が走り、イノシシを包む。周りの空気がイノシシを中心にどんどん収縮していく。それがビー玉サイズぐらいに達すると、限界を迎えたのか、ついには爆散した。
「おお、やったのか?」
イノシシは、散り散りになり跡形も無くなっていた。しかししばらくすると爆散した黒い霧が、まるで逆再生するように集まり、再び一つの塊に戻っていく。
「なかなかに、しぶといわね。まあ、そう簡単に行くとは思って無かったけど」
姫は、イノシシを避けながら、この狭い部屋を走り回り始めた。
俺も何か出来ないかと考えた。そういえば木刀が有ったはずだと思い出し、取り出そうとした手が止まる。そうだった。此処は、本当の俺の部屋じゃない。これは夢の中だ。木刀がどこにあるかなんて。
「有ると思えば、有るんだよ。夢ってそういうもんだろ?」
夢の中なら木刀を持っていると思えば、持っていたりする。そうだ。持っていると思い込めばいいだけだ。いつも素振りしている感覚を思い出し、手に持っている木刀の感覚を再現した。するといつの間にか右手に木刀が握られていた。よし、行ける!この勢いのまま、姫に襲いかかろうとするイノシシに向けて、木刀を振り下ろす。バンっと振り下ろした勢いそのままに弾き返される。
「隼人くん、そのまま引き付けておいて!」
姫は部屋のあちこちに様々な色を放つ光の玉を貼り付けている。あれが切り札か何かになるのだろうと直感した。無事にすべて貼り付け終わるまで、こいつを引き付けておく。それが今俺に出来ることだった。
「さあこい、イノシシやろう!」
木刀を構え直し、小刻みに振って牽制を繰り返す。
イノシシが俺の隙をついて、姫に飛びかかろうとするのを咄嗟に手で掴んで引き戻す。掴んだ手の平が、電気を浴びた様に酷く痺れた。すごく気持ち悪い感覚だった。イノシシは俺から逃れようと必死に暴れ、あちこちに噛み付いてきた。
「おーい。まだか? なんとかならねーのか?!」
首を噛まれないように必死で抵抗する。しかし、もうこれ以上防ぎきれない状況に根を上げそうだった。イノシシは、手や脚だけでなく、兎に角口に触れるもの全てに噛み付いてきた。
「上出来よ。準備OK。いくよ! Nia'hpos Rua!」
姫の発声に伴って、部屋中に貼られた光の玉が共鳴しだす。相互に光の玉から光線が連結し、そのそれぞれの光線がイノシシの身体に突き刺さり、その動きを止めた。
イノシシはそれでも逃れようと藻掻いていたが、抜け出すことは出来そうになかった。
「さあて、お前は誰のナイトメアなのかなあ。正体を見せてもらうよ」
姫はイノシシに近付き、その顔を掴んだ。そして、その中を覗き込もうとする。
そのときだった。世界がひび割れた。まさに文字通りにだ。部屋の壁や天井、床、あらゆるところに亀裂が入り裂けた。
「な? なんだ? なんだ?」
「む? あと一歩というところなのにぃ。残念。時間切れか。隼人くん、誰かに起こされてるみたいね」
やれやれと言った顔で、彼女は俺を見た。
「じゃあ、また明日、学校で。ああ、もう解ってると思うけど、この事は秘密だよ」
右目でウインクをして、姫は一瞬の間に姿を消す。
その後直ぐに視界が真っ白になって、そして。
「隼人! 隼人!」
誰かに揺り起こされているのを感じる。なんだか身体中に痛みがある。自分は今まで何をしていたのか思い出せない。
「隼人、大丈夫?」
そう言って、母親が顔を覗き込んで来た。後ろに父親も立っていた。
当たりを見回すと、俺の部屋だった。しかし何が起こったというのだろう。本棚は倒れ、部屋のあちこちにいろんな物が散乱していた。まるで台風が通った後の様だ。
「なんだこれ?」
「なんだこれ? じゃないわよ。隼人、さっきまで独りで暴れてたのよ。お父さんが取り押さえてようやく収まったのよ」
「俺が暴れた?」
まったく記憶がない。
拙い記憶の糸を辿り、なんとか思い出そうとする。そういえば、姫が居たような。
「誰か他に居なかった?」
「誰も居ないわよ。あなた独りよ」
立ち上がろうとして、脚に痛みを感じた。パジャマの裾を捲ると、噛み傷の様なものがあちこちにあった。この傷は、そうだ、あの黒いイノシシに噛まれたやつだ。夢じゃなかったんだ。いや、これは、夢の中の出来事が現実に反映されたのか? じゃあ、あの夢の中で死んでいたら……
「ねぇ、大丈夫なの? 隼人」
「あ、うん、大丈夫、大丈夫。なんか盛大に寝ぼけたみたいねだわ、あはは」
そう告げて両親に部屋から出るように促した。
「片付けは、明日やるから。ごめん。騒がして」
とにかく大丈夫と連呼して、やっとのこと両親を追い出した。
自分にも何が何だか解らない事だらけだ。明日学校で姫に色々聞かなければならないだろう。放してくれるかどうか解らないが、さっきみたいな事がまたあるかも知れないんだ。備えは必要だろう。
このまま、また寝るのは少し怖いが、それ以上に疲れていた。ばたりとベッドの上に倒れた。
怖さよりも睡魔が勝ってしまった。
ああ、そういえば今日、由美にメッセージを送れなかった……
返事が返ってくる事はないと解っているが、それでも送らなければ、由美とは二度と会えなくなるのではないか? そんな不安が脳裏を過った。