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その17 師匠と弟子

 姫がモノクルに付いている歯車を回す。すると、どす黒い瘴気が、彼女の全身を包んだ。それは先程、羽島さんの周りから発生していたものに酷似していた。


「このバカ弟子、そいつは使うなと言ったはずだが? 解っているのか? おまえ、そいつに取り込まれるぞ?」

「あんたを倒す為なら仕方ないでしょ。とっとと、あんたを倒してから、なんとかするわ」


 姫を見ていたはずの景色がぐにゃりと歪む。これは空間が捻れているんだ。肌でそれを理解する。

 歪んだ空間、その歪が白衣の女性に集中していく。その光景に俺の生物としての本能が、死を予感する。彼女の身体に幾つものひびが入っていく。


「砕け散れ!」


 姫が腕を大きく振る。それに合わせて、空間に大きな罅が入る。

 空間が割れる音がした。それはまるで、分厚いガラスが粉々に砕けたような音だった。

 空間の罅が、俺の身体にも達し、引き裂こうとしてくる。

 恐怖に、息が詰まる。

 これまでかと覚悟したとき、姫が手を伸ばして、罅を受け止めていた。


「姫?! あ、ありがとう。助かった」


 焦った顔で眼を丸くしていた姫が、ホッとした表情を見せる。

 そのとき、空間に大きな亀裂が入る。

 申し訳なさそうに笑う彼女の顔が、次の瞬間に吹き飛んでいた。

 そして、血飛沫を上げながら、彼女の全身がバラバラに弾け飛んだ。

 

「バカ弟子が! 最後まで気を抜くなと、いつも言っているだろうが。まったく。まあ、君を守ろうとしたのは褒めてやるがな」


 いつの間にか近くまで寄っていた白衣の女性が、俺の肩を叩く。


「あっ、あの? ひ、姫は?」


 姫の惨状を直視出来ない。突然の事で、頭の理解が追いついていない。


「ん? あー、ご心配には及びません。ここは、夢と同じような世界ですからー。彼女は、こんな事でどうにかなるほど、やわな子じゃありませんので。憎たらしいぐらいタフですからー」


 パチンと指を鳴らすと、視界が鮮明になった。いままでがぼやけていたとは思っていなかったが、こうして今の景色を見ると、さっきまではぼやけていたんだろうと思う。その事で、今までいたところとは違う世界に来たのだと理解する。


 そして、こわごわ姫の姿を見る。

 見ないわけには、いかなかった。たとえどんな姿になっていたとしても、実際に確かめずにはいられなかった。


 そしてそこには、大の字に倒れている姫がいた。身体は繋がっているし、首も飛んでいなかった。

 安堵のあまり、全身から力が抜けて、その場に崩れ落ちた。


「イメージの世界で、ダメージを受けたときにはね、未熟者はそのままダメージを受けちゃうんですがー。こいつはバカですが、残念ながら私の弟子なので、そんなの大丈夫なんですよ。それぐらいには鍛え上げてますんで。今は、ちょっと気絶してるだけですわ。ご心配なくー」


 そう言って優しく笑った。それは俺に笑いかけたのではなく、大の字に倒れている姫に向けられていた。


「俺、いつの間に、別の空間っていうか、夢みたいな空間に入ったのか、まったく気づきませんでした」


 そうなのだ。ずっと俺は普通に、羽島さんの部屋に居て、見えているものは現実だと思っていた。


「それはそうと、もう時間がありません。恐れ入りますが、そこのバカ弟子を抱えて、外へ出てもらえますかー? お家の方が帰って来ますので」

「あ、はい。わかりました。でも、俺がこの部屋にいないと、おかしな事になりませんか? それに羽島さんも、このままにしておくわけにはいかないのでは?」


 そもそも、俺は羽島さんの家に遊びに来ている状態だ。そして羽島さんが倒れたままだ。家の人が帰ってきたら、それはまるで、俺が羽島さんに何かして逃げたみたいじゃないか。それは困る。


「心配には及びません。それは私が上手いことやっておきますから」


 信用できるのか? この人。でも、そのにこやかな笑顔が怖くて、従うしかなかった。逆らったら何されるか解らない。そういう眼をしていた。


 仕方なく、姫を抱えあげて部屋を出る。

 改めて、姫の軽さに驚いてしまう。軽いとは思っていたが、抱き上げると予想以上だった。


「そいつは、寝かせていたらそのうち目が覚めるでしょうからー。外で適当に寝かせておいてくださーい」


 白衣の女性はそう言いながら、部屋に残って何やらしているが、急げという仕草を受けて、慌てて出ていった。

 

 家の外へ出て、ふと我に返る。

 このまま女の子を抱えた状態で、俺は何処へ行けばいいんだろうか、と。


 しばく考えた後、来る途中に見かけた公園へ向かう事にする。公園に着くまでの間、すれ違う人々の奇異な目線が辛かった。通報とかされていないだろうなあ……。


 公園について、ベンチに姫を降ろす。

 さすがに膝枕は、やり過ぎだろうと思ったので、カバンを枕の代わりにして寝かせる。


 姫は、しばらく起きる気配がしなかった。

 乱れた髪が顔に掛かっていたので、整えてやる。


 女の子をこんなに間近に見た事はない。姫の肌は凄く柔らかく、透き通るように綺麗だった。

 いかんいかん。うっかり変な気を起こしそうになる。

 頭を振って、正気を保つ。


 そういえば腹が減ってきた。

 予定では、羽島さんの家でお昼をご馳走されるはずだったのだ。それがこんな形になってしまった。

 何処かで飯を食いたいが、姫をこのままにしておくわけにはいかない。そして叩き起こすわけにもいかない。まあ、こいつが目を覚ますまで待つしかないか。


 ベンチは姫に占領されているので、その横に地べたに座り込む。


 おかしな事になったものだ。

 羽島さんから湧き上がった黒い靄。あれはやっぱり、羽島さん自身から出ていたんだろうな。

 そしてその靄に、俺も取り込まれた。思えば、そのときに夢の世界へ移されたのかもしれない。

 でも何の為に? 俺を取り殺す為に? 羽島さんが?

 姫が俺を助けてくれたのは判る。でもなんであいつとあいつのマスターは戦っていたんだ?

 そしてなんで、姫とマスターは、あの部屋にいたんだ? 判らない。


「お腹、空いた」


 耳元で、突然囁かれた言葉に息が止まる。

 振り向くと、ベンチに横たわりながら、俺を睨んでいる姫の姿があった。


「おっ、おう。起きたのか? 身体は大丈夫なのか?」


 夢世界だったとはいえ、姫の身体はバラバラにされたのだ。訓練されているとはいえ、相当のダメージを喰らっているに違いない。


「大丈夫じゃなぃ。動けない。お腹、空いた。なんか食べたい。何でもいいから買って来て」


 ヘロヘロの様子で、それだけ言うと、ゴロンとベンチに身体を預けてしまった。


「買って来てってお前、この辺りにお店とかねえよ。コンビニすら何処にあるか知らねえし」

「ちっ、使えないわねえ」


 舌打ちされたよ。まったく。こいつときたら。

 本来なら怒るところだっただろう。でも何故か、笑いが込み上げてきた。

 やっぱこいつはこうでなくちゃーな。


 それはそうと、駅の方まで行くと時間かかるしなあ。どうするか。


「ねぇ。結局どうなったの?」


 そうか。姫は気絶していたから知らないんだった。


「お前が倒れた後、お前のマスターに、お前を連れて外へ行けと言われて、現在に至るって感じだ」

「そう」


 そっけない反応だった。


「他にアイツは何か言ってた?」

「いや、別に」


 姫は頭を抑えながら、身体をゆっくりと起こした。


「なあ、お前はなんで、自分のマスターと戦っていたんだ?」


 姫の右目が、鋭く俺を睨んだ。


「聞きたい?」


 それは、聞く覚悟があるのかと問うていた。


「ああ、聞きたいね」


 いい加減、いろいろと理由のわからない事に巻き込まれてうんざりしていた。

 そろそろはっきりとした答えが欲しい。


「アイツが、わたしの邪魔するからよ」


 吐き捨てる様に言った。よっぽど腹に据えかねるのだろう。


「お前は何をしようとしていたんだ?」


 そうだ。姫のマスターが邪魔をする。姫の何を邪魔しようとしていたのか? それが一番重要なポイントだ。


「わたしが追っていた犯人。今回の事件の首謀者。わたしは、そいつを始末しようとしてるのよ」


 ん? 姫が始末をする?


「それってお前、始末専門の組織がやるって言ってなかったか?」

「……、」


 姫は、後ろを向いて顔を隠した。


「前に、あんたに話したよね? わたしの事。わたしね、人を呪うような奴は許せないの。もちろん、今回の犯人は、わたしを呪った奴じゃない。そんな事は解ってるの。でも、でもね、マスターに言わせれば、こんなのは八つ当たりだって事だろうけど、でもね、どうしようもないじゃん。許せないものは、許せないの。佐奈川さんの顔、見たときに、わたし、耐えられなかった。八つ当たりでもなんでもいい。そんな奴が、今も、のうのうと生きているのが許せないの!」


 ベンチから立ち上がり、後ろを向いたまま、姫は叫んだ。

 それは、ずっと溜めに溜めていた負の感情の塊を、身体の外へと吐き出しているように見えた。


「それだけじゃない。あいつは、わたしはプライドも傷つけたの。わたしの不注意で、佐奈川さんがひどい目に遭った。あれはわたしへの当てつけ。わたしに邪魔されたから、あいつは――」


 そして、俺は理解する。

 さっきは、姫のマスターから何も聞いてないと言ったが、一つだけ耳に残った言葉があった。

 だから、解ってしまった。


「姫、お前が殺そうとしたのは、由美に呪いを掛けたのは」


 俺の言葉に、姫がゆっくりと身体ごと振り返る。

 そして俺に、力強く頷く。


「羽島さん、なんだな」


 姫の右目が、それを肯定した。

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