その16 情念
羽島さんの身体から湧き上がる黒い靄が、天井にまで立ち上る。そして天井を伝って広がり、部屋の壁を覆い始めた。
瞬く間に、部屋は漆黒の闇に覆われていった。
これは、夢で体験した空間に似ている。しかし、今、俺は寝てはいない。眠気もない。意識は、はっきりとしている。でも、もしかしたら知らないうちに実は寝ていて、夢の中で今起きていると勘違いしているのだろうか? そんな不安がよぎる。
羽島さんは大丈夫だろうか? 彼女の事が気になって、動く眼だけで探す。
羽島さんの姿は、闇の中に埋もれてしまって見えなくなっていた。部屋全体が、真っ暗に沈んでいた。
彼女の安否が心配だが、俺自身、身体が動かない以上、他人の心配をしている場合ではなかった。
なんとか動こうと、身体を捩ってみるが、全く反応しない。まるで、身体の動かし方が分からなくなってしまったかのようだ。
段々と呼吸が苦しくなってきた。息をする――その方法が分からなくなってしまったのだ。必死で思い出そうと焦る。身体の周りを取り巻く空気が、じわじわと俺の身体を圧し潰そうとしてくる。その強い圧迫によって、身体がべしゃっと潰れるのではないかと想像して、動かない身体が震え上がる。
たすけてくれ、たすけてくれ……
こんな非現実な事が原因で、俺は死んでしまうのだろうか?
息が苦しく、死の恐怖に心が今にも壊れそうになる。
理由も分からず死ぬなんてごめんだ。
こうなりゃ、どんな手を使ってでも生き抜いてやる。
「ひめぇぇぇ! なんとかしろぉぉぉ!」
叫んだ。姫に届けと叫んだ。こんな理由の分からない事象は、あいつ以外に対処出来ない筈だ。藁をも掴む気持ちで叫んだ。もちろん、声は出ない。声は出ないが、彼女になら、きっと聴こえる。そんな確信があった。
「隼人くん、隼人くん―――」
女の子の声が聴こえる。しかし、残念ながら、姫の声ではなかった。そう、この声は前に夢の中で、あのイノシシもどきが現れたときに聞いた声だ。そしてそれはついさっきまで聴いていた、羽島さんの声だった。
何も見えない暗闇の中、身体が侵食されて行く感覚が伝わって来る。身体の外側から内側に、徐々に進んで来る。自分が自分で無いものに変えられていく。そんな恐怖に心が支配される。
意識が薄れていく中、俺は理解した。侵食されているのは身体ではない。これは、俺の心が侵食されているのだ。
自分ではない不快な異物が、心の中を蝕んで行く。いずれは俺の心の全ては、この不快な異物に奪われてしまうのだ。侵食が進むに連れて、俺の心から抵抗感が無くなっていくのを感じる。
姫のやつ、肝心なときに来ねえのな。
もっと色々と、話もしたかったな。
最後に思うのが、あいつの事だなんて、思いもしなかった。
隼人くん……。あいつがいつも俺を呼ぶときの声だ。
その声が木霊する。
パーンという大きな音が響く。
その後、急に肺が膨らむ気配がした。
そしてまた、パーンという音が耳元で鳴る。
そしてまた肺が膨らむ。
三度目のパーンの音で気がつく。
「痛えなぁぁおぃぃ!」
どうやら思いっきり両の頬を打たれていたらしい。頬がヒリヒリする。
視界は暗闇が晴れたのか、逆に眩しくてよく見えない。
「早く起きなさいよ。いつまで寝てるのよ」
その声に現実に引き戻される。
視界が像を結び、そこに片眼鏡の少女が居た。
「遅せえんだよ、おまえ」
ほっとしたあまり、つい軽口を叩いてしまう。
「せっかく人が助けに来てやったのに、それは無いんじゃないかなぁ?」
姫もにっこりと笑いながら、応える。
こんないつものやり取りで気持ちが落ち着いてくる。
「ほら、早く立って」
言われるままに立ち上がろうとして立ち上がれな事に気付く。
「おい。おまえがどかないと立ち上がれないだろうが」
俺に馬乗りになっていた姫が、慌てて立ち上がる。
「ご、ごめん。つい、あんたが中々起きないから」
だからって馬乗りになって往復ビンタとかするか? 普通。
ゆっくりと身体を起こす。手をにぎにぎして、ちゃんと動く事を確かめる。
よかった。異常はないようだった。
ふと、姫の姿に違和感があった。なんだろう。
いや、それより羽島さんは?
部屋を見回し、羽島さんの姿を確認する。
そこで初めて気がついた。
この部屋にもう一人、白衣を着た女性が居ることに。
「あー、君は、早月くん? だったね。はじめまして、ではないね。確か教室で会ってるね。これで二度目だね」
そうだ。この白衣の女性は、羽島さんが教室で倒れたときに来た人だ。
「だけどー、自己紹介がまだだったわねー。本来なら、自己紹介などしないんだけどー、どうせそこのぼんくらな弟子がバラすだろうから、私からちゃんと名乗っとくよ。いいね? 私は、このバカ弟子の師匠のチカっていうの。どうか、お見知り置き、ってまあ、二度と合わない方がお互いの為だとは思うんだけどねー。まあ、とりあえずよろしくってことでー」
チカと名乗った、白衣の女性は、何故か此方を警戒しているような戦闘態勢を取っていた。
状況を姫に訪ねようと、彼女の顔を見る。
その顔は、強い緊張と猛烈な敵意に満ちた眼を、相手の女性に向けていた。
「おい、姫。あの人、おまえのマスターなんだろ? なんだってそんな如何にも喧嘩してるみたいな感じなんだ?」
「こいつが、邪魔すんだよ。だから、ぶっ飛ばすんだよ」
自分の師匠が邪魔をする? なんの?
「姫、わかるように説明してくれ」
「そんな余裕はないわ。隙を見せたらこっちがヤラれるわ」
ヤラれるって? 穏やかじゃないな。どうやらこの二人は、いま戦ってる最中のようだ。
白衣の女性の方を見ると、彼女の後ろに倒れている羽島さんが居た。
「羽島さん?! 彼女は、大丈夫なのか? おい?」
羽島さんに駆け寄ろうとするが、白衣の女性に手で制される。
「あー、大丈夫ですよー。大丈夫です。ご心配いりませーん。ちょっと眠ってもらっているだけです。いずれ目が覚めますから。そ・れ・よ・り・もー」
白衣の女性は、指を振りながら俺に語り掛ける。
「うちのバカ弟子、連れ出してくれないかしら。この部屋に居られると困るのよね。もうじき、この子、羽島さんだっけ? その子のお母さん、帰って来るんでー。私、鉢合わせしたくないんですよねー。不法侵入ですし。でもね、私が先に部屋でちゃうと、そこのバカ弟子が羽島さん殺しちゃうからさあ。解るでしょ? お願いね」
なんだって? 何故、姫が羽島さんを殺すんだ?
「このバカ弟子はねえ、自分の恨みと重ねてるんだよ。要するに、八つ当たりさー」
驚いて姫を見ると、険しい顔をして白衣の女性を睨みつけていた。
そして、そのときになって初めて気がついた。
姫は、制服でもなく、また、メイド服でもなかった。
薄手の黒いコートを羽織り、白のTシャツにデニムのミニスカートという出で立ちだった。
姫の普段着なのだろう。
でも、その格好が気になったわけではない。
俺が気になったのは、姫のコートはビリビリに破れ、裂けた袖から見える素肌から、血が滴っている。
よく見ると、全身が傷だらけになっていた。
「おまえ、その傷は」
「うっさい。黙ってて。これはわたしと、あいつの闘いだから」




