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その15 ずっと、忘れない

「由美か? どうした? 大丈夫か?」


 彼女からの電話に俺の心臓は、はち切れんばかりになった。

 彼女に何かあったかもしれないと、ずっと気に病んでいたからだ。だからこそ由美からの連絡を待っていた。羽島さんが傍にいるのも忘れて、大声で電話に出た。


「ちょっと、なに? いきなり、そんな声出して」


 電話の向こうで、由美は俺の勢いに狼狽えていた。少しばかり気が急いていたようだ。


「いや、だってお前、ずっと連絡が取れなかったから心配したよ。それに電話掛けてくるとか珍しかったからな。それで、何があった? 大丈夫なのか?」


 声の調子から無事なのは解ったが、何故電話して来たのかが気になって仕方がなかった。なにかとんでもない事が起きたのではないか?


「え? や、そんなに喰い付かれると恥ずかしいんだけど……。ほら、前に家に来たときに話した、お母さんが依頼した人がね、家に来てね。その、私の傷を見てくれたのよ」


 依頼した人? そうか、姫に依頼したわけじゃなかったんだな。じゃあ、姫が言っていたマスターって人なのかもしれない。


「それでね、私の傷、治るって。時間は、結構掛かるらしいんだけど、その人が紹介してくれた場所で、治療すればって。だから、それを直ぐに隼人に知らせたくて」


 由美が嬉しそうに話す。彼女のこんな明るい声を聞くのは、随分久しぶりなような気がした。


「なるほど。それで電話したのか」

「うん」

「そっか。よかったな」


 傷、つまり由美の顔の傷だ。それが治るのだ。よかった。ほんとによかった。


「それよりも隼人よ。なんで電話に出なかったのよ?」

「や、すまん、昨日は、なんかめっちゃ眠くて、すぐに寝てしまったんだ。朝に折り返したのに、お前こそ全然出なかったじゃないか?」

「ああ、それ? それはね、治療に行ってたからよ。今日さっそくね」


 なるほど。治療中だったから出られなかったという事か。まったく人騒がせな。俺がどれだけ心配したか。


「それで、どうだった?」

「なにが?」

「治療だよ。効果はあったのか?」

「そんなのすぐに判るわけないじゃない」


 それもそうか。まあ、何にせよ、由美が無事でよかった。


 安心して気持ちに余裕が出来たからだろうか、羽島さんが寂しそうにじっと俺を見ていることに気がついた。もしかしたら、電話し始めてからずっと見ていたのかもしれない。


「ああ、由美、ちょっとごめん。いま出先でさ、そろそろ電話切るわ。また夜にでも」

「あら、そうだったんだ。こちらこそごめん。じゃあ、また夜に」


 スマホの通話を切って、羽島さんに謝る。


「電話、だれ? 佐奈川さん?」


 詰問口調の羽島さんにちょっと怯みながらも、そうだと答える。


「仲良いのね。佐奈川さん綺麗だしね」

「んーまあ、あいつの場合は綺麗っていうか、始めから馴れ馴れしい感じだったからな。それで自然に話すようになったんだ」


 ふーんと、羽島さんはつまらなそうな反応をした。


「ごめんごめん。なんかほったらかしにして」


 ずっと電話したままで放置だったから拗ねているんだろう。


「あ、そうだ、あの本……」


 話題を逸らす為に、さっき見かけたやけにボロボロの本が何か聞こうとして本棚を指差すが、その先に目的の本は無かった。


「なに?」


 羽島さんの問いかけに、なんでもないと首を振った。

 何かと見間違えたのだろうか? ボロボロの本らしきものはどこにも無かった。


「あ、なあ、そう言えば、何か見せたいものがあるって言ってたね? なに?」


 羽島さんは、しばらく俺の顔をじっと見つめていた。

 その瞳は、燃えるように赤く輝いて見えた。

 どういう感情なのか、まったく想像できないので不安が募る。

 どのぐらいの時間が経過しただろうか? 体感では5分ぐらいな感じだが、実際は数秒だったかもしれない。

 羽島さんは、何かを抑える様に、ゆっくりを瞳を閉じた。

 そして明るく眼を開いて、「これよ」と言って抱えていた物をローテーブルの上に置いた。


 それは古ぼけたアルバムだった。


「ねえ、覚えてる?」


 彼女は、アルバムをめくりながら、写真の一つ一つを指差す。

 その写真には、幼い頃の俺と、羽島さんが写っていた。

 正直、写真を見ても記憶には無かった。一緒にベビープールで遊んでいる二人の姿があった。

 そんな事もあったのだろう。隣同士で同い年だし、家族ぐるみで一緒に遊ぶ。普通の事だ。

 とは言え、もう幼い頃の記憶は定かでは無くなっていた。羽島さんとの記憶は、昔、そんな子が居たな、ぐらいだ。


 しかし彼女は、ずっと覚えているようだ。まったく覚えていない事に罪悪感を感じる。


「あんまり、昔の事、覚えてないや。でもなんか懐かしいって感じる」


 出来るだけ親しみ深いニュアンスを乗せて伝えた。


「わたしは、ずっと覚えてるよ」


 捲られていくアルバムには、花見をしている写真や、庭先で一緒に浴衣姿で花火をしている写真など、何枚も二人の姿が写っていた。


 羽島さんは、一枚一枚確かめるように眺めながら、アルバムを捲り、そして何も写真がないところまで捲り終えた。

 アルバムはすべて俺と羽島さんが写ったものだけだった。


「わたしは、ずっと待ってたの。この続きを貼っていきたいって」

「ああ、そうなんだ」

「でも、隼人くんは、そうじゃないみたいね」


 背中にヒヤリと冷たい汗が流れる。

 それは、羽島さんの声音に、怒りを感じたからだった。


「何も覚えてないみたいね」


 いやいやいや。幼馴染だといっても、幼少の頃の話だ。ほとんど覚えちゃいない。普通そうだろう?

 

 「それにわたしと居ても楽しく無さそう」


 その言葉には、寂しさと苛立ちがないまぜになっていた。こういうときは、いったいどうすればいいのだろう。女の子と話す事に慣れているとはいえ、こんなネガティブなタイプとは関わった事が無かった。


「そんな事ないよ」


 すっかり動揺してしまった俺は、そう呟くのが精一杯だった。もっと上手く誤魔化す良い言葉が無いか、脳内で探し回ったが、何も出てこない。いや、そもそもなんで誤魔化す必要がある? 幼少期の事なんて、普通ほとんど覚えてないだろう?


「わたしはずっと覚えてる。隼人くんもずっと忘れないって言ってた」


 別れ際に、そんな言葉を掛ける事はあると思う。しかし、さすがに覚えてない。


「わたしってさ、昔っからこんな感じだし、隼人くんと別れてから、新しい環境に馴染めなくて。引っ越し先のご近所でも、新しい学校でも人と上手くやれなくて、友達も出来なくて。ずっと隼人くんの事ばかり考えてた。あなたとまた逢えたら、わたしは変われるかな? って思って、もう一度逢う方法ばかり考えてた。ずっと、ずっと、このときを待ってたのよ」


 俯きながら、自分の思いを告げる彼女を見ながら、なんと返事をするべきかを考えていた。

 この子の時間は別れてからずっと止まっているに違いない。俺には記憶がないが、きっとそのときの楽しい記憶を引きずっているんだ。そしてそれを取り戻そうとしているんだろう。


「まあ、覚えてくれたのは嬉しいけどさ。今は今じゃん。これからまた新しく始めたらいいじゃんか」

「これから始める?」


 顔をあげて、ぽかんっとした表情で彼女は俺を見た。


「そう。俺は昔の事は忘れてしまったけどさ、今からまた一緒の記憶? 思い出、みたいなもんをさ作っていったらいいと思うんだよ」

「今から一緒に……」


 顎に手を当てて、羽島さんは考え込んだ。

 なんとか乗り切れるか? 正直言って、彼女の様な粘着気質はちょっと苦手である。由美の様な男友達のようなカラッとした感じや、姫みたいな捕らえところのない感じの方がいい。

 とはいえ、ぞんざいは扱えなかった。タイプとしては苦手とは言え、幼馴染ではある。愛着がないわけではない。


「でもきっと、隼人くんは、どこかへ行っちゃうんだ」


 彼女の言葉と共に、部屋が急に薄暗くなるのを感じた。嵐でも来るのかと思うような、そんな空気感だった。居畳まれずに窓を開けようと立ち上がろうとしたが、身体が動かない。

 身体の周りの空気によって圧迫されているように、手足がピクリとも動かせない。

 何か良からぬ者の攻撃だろうか?

 羽島さんの事が心配になり、視線を動かして確認する。顔も動かせないため、眼球が動く範囲しか見れなかった。その視界の端に、羽島さんの姿があった。

 彼女は俯いたまま座っていた。


 そして、彼女の周囲に、どす黒い(もや)が立ち上っているのが見えた。

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