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その13 十年前の記憶

 少しの沈黙のあと、羽島さんは、指さした腕をゆっくりと降ろしながら、ぽつりと呟いた。


「十年前、私は、ここから引っ越したの」


 十年前―――。俺は産まれてからまだ一度も引っ越しを経験した事がない。つまり、十年前もこの場所に住んでいる。ということは羽島さんは、お隣さんだったってことか? 記憶の糸を手繰る。おぼろげに、幼い頃一緒に遊んでいた女の子が居たような気がする。

 でもその子は確か、名前が……


「まだ思い出せない?」

「お前なのか? あきあき?」


 あきあき。そう呼んでいた。あのときの彼女の名前は


「秋山亜紀」


 あきやまあきだから、あきあき。そう呼んでいた。


「覚えてくれていたんだ。よかった。」

「でもおまえ、名前が」

「うん、あの後、両親が離婚してね。私はお母さんに引き取られたの。羽島は、お母さんの元の姓」


 そっか。世間ではよくある話だ。実際に自分の周りで直面するのは初めてだが。


「なんかごめん。悪い事聞いたな」


 気の利いた言葉が思いつかず、よくある返答しか出来なかった。


「大丈夫だよ。もう十年も前の話だし」


 引っ越したのも十年前と言った。だったらもしかしたら、離婚がきっかけで引っ越したのかもしれない。とはいえ、流石にこれ以上訊くのは躊躇われた。

 何か言うべき言葉を探していると、羽島さんの方から「これ、覚えてる?」と訊いてきた。

 羽島さんは、首に手を入れて、中からビーズで作られたネックレスを取り出した。先日、鷹野さんに突き飛ばされたときに散らばったやつだ。


「これ、引っ越しの日に、隼人くんが、ここで渡してくれたやつよ」


 言われてみて、初めて記憶が戻って来る。そうだった。完全に忘れていたが、確かにそれは、俺が別れ際に渡したやつだった。

 あきあきが引っ越すと聞いて、何か渡す物はないかと考え、おもちゃ屋で探した。女の子だからアクセサリーがいいと、当時の俺の単純思考で買ったものだ。


「まだ、持ってたのか?」


 教室で散らばったそれを見たとき、この子は高校生にもなってそんな物を付けているのかと苦笑した自分が恥ずかしい。あの後、羽島さんに言わなくてよかったと心底思った。


「うん。大切なものだから」


 そう言った後、悲しそうな顔になる。


「ごめんね。壊しちゃって。()()()()


 見ると、ネックレスは菱形の飾り部分が下半分ぐらい無くなっている。


「教室で散らばったの、掻き集めたんだけど、どうしても見つからなくて、こんな形に」


 俺にとっては大した事じゃない。そんな重い気持ちを込めて贈ったものでもない。しかし、羽島さんにとっては、とても大事な物になっていたのだ。だから、安易に気にしなくていい、なんて事は言えなかった。言えるとしたら……


「それのお陰で再会出来たのかもな。だから役割を終えたんだよ。だから、これからはまた―――」


 別の何かをあげようと思ったが、軽はずみな事は言わない方がいい気がして、言い淀んだ。


 俺を見上げた羽島さんの口は、何か言いたげに動いたが、声にはならなかった。


「折角だし、上がって行くか?」


 自分の家を親指で指して誘うが、彼女は躊躇いを見せた。


「あ、そうか、ごめん。体調悪かったんだったな。つい。」


 話の流れでうっかり言ってしまった。自分の配慮の無さに自己嫌悪だ。


「あ、いや、違くて、あの、私こそごめんなさい。嘘、ついてた。体調は元々、全然大丈夫なの。此処に一緒に来たら思い出して貰えるかなと思って。私の家は、この辺じゃないの。本当はもっと遠くて……、別の駅なの。帰るのに、ここからだと1時間ぐらい掛かるし、遅くなると、お母さんが心配するから。ごめん。せっかく誘ってくれたのに」


 なるほど、嘘では無いようだ。じゃあ、保健室のときから、そのつもりだったのか。わざわざ嘘ついてまで別駅で降りてここまで来たのか。まあ、体調が悪いのが嘘って言うなら、その方がいい。


「そっか。じゃあ駅まで送るよ」

「や、いいって。流石にそれは。また往復しなきゃだし」


 羽島さんは、全力で両手を前に突き出して固辞した。これは本当に遠慮しているのだろう。ならば、それに従う方が良さそうだ。


「わかった。じゃあ、また明日な」


 彼女は「うん」と、明るく笑って軽快に歩き去っていった。


◇ ◇ ◇


 次の日も、姫は学校に来なかった。

 姫だけじゃなく、由美や鷹野さんも休んだままだった。

 鷹野さんについては亡くなったというような連絡は、教員からはない。

 であれば、やっぱり生きていると考えるのが正しそうだ。あれは、噂話に尾ひれが付いた結果なのだろう。


 そして、お昼休みになると、当然のように羽島さんがやって来た。なんかもう、お昼は一緒に食べるのが当たり前という感覚の様だった。

 あまり仲良くすると、羽島さんにも被害が及ぶ。そう解っているから遠ざけたいが、昨日の今日である。積もる話もあるだろうから、無碍には出来ない。


「あ、ごめん。わたし、勝手に座っちゃって。もしかして、迷惑だった?」


 彼女は既に座っていて弁当の包みを解いた状態だった。ここで迷惑だからあっちへ行けとか、言えるわけがない。


「いや、いいよ。昨日あまり話せなかったしな。色々と話したい事もあるんだろうし」


 それから、羽島さんは、十年前の引っ越しの日から、両親の離婚、向こうの小学校での話や、中学になってからの事を延々と話し始めた。余程、溜め込んでいたのだろう。堰を切ったように、喋り続けている。食事の方は、まったく進む様子がなかった。俺は取り敢えず、うんうんと相槌を打ちながら自分の弁当を食べ続けた。


「でもよかった。隼人くんと同じ高校に入れて。わたし、幸運よね」


 そういえば、羽島さんの家からこの学校は遠い。なんでわざわざって訊くのも野暮か。


「俺が入学すると思って受けたのか? そんな確証なかっただろうに」

「うんうん。そこは賭けだったわ。わたし、割と賭けに強いのかも?」


 ケラケラと笑って、ようやく食事を始めた。

 俺の方はとっくに食べ終わっていたが、弁当は、まだ片付けず、そのままにしておいた。


 同じクラスになって出会った羽島さんは、誰とも触れ合わず、いつも独りでいる感じで、笑った姿を見た事がなかった。

 いま目の前にいる羽島さんは、幸せそうな笑顔を浮かべている。 


 幼少期の頃の彼女の事は、ほとんど覚えていないので比較はできないが、もしかしたら十年前も、こんなふうに笑っていたのだろうか?

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